79. 二人の側室
女たちの支度が済む前にと、俺は勘定方の詰め所へ向かった。
足取りは重く、心は諦めの境地に達しつつある。どうせ何をやっても無駄だという考えが、じわじわと頭の中を侵食していく。頑張ったつもりでも、それが全て徒労に終わる。だったら必死になっても疲れるだけだ。
なるようにしかならない。
「吉兵衛はいるか?」
「あ、はい! すぐに呼んできますっ」
貞勝一人だけだった部屋は、十人前後の文官で埋まっていた。
その中で新入生みたいな初々しい若者が立ち上がり、すぐさま奥へ駆けていく。ほぼ十代から二十代と思われる彼らは書類片手に、ひたすら算盤を弾いていた。使い手のいなくなった算盤を手に取り、じゃらりと鳴らす。
小学生の頃、これで遊んだこともあったな。
文具で遊ぶなんてと怒られたものだが、この時代ではそういう発想すら沸かないだろう。数年前までは演算術なんて誰も使えなかったのに、今ではジャラジャラと音が鳴り響いている。
「考案者としては、感慨深いですか?」
「だから、なんでお前はいつも後ろに立つんだよ」
「愚考いたしますに、雑談をしている暇はありません。早く参りましょう」
「お、おう。またな」
「はい!」
名を聞くのは次でいいか。
貞勝に急かされて歩き出しながら、きらきらした目で見上げる若者に声をかけた。ちょうど今気付いたとばかりに、文官たちが硬直している。慌てて平伏しようとする者、算盤を飛ばしてしまう者、指を差して震えている者などなど十人十色の反応だ。
ちょっと面白い。が、俺は化け物か何かか。
「皆、殿のことを尊敬しているのですよ。演算術なくしては、今の仕事量はとてもこなせません。作業効率の上昇はとても素晴らしいことです。これまで目を向けられなかった内外への情報収集も行えるようになりました」
「不正や賄賂の取り締まりはほどほどにしろよ? 締め付けすぎると、厄介なのが出てくる」
「仰せのままにいたします」
若干不満そうではあるが、必要性の理解はしているようだ。
俺は厄介事や面倒事を特に嫌う性分である。そうでなくとも、短期間で気落ちするような出来事ばかりが起きるから頭が痛い。さっさと片付けて、奇妙丸と遊びたいものだ。
ああ、道三には孫の顔を見せてやれなかった。
「そういえば、美濃方の数名が織田家の傘下に入りましたことはご存知でしょうか」
「清州入りしたのは知っている。顔見せはまだだが」
帰蝶も知らなかった道三の末息子や、蜂須賀小六らのことである。
義龍に刃向かった以上は美濃国にいられず、俺を頼ることにしたらしい。寺を間借りするとか言い出すので、秀吉に命じて数を増やし始めた武家屋敷に放り込んである。
「このままだと無駄飯食らいになるが、それなりの身分を持つ奴らだからなあ。側近の誰かに世話をさせようと考えている」
「そう仰ると思いまして、既に通達を済ませております。中でも木下殿の配下となった蜂須賀殿は、殿のご側室を護衛する任務を見事果たしたとか」
「それだ」
「……殿。発言は明瞭簡潔にお願いいたします、と常々申し上げております」
「俺は側室を迎える気なんざねーっつの!」
「と、いうことですが?」
貞勝があらぬ方向を見て話しかけている。
すわ幽霊かと肝を縮める俺の視界に、若い女が入り込んだ。
小動物のように、ぷるぷる震えている。その後ろでは、今にも腹を抱えて笑い出しそうな長康まで控えていた。ちなみに本日の衣装は明るい紫色だ。目に痛くないが、すごく目立つ。
「う、嘘だったんですか」
「おい」
「お寺での話は、嘘だったんですか?! お世継ぎもいるし、満足に子も産めないような女はいらないっていうことですかあっ」
「そこまで言ってないだろ。落ち着け、栗鼠娘。それと世話をしてやるとは言ったが、側室に迎えると明言した覚えはない」
「娘じゃないです、吉乃です! そんな年頃でもないですっ」
「あ、悪い。うっかりポロッと本音が」
物静かな帰蝶と違って、吉乃もきゃんきゃん煩い。
女三人寄れば姦しいというが、奈江と吉乃の二人が帰蝶の分まで騒ぐ絵が目に浮かぶ。どうしてこうなった。一体、どこに側室フラグが立っていたというのだ。
「おやおや、既に通称を考えておられたとは。早くも寵愛の兆しが見えるようですねえ」
「ちっげーよ!! どこを聞いてやがんだ、長康。っていうか、側室の件はお前が広めたんだろうが。おかげでお濃にまで、変な誤解されたんだぞ!」
「これは異なことを。お世話すると決めたのは、ほかならぬ我が君でございましょう」
「ええ、自分もそう聞いております。武家でないとはいえ、生駒家の人間を下女にするわけには参りません。他の者に娶せるならともかく、殿がご自身で世話をすると申し出られたのでしたら、ご側室に迎えられる以外はないかと存じます」
「長康、吉兵衛」
「私のことも将右衛門とお呼びください、我が君」
「わたしは吉乃です。吉乃と呼んでください」
「あーあー、うるせえうるせえ」
落ち込む暇もない。
俺は両手で耳栓をしながら、ずんずん歩き出した。帰蝶はいつもの部屋で待っているだろうから、そこで事務的な話をすれば側室決定だ。細々とした日常品は長康が、側室を迎えたことへの周知は貞勝がやってくれる。
途中で長益が所在なさげに立ち尽くしていたので、猿を呼びに行かせた。
面倒事はまとめて片付けてしまおう。
「ふふ、若いですねえ」
「長康?」
「こちらのことです。お気になさらず」
含みのある笑みで言われても説得力がない。
長益の去った辺りを眺めていたのだから、まわりまわって俺に無関係とも言えないだろう。じーっと見つめても、長康は口を割る気配がない。
諦めて部屋へ向かうと、既に関係者が揃っていた。
「お濃、悪い。待たせた」
「それほど待っておりませんわ。それで、そちらの方は?」
「は、はい! 生駒家宗の娘、吉乃と申しますっ」
「……吉乃殿、こういう時は我が君のお言葉を待つのが礼儀ですよ」
「ええっ、そうなんですか!? わ、わたしったら……」
青くなって慌てる吉乃を促し、俺たちは部屋に入った。
帰蝶の後ろには侍女が一人控えていたが、やはり由宇ではない。彼女の左側には、身綺麗にされた奈江が消沈した様子で項垂れている。まるで侍女が二人いるような位置取りになっているが、俺は特に何を言うでもなく定位置に座った。
吉乃は長康が誘導し、貞勝は帰蝶と対面する形で腰を下ろす。
すかさず右筆が準備を整えるのを見やり、俺はわざとらしい咳払いをした。
「お濃」
「はい」
「すまん!!!」
その場にいた全員が驚き、目を瞠っている。
もちろん、いきなり俺が頭を下げたからだ。土下座はダメ絶対ときつく言われたので、胡坐の姿勢は崩していない。股の間に頭を埋める勢いでがばり、と下げた。
分かりやすく誠意を示すやり方が、他に思いつかなかったのだ。
「あ、あなた、顔を上げてくださいませ。わたくしに謝られても困ります」
「俺は二つも約束を破った」
帰蝶はハッとするが、何も言わない。
ある者は興味深げに、ある者はハラハラと見守る中、彼女はゆっくりと首を振った。俺たちの間に言葉はなかったが、長いようで短い沈黙が全てだ。
浮気じゃない。不倫でもない。
この時代は一夫多妻制が当たり前にあって、お家存続のために必要だとされてきたことも知っている。それでも生涯ただ一人を愛し続けた男もいるし、数えきれない女たちを侍らせていた男もいる。俺は前者になりたかった。
しばし瞑目して、息を吐く。
「吉乃と奈江を側室に迎える。吉乃、それでいいな?」
「はい! 精一杯お仕えさせていただきます」
「お濃、生駒家は何かと役に立つ。その辺は長康が詳しいから、管理体制なんかの話はそっちでやってくれ。必要であれば、事後承諾でもかまわん」
「ふむ、ご正室様が気に入る品物をご用意できればいいのですが」
「その辺の女と一緒にするなよ、長康。先日からお濃は、俺の参謀に就任した。収支関係について本格的に勉強しているんだ。なあ、貞勝」
「はい。ついこの間、演算術も習得なされました。一昨日に行われました津島との交渉も滞りなく済んでおります。侍女に護身術を習得させる件は、後程ご相談させていただきたく存じます」
「うむ」
「なにそれ!? ひどい、そんなことまでさせているの?」
思わず、といった様子で奈江が声を上げる。
すぐに怒っているのが自分だけだと気づいて、たちまち委縮した。商家の出身である吉乃は困惑しているし、帰蝶は不快さを隠していない。サイボーグ疑惑のある貞勝はともかく、長康も俺の考えをおかしいとは感じていないようだ。
「どこが酷い? 帰蝶は一通りの学問を修めているし、才を生かす覚悟もある。子育てに関しては頼もしい協力者が何人もいるんだ。無理を強いているわけじゃない」
「当主の命令は絶対でしょ! 逆らえるわけないわ」
「どこの常識だ、それは」
俺が嘲笑を含んで言い返してやれば、帰蝶はため息を吐いた。
「奈江、お前の行動が矛盾していることに気付いていないのですか? 逆らうことができないというのなら、上総介様に口答えをすること自体許されませんよ」
「うっ」
「吉乃、お前も覚えておきなさい。二人は上総介様のご温情を受け、側室に召し上げられるのです。これ以後、上総介様のご不利になるような言動は慎みなさい。この方を貶める行為は、わたくしが許しません」
「は、はい」
感動した。俺は今、猛烈に感動している。
帰蝶が男だったら大変なことになっていただろう。格好良すぎる。由宇が心酔するわけだ。性別逆転したとしても、やっぱり帰蝶の嫁になりたい。
「殿、顔が崩れております」
「おう」
最近、その指摘を何度か受けるな。
意識して表情を引き締めて、孤立無援となった女を見つめた。気分は異国へ紛れ込んでしまった放浪者か。伊勢(長島)から尾張へ来たのだから仕方ないところもあるだろう。持論が正論で砕かれ、ぺたんと座り込んでいる。
ちなみに吉乃は、頬を染めていた。こっちも案外、図太い。
「あなた」
「ん?」
「吉乃に何か覚えさせてもかまわないかしら。生駒家の者なら、ある程度は知識があると思うのですけれど」
「はい、覚えます! 上総介様と帰蝶様のためになることでしたら、何でも頑張ります!!」
「本人がやりたがっているならやらせたいが……。長康?」
「ふふ、教育係にご使命ですか。家長も稼業で忙しいでしょうし、こちらで仕込める者は仕込んだ方がよさそうですね。モノになるかは別として」
「生駒家は代が替わったのか?」
「……はい、父は亡くなりました。今年の、春に」
淡々と述べる吉乃に、かけるべき言葉が見つからない。
なんということだ。
生駒家と取引するようになったのはここ最近の話で、いずれ当主に会ってみたいと思っていた。側室とはいえ、織田家に嫁ぐことになるのだ。家宗は俺にとって二人目の舅殿になるはずが、永遠に挨拶の機会を失ってしまった。
そっと帰蝶が手を握ってくれる。
彼女もまた父を喪ったばかりだというのに、俺を気遣ってくれる。その強さと優しさに縋りたくなるのを、ぐっと堪えた。今はまだ、ダメだ。
「奈江」
「なに……でしょうか」
「長島で何があった? 返答次第では命にかかわるから、よく考えて話せ」
彼女は本日三度目の注目を浴び、顔を歪ませた。
生駒家宗:通称を蔵人。家長、吉乃(生駒家文書では「類」と伝わる)の父。
馬借から成り上がって、織田家に仕える武家になった生駒家三代目当主であるが、家宗の代まで犬山城主・織田信康の家臣だった。本作では家宗まで商家という認識で、家長から織田家家臣へ昇格する。
生駒家長:通称は八右衛門。吉乃の兄。主人公は商売人として臣下へ迎え入れたつもりだったが、恩義に報いるための戦働きで何度か主人公を助けることになる。普段は物静かだが、内に熱いものを秘めているタイプ。
生駒吉乃:主人公の側室・生駒の方。
美濃動乱で夫を亡くし、実家に帰りたくないがために政秀寺で待ち伏せをする。よくて側女と思っていたら、ちゃんとした待遇を与えられて非常に感動。帰蝶とも仲が良く、尾張の女たちを先導する存在へ成長していく。
奈江:同じく側室・お鍋の方。
楠木家所有の長島屋敷で働く武家の娘だったが、とある事情で伊勢国を出奔。主人公を頼って、押し掛け女房的に側室へ収まる。思い込みが激しく、思慮に欠ける言動が目立つ。基本的にお人好しで世話好き。妻の中で最も若いのに、年上にみられるのが最近の悩み。




