67. 賭け
刃と刃がぎしり、と重なり合う。
さながら、前世で見た映画のワンシーンのようだった。間に立っていた男は悲鳴を上げた口から泡を吹いて、そのまま崩れ落ちる。九郎は泣きべそをかきながら、俺の体にしがみついた。
「秀貞?」
「いかにも」
林(兄)の登場だ。
互いに顔も見たくないと思っているはずなのに、よくよく会う運命にあるらしい。闇に乗じて脇差の狙いを変えた俺とタイミングを合わせるには、どこかで様子を伺っていなければ無理だ。再び月が顔を出して、互いの表情も明らかになる。
憎々しげに、あるいは苦々しくお互いを睨む。
「そんなに俺の命がほしいか」
「三代に渡って仕えた主の首を獲ろうなど、考えてはおりませぬ」
「はん。そこのおっさんは殺す気満々だったぞ」
ぶっちゃけ、俺史上最大の賭けだった。
地上よりも高い位置の方が風は強く吹いている。雨を予感させる厚い雲が空を覆いつつあったのも気付いていた。辺りが闇に包まれる一瞬、美作守が勝利を確信した隙をつく。
逆手に握った柄を、右手首で支えた。
太刀の相手をするには、ちょっとばかし荷が重い。
九郎がいるので飛びのくこともできず、早く引いてくれないかなと内心で願う。都合のいい話だが、今は「首を獲るつもりがない」意志に期待したかった。
さんざん憎んでいた運命に頼っているのも否定しない。
ここで死ぬ運命じゃないと分かっているから、俺は賭けに出た。美作守が俺に対してビビっていると確信していたから、恐れることなく動くことができた。完全に運任せとしか言えない選択を、誰も褒めてはくれないだろう。
クソジジイが超絶不機嫌なのは、弟のこともあるかもしれないが。
「……愚弟を見逃してくださるなら、このまま退きまする」
「ついでに信行派の蜂起も止めさせろ。今は身内で喧嘩している場合じゃない。今川と武田、北条が同盟を組んだ。武田は上杉とやり合っているが、今川は尾張を諦めちゃいない」
「うつけに、この国が守れるとでも?」
「守らなきゃ大事な奴らが死ぬ」
九郎のしがみつく力が強くなった。
「兄上、人が来ます」
「ようやく気付いたか」
「もう一度申し上げる。この場を見逃していただきたい」
俺は少し迷う。
この二人が信行派の中核であれば、選択の余地なんかなかった。
だが情報と推測が正しければ、信行派を主導しているのは別の人間だ。大和守信友と坂井大膳が消えて、守護職も代替わりした。織田本家という後ろ盾はとっくに失われている。
今や織田本家の当主といえば、俺のことだからだ。
もう一つの織田家はまだ健在だが、新守護職を味方につけた俺に正面から歯向かう気概はないらしい。それでも信行派と手を組むなら、話は違ってくる。
長秀は、時を延ばしただけだと言っていた。
どうあっても、一度やり合わなければ気が済まない。おそらく、俺が信行と正式に和解するためにも必要なメソッドだ。
「三郎殿!」
「三郎、何事だっ」
二人とも就寝中だったようで、取るものも取りあえず出てきた無防備さだ。
抜身の刀を見て、信光叔父貴が表情を険しくする。
「林殿。これはどういうことか、詳しく説明していただけるかね」
「…………」
「叔父上、彼らの処遇を預けてもよろしいでしょうか」
「うむ。任されよ」
力強い返事を得て、俺は脇差を下げようとした。
美作守は目覚める気配がないし、これで一先ず事態は収拾に向かったと気が抜けてしまったのだ。気が付いた時には鬼神のような顔と、白刃が迫っていた。
血の気が引く。ヤバイ。
動けない俺の代わりに、信広が動いた。素手で振り下ろされる刀を弾いてしまったのだ。どれくらいの勢いがあったのか、林のジジイがたたらを踏む。
「す、凄まじい踏み込みと力よ……!」
「馬鹿兄! 刀を殴る奴があるかっ」
「助けてもらって、その言い草はなんだ。命拾いしました、ありがとうございます兄上様だろう!?」
「誰が呼ぶか、気色悪い」
「う、ぬぬぅ……っ、助け甲斐のない奴め! このような大うつけ、もう知らぬっ」
相変わらずの大きな声でまくし立てて、信広が退場する。
残された俺たちはすっかり毒気が抜けてしまい、ジジイもがっくりと肩を落としていた。林兄弟は信光叔父貴預かりとなり、那古野城に留め置く仕儀となる。
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翌朝、俺は一人で那古野村に来ていた。
当初の予定通り、いくつかの薬草を得るためである。帰蝶のためだと言ったら嫌な顔をするかと思えば、幸はすぐさま森へ向かってくれた。頼れる妹分をもって、俺は幸せだ。
九郎は熱を出して寝込んでいる。
さすがに精神的な負担が大きかったようで、朝から苦しそうに呻いていた。悪い夢を見て魘されてなきゃいいが、俺にはどうしようもない。みすみす怖い思いをさせた罪悪感だけが募る。
「ふうん、小一郎は文官狙いなのか」
「はい! その方が兄上の役に立てると思うので」
暇を持て余していた俺の話し相手、木下小一郎だ。
どこか騒々しく落ち着きのない木下家の中で、最も温和な性格といってもいい。彼がまだ幼い頃に秀吉が家を飛び出したというが、兄の為に尽くそうという心がけは天晴なものだ。
隣で汗をぬぐっていた弥五郎が口を挟む。
「今はともに、馬廻り衆の小者をやっているのだろう? 勉強している暇などあるのか」
「はい。兄上が色々と書物を貸してくださるので、少しずつですが……」
少年期のあどけない顔を紅潮させ、旺盛な知識欲を覗かせる。
ほほう、秀吉も兄らしいことをしているようだな。感心、感心。
庶民レベルの識字率の低さは如何ともしがたいが、身内を優先してしまうのは十分共感できる。秀吉が晩年になるまで男児が生まれなかったことを考えると、小一郎は豊臣時代の重要人物になるのかもしれない。実弟だから、影響力も大きいだろう。
「木下家の男児は僕だけなので、一番傍で兄を支えたいのです」
「うむうむ、励めよ。小一郎」
「はい!」
「幸さん、遅いな……」
すっかり農夫と化した弥五郎がぼやく。
「まだ結婚の了承はもらっていないんだろ? 長期戦になりそうか」
「あなたにだけは言われたくありませんよ。幸の気持ちを知っているくせに」
「えっ」
初耳らしい小一郎がびっくりしている。
「いくらなんでも、弾正忠家に嫁ぐのは無理がありますよね?」
「違うっ。私のところへ嫁いでもらうんだ!!」
「で、でも今」
「小一郎、俺は嫁一筋なんだよ。お濃しか見えていない」
「そうなんですか」
「来年には子供も生まれるしな! 盛大に祝ってくれてかまわんぞ、ふはははっ」
「おめでとうございます、信長様」
「殿、おめでとうございます。ご嫡男であるといいですね」
細かいことを気にする恒興は、那古野村の民が諱で呼ぶのを快く思っていない。
殿様、あるいは上総介様と呼ばれることもある。
それでも俺は「信長」と呼ばれるのが好きだ。ノブナガという響きを聞いているだけで、俺が俺として生きている実感がわく。かつて情報不足程度にしか思わなかった記憶の欠落が、今になって寂しさを伴うようになってきた。
弟たちの成長や、生まれてくる子供の話をするようになったからか。
ろくな子供時代じゃなかった、という気はする。
うつけと呼ばれるようになったのは、前世の記憶が溢れる前だ。そんな風に過去を振り返りたくなるのは、死を間近に感じたからだろう。殺される覚悟もないのに、己の命を天秤にかけた。今更になって、とんでもないことをやらかしたという実感に震えてくる。
平手の爺が聞いたら、激怒しそうな話だ。
あの瞬間、初めて「生きている」感覚を得られたなどと――。
前世の記憶が溢れて以来、どこか絵空事のように感じていたのかもしれない。戦国時代を体験している気分といえばいいのか。帰蝶が妊娠して、腹がでかくなるのを毎日見ていてもよく分からない。
子が生まれるということ。俺に娘か、息子ができるということ。
「嫡男、なあ。父親になるって、どういう気持ちなんだろう」
「父親になれば分かるのでは?」
「小一郎、それでは答えになっていない」
「そういう弥五郎こそ、父親の何たるかを分かっていないだろ」
「じ、自分はいいのですっ。それ以前に、……もごもご」
意外にヘタレな弥五郎である。
惚れっぽくてフラれ続けている秀吉の弟は、生温い目で見守っていた。こいつらはともかく、いい加減に舎弟どもも結婚すればいいのにな。さんざん嫁の良さを諭してきたのに、一向に祝言を上げる気配がない。婚約者すらいない。
痺れを切らした俺が後に、いくつかの縁談をまとめることになるのだが。
「どいつもこいつもロリコンかよ!」
と叫ぶ未来が待っていることを、まだ誰も知らない。
不意打ちを仕掛けた秀貞ですが、本気で命を獲るつもりはありませんでした。
もしも主人公が「主君に刃を向けた罪」で処罰をする方向を定めた場合、秀貞が弟の罪まで被る覚悟でやらかしたパフォーマンスでもあります。
もう主人公を織田家当主として認めるしかないと分かっていても、納得できない林兄。当主たるべきは信行しかいない、と考えている林弟。
木下小一郎:幼名を小竹。後の豊臣政権ナンバー2、豊臣秀長。
偶然にも信光と知り合う機会があり、内政面の手ほどきを受ける。はれて文官になった暁には村井民部丞に捕獲され、昼夜を問わない激務へ身を投じる運命が待ち受けている。




