66. 待ち伏せ
※年長者を貶す表現があります
帰蝶は床に伏していることが多くなった。
体の弱い方ではなかったのだが、特に悪阻がひどいようだ。食事が喉を通らないため、体力がどんどん落ちていく。動くことも辛いので、筋肉が衰えていく。
彼女が死ぬ。
そう考えただけで、俺の心は黒い何かに飲み込まれそうになる。由宇には「見舞いへ来い」と怒られるが、情けない顔を見せて余計に心配させるのが嫌だ。
子供の為に彼女が頑張っているのに、男は何もできないのか。
考えて、考えて、俺は清州城を飛び出した。
「九郎、大丈夫か?」
「は、はい」
「もっと強く握れ。落ちても知らんぞ!」
「はいっ」
ひしっと抱きつかれるなら女がよかった、とか思っていない。
栗鼠娘の実家生駒氏から駿馬が届いたので、さっそく俺が使うことになった。馬にも相性があるというが、あっさり背に乗せてくれる頭のいいやつだ。急いでいるのも理解して、鞭を振るわずとも疾走してくれる。
おかげで小さな九郎が、ぽんぽん跳ねている。
何か言いかけていたのを「舌を噛んで死ぬ」と脅したら、真っ青な顔で一言も喋らなくなった。那古野村へは、那古野城よりも近い。日が沈みかける前には、なんとかたどり着いた。
間の悪いことに、幸は隣村の応援へ出ているらしい。
明日には戻ってくるということで、俺たちは那古野城へと進路を変える。
すっかり元通りになった村で厄介になるわけにはいかない。そうでなくても実験用地として一部の畑を間借りし、稲以外の作物を育てているのだ。貴重な食糧を奪いたくはなかった。
篝火を頼りに城門へ向かい、無理を言って開けてもらう。
「さすがに疲れただろう。ゆっくり休め。明日も頼むぞ」
労わりの言葉と共に首を撫でてやれば、馬は一鳴きして自ら厩へ向かった。
頭良すぎだろ、あいつ。
慌てて当番の小者が追いかけていくのを見送り、俺たちは城内へ入る。城門兵から知らせが駆けていったようで、宵の入りだというのにばたばたと騒々しい。
追加された篝火が、風にあおられて大きく揺れている。
「悪いことをしたな……」
「兄上は織田家当主なのです。これくらい当然です」
「九郎。与えられることが当たり前になったら、人は腐るぞ」
「く、腐るのですか!?」
「ああ、生きながら腐る。そうなりたくないなら、感謝の気持ちは忘れるな」
こくこくと頷く弟に笑って、頭を撫でてやる。
ひねくれた物言いが目立つようになってきた三十郎と違って、九郎はどこまでも素直だ。率直で飾らないところが気に入っている。那古野まで連れてきたのも、一途に頼み込んでくる勢いに折れてしまった。
また三十郎が拗ねるなあ。
勘も鋭くなって、隠し事もすぐバレる。さっさと元服させて、側近に召し上げるのがいいだろう。年頃もちょうどいい。烏帽子親は誰にしようか、そんなことを考えていた時だった。
「あ……!?」
「九郎?」
後ろをついてきていた子供がいない。
ざわっと空気が震えた。
この感じには覚えがある。俺はとっさに腰へ手をやって、舌打ちした。
太刀はどうしても重いので、脇差しか装備していない。俺はこれの扱いが苦手なのだ。苦手なのに護身用の装備として相応しいか、というツッコミはこの際置いておく。
「九郎、どこにいる」
「ここだ」
どう聞いても子供の声じゃない、罅割れた声が応じた。
「てめえ、……弟の方か。なんで那古野城にいる?」
暗がりでも、歪んだ顔がはっきり分かる。林のジジイの弟、美作守だ。
口を塞がれた九郎がじたばた暴れていた。それも何事か囁かれると、急に大人しくなる。今にも泣きそうな目に怒りがわいた。俺に縋り、助けを求める視線ではない。
諦めてしまおうとしている。
使えない脇差の柄を、きつく握りしめた。
俺と林兄弟が決別しているのは、信光叔父貴も知っていることだ。それなのに城内へ招き入れたということか。何のために、どんな狙いがあるのか。
「そんなことよりも、九郎を離せ。今なら許してやる」
「ふん、貴様に許しを請う義理などないわ! 卑怯者め。信光様を亡き者にして、己の地位を確かなものにせんと企んだのだろうが、そうはいかぬっ」
「……は?」
「しらばっくれようとも無駄である。わしは全てお見通しよ。観念せい!」
意味が分からん。
何故、俺が信光叔父貴を殺さなければならないのか。
味方をしてくれる一族の者は、ほとんどが未成年だ。信広は戦時しか役に立たない上に、進んで先鋒を務めたがる戦馬鹿だ。叔父貴のように冷静で、広い視野を持つ貴重な人間を殺すなどありえない。
いや、待てよ。
反論しようとした口を閉じる。美作守が勝利を確信した顔で何やら語っているが、どうでもいい。爺と同じように、信光叔父貴も死ぬ運命にあったという可能性が唐突に浮かんだ。
俺の行動によって変わった歴史を、修正しようとしている?
「この子供の命が惜しくば、切腹するのだ」
「…………」
「ああ、それがいい。そもそも貴様が家督を継ぐなど、誰が認めたというのか。幼い市姫様を攫い、内藤殿まで懐柔しおって! 真実を知っていたのは平手殿だけであろう? 邪魔になって、殺したか。殺したのか、化け物めがっ」
「殺したんじゃねえ。殺されたんだ」
「嘘を吐くな!!」
「う、ぐっ」
九郎が苦しがっている。
供も連れずに一人で飛び出したツケが回ってきた。いや、九郎がついてこなかったら俺はとっくに殺されていただろう。平手の爺のように、切腹に偽装して――。
そこまで考えた瞬間、俺は脇差を抜いていた。
「いいぜ、死んでやる」
「兄上!!」
「その代わり、先に九郎を離せ」
「ダメだ。こいつは貴様の死が不自然であると証言するかもしれぬ。生かしておけば、信行様の御為にならぬわ」
信行はこんなことで跡目を譲られても、決して喜ばない。
そんなことも分からないのだ、この老害は。
「ど、どこへ行くつもりだ?!」
「移動する。廊下で切腹しても、格好がつかんだろ」
「ふん! 傾奇者だか何だか知らんが、頭のおかしい奴の考えることは理解できぬわ」
「兄上を、馬鹿に、するなっ」
「黙れ、小童」
「あうっ」
背を向けていたせいで分からなかったが、かなり強打されたはずだ。
美作守を警戒させないようにゆっくり振り向くと、九郎はぐったりしていた。力の抜けた少年の体を荷物のように引きずっている。
「殺すなよ」
「まだ殺さぬよ。貴様の死を見届けるまではなあ?」
愛しい嫁の、帰蝶の顔を思い浮かべる。
信長の嫡男・信忠は凡愚といわれていたが、それなりにデキる奴だったという認識に変わりつつあった。デキる奴なら、母親を苦しめないでほしいと思う。
娘なら苦しめてもいいということにはならない。
確かなのは俺が死んだら、彼らを抱きしめることができないということだ。
「安心しろ。切腹すると決めたら、躊躇ったりしねえよ」
きっと信長はそんな男だった。
人生を夢か幻のようだと笑って、過酷な運命に自ら飛び込んだ。
「死なば運命、生くるは天命」
「ならば、貴様が死ぬるは運命よ。潔く腹を切れ」
「分かってねえなあ。ああ、ちっとも分かってねえ」
俺はもう分かった。
美作守は、俺のことが怖いのだ。何を考えているか分からなくて、怖いのだ。
だから愚かにも人質をとることでしか、俺の行動を制限できなかった。確かに切腹を偽装するなら、変な刀傷は作れない。暗殺や毒には人一倍気を遣っているから、そっち方面も効果が出なくて悔しい思いをしていただろう。
まどろっこしいことをせず、さっさと斬りかかればいいものを。
俺は弱い。美作守の実力なら、確実に俺が負ける。
「は、早くしろ!」
「へいへい」
殊更ゆっくりと座して、抜身のまま脇差を横に置く。
ぐいっと広げた前袷から、冷たい風が吹き込んできた。もう秋が終わって冬が来る。今年の収穫はどうだったろうか。急ぎすぎて、そういうことも聞きそびれた。
ちょうどいいタイミングで、月が顔を出す。
きらめく白刃に、目を覚ましたばかりの九郎が顔色を変えた。
「あ、兄上! 止めてください、兄上!!」
「大丈夫だ、九郎」
「ぼくは、嫌です…………こんなの、あに……う、えっ」
美作守の拘束から逃れようと暴れながら、九郎がぼろぼろと泣く。
今更だが、こんなに懐かれていたのかと驚いた。感情豊かな性格だというのは知っていた。こんな風に泣かせるつもりはなかったんだが。
「何をしておるっ。さっさとやれ!」
「おうよ」
一際、強い風が吹く。
ざああ、ざああと木々が激しく騒ぎ立てる。九郎の叫ぶ声は、はたしてどこまで届いているのか。釣った魚のように暴れる子供に業を煮やして、美作守が腕を振り上げた。
全てはスローモーションのように。
ふっと世界が暗転する。月が雲に隠れたのだ。
「ぎゃああああっ」
夜の那古野城で、男の悲鳴が響き渡った。
それは とてもきれいな 月の夜だった




