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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
躍動する闇編(天文23年~)
80/284

66. 待ち伏せ

※年長者を貶す表現があります

 帰蝶は床に伏していることが多くなった。

 体の弱い方ではなかったのだが、特に悪阻がひどいようだ。食事が喉を通らないため、体力がどんどん落ちていく。動くことも辛いので、筋肉が衰えていく。

 彼女が死ぬ。

 そう考えただけで、俺の心は黒い何かに飲み込まれそうになる。由宇には「見舞いへ来い」と怒られるが、情けない顔を見せて余計に心配させるのが嫌だ。

 子供の為に彼女が頑張っているのに、男は何もできないのか。

 考えて、考えて、俺は清州城を飛び出した。

「九郎、大丈夫か?」

「は、はい」

「もっと強く握れ。落ちても知らんぞ!」

「はいっ」

 ひしっと抱きつかれるなら女がよかった、とか思っていない。

 栗鼠娘の実家生駒氏から駿馬が届いたので、さっそく俺が使うことになった。馬にも相性があるというが、あっさり背に乗せてくれる頭のいいやつだ。急いでいるのも理解して、鞭を振るわずとも疾走してくれる。

 おかげで小さな九郎が、ぽんぽん跳ねている。

 何か言いかけていたのを「舌を噛んで死ぬ」と脅したら、真っ青な顔で一言も喋らなくなった。那古野村へは、那古野城よりも近い。日が沈みかける前には、なんとかたどり着いた。

 間の悪いことに、幸は隣村の応援へ出ているらしい。

 明日には戻ってくるということで、俺たちは那古野城へと進路を変える。

 すっかり元通りになった村で厄介になるわけにはいかない。そうでなくても実験用地として一部の畑を間借りし、稲以外の作物を育てているのだ。貴重な食糧を奪いたくはなかった。

 篝火を頼りに城門へ向かい、無理を言って開けてもらう。

「さすがに疲れただろう。ゆっくり休め。明日も頼むぞ」

 労わりの言葉と共に首を撫でてやれば、馬は一鳴きして自ら厩へ向かった。

 頭良すぎだろ、あいつ。

 慌てて当番の小者が追いかけていくのを見送り、俺たちは城内へ入る。城門兵から知らせが駆けていったようで、宵の入りだというのにばたばたと騒々しい。

 追加された篝火が、風にあおられて大きく揺れている。

「悪いことをしたな……」

「兄上は織田家当主なのです。これくらい当然です」

「九郎。与えられることが当たり前になったら、人は腐るぞ」

「く、腐るのですか!?」

「ああ、生きながら腐る。そうなりたくないなら、感謝の気持ちは忘れるな」

 こくこくと頷く弟に笑って、頭を撫でてやる。

 ひねくれた物言いが目立つようになってきた三十郎と違って、九郎はどこまでも素直だ。率直で飾らないところが気に入っている。那古野まで連れてきたのも、一途に頼み込んでくる勢いに折れてしまった。

 また三十郎が拗ねるなあ。

 勘も鋭くなって、隠し事もすぐバレる。さっさと元服させて、側近に召し上げるのがいいだろう。年頃もちょうどいい。烏帽子親は誰にしようか、そんなことを考えていた時だった。

「あ……!?」

「九郎?」

 後ろをついてきていた子供がいない。

 ざわっと空気が震えた。

 この感じには覚えがある。俺はとっさに腰へ手をやって、舌打ちした。

 太刀はどうしても重いので、脇差しか装備していない。俺はこれの扱いが苦手なのだ。苦手なのに護身用の装備として相応しいか、というツッコミはこの際置いておく。

「九郎、どこにいる」

「ここだ」

 どう聞いても子供の声じゃない、罅割れた声が応じた。

「てめえ、……弟の方か。なんで那古野城にいる?」

 暗がりでも、歪んだ顔がはっきり分かる。林のジジイの弟、美作守だ。

 口を塞がれた九郎がじたばた暴れていた。それも何事か囁かれると、急に大人しくなる。今にも泣きそうな目に怒りがわいた。俺に縋り、助けを求める視線ではない。

 諦めてしまおうとしている。

 使えない脇差の柄を、きつく握りしめた。

 俺と林兄弟が決別しているのは、信光叔父貴も知っていることだ。それなのに城内へ招き入れたということか。何のために、どんな狙いがあるのか。

「そんなことよりも、九郎を離せ。今なら許してやる」

「ふん、貴様に許しを請う義理などないわ! 卑怯者め。信光様を亡き者にして、己の地位を確かなものにせんと企んだのだろうが、そうはいかぬっ」

「……は?」

「しらばっくれようとも無駄である。わしは全てお見通しよ。観念せい!」

 意味が分からん。

 何故、俺が信光叔父貴を殺さなければならないのか。

 味方をしてくれる一族の者は、ほとんどが未成年だ。信広は戦時しか役に立たない上に、進んで先鋒を務めたがる戦馬鹿だ。叔父貴のように冷静で、広い視野を持つ貴重な人間を殺すなどありえない。

 いや、待てよ。

 反論しようとした口を閉じる。美作守が勝利を確信した顔で何やら語っているが、どうでもいい。爺と同じように、信光叔父貴も死ぬ運命にあったという可能性が唐突に浮かんだ。

 俺の行動によって変わった歴史を、修正しようとしている?

「この子供の命が惜しくば、切腹するのだ」

「…………」

「ああ、それがいい。そもそも貴様が家督を継ぐなど、誰が認めたというのか。幼い市姫様を攫い、内藤殿まで懐柔しおって! 真実を知っていたのは平手殿だけであろう? 邪魔になって、殺したか。殺したのか、化け物めがっ」

「殺したんじゃねえ。殺されたんだ」

「嘘を吐くな!!」

「う、ぐっ」

 九郎が苦しがっている。

 供も連れずに一人で飛び出したツケが回ってきた。いや、九郎がついてこなかったら俺はとっくに殺されていただろう。平手の爺のように、切腹に偽装して――。

 そこまで考えた瞬間、俺は脇差を抜いていた。

「いいぜ、死んでやる」

「兄上!!」

「その代わり、先に九郎を離せ」

「ダメだ。こいつは貴様の死が不自然であると証言するかもしれぬ。生かしておけば、信行様の御為にならぬわ」

 信行はこんなことで跡目を譲られても、決して喜ばない。

 そんなことも分からないのだ、この老害は。

「ど、どこへ行くつもりだ?!」

「移動する。廊下で切腹しても、格好がつかんだろ」

「ふん! 傾奇者だか何だか知らんが、頭のおかしい奴の考えることは理解できぬわ」

「兄上を、馬鹿に、するなっ」

「黙れ、小童」

「あうっ」

 背を向けていたせいで分からなかったが、かなり強打されたはずだ。

 美作守を警戒させないようにゆっくり振り向くと、九郎はぐったりしていた。力の抜けた少年の体を荷物のように引きずっている。

「殺すなよ」

「まだ殺さぬよ。貴様の死を見届けるまではなあ?」

 愛しい嫁の、帰蝶の顔を思い浮かべる。

 信長の嫡男・信忠は凡愚といわれていたが、それなりにデキる奴だったという認識に変わりつつあった。デキる奴なら、母親を苦しめないでほしいと思う。

 娘なら苦しめてもいいということにはならない。

 確かなのは俺が死んだら、彼らを抱きしめることができないということだ。

「安心しろ。切腹すると決めたら、躊躇ったりしねえよ」

 きっと信長はそんな男だった。

 人生を夢か幻のようだと笑って、過酷な運命に自ら飛び込んだ。

「死なば運命、生くるは天命」

「ならば、貴様が死ぬるは運命よ。潔く腹を切れ」

「分かってねえなあ。ああ、ちっとも分かってねえ」

 俺はもう分かった。

 美作守は、俺のことが怖いのだ。何を考えているか分からなくて、怖いのだ。

 だから愚かにも人質をとることでしか、俺の行動を制限できなかった。確かに切腹を偽装するなら、変な刀傷は作れない。暗殺や毒には人一倍気を遣っているから、そっち方面も効果が出なくて悔しい思いをしていただろう。

 まどろっこしいことをせず、さっさと斬りかかればいいものを。

 俺は弱い。美作守の実力なら、確実に俺が負ける。

「は、早くしろ!」

「へいへい」

 殊更ゆっくりと座して、抜身のまま脇差を横に置く。

 ぐいっと広げた前袷から、冷たい風が吹き込んできた。もう秋が終わって冬が来る。今年の収穫はどうだったろうか。急ぎすぎて、そういうことも聞きそびれた。

 ちょうどいいタイミングで、月が顔を出す。

 きらめく白刃に、目を覚ましたばかりの九郎が顔色を変えた。

「あ、兄上! 止めてください、兄上!!」

「大丈夫だ、九郎」

「ぼくは、嫌です…………こんなの、あに……う、えっ」

 美作守の拘束から逃れようと暴れながら、九郎がぼろぼろと泣く。

 今更だが、こんなに懐かれていたのかと驚いた。感情豊かな性格だというのは知っていた。こんな風に泣かせるつもりはなかったんだが。

「何をしておるっ。さっさとやれ!」

「おうよ」

 一際、強い風が吹く。

 ざああ、ざああと木々が激しく騒ぎ立てる。九郎の叫ぶ声は、はたしてどこまで届いているのか。釣った魚のように暴れる子供に業を煮やして、美作守が腕を振り上げた。

 全てはスローモーションのように。

 ふっと世界が暗転する。月が雲に隠れたのだ。

「ぎゃああああっ」

 夜の那古野城で、男の悲鳴が響き渡った。

それは とてもきれいな 月の夜だった

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