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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
躍動する闇編(天文23年~)
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65. 濃姫懐妊

すごく頑張ったので、結果が出てもいいと思うのです

 時はまだ、天文年間である。

 本気で日本史――特に室町後期からの戦国時代――を詳しく勉強しておけばよかった、と痛感する日々を送っている。血のにじむような努力をして習得した毛筆スキルは、大半を小姓たちの仕事にとられた。

 乾くのを待つのは面倒なので、別の紙を当てて吸い取らせる。

 墨の含ませ方から、紙の当て方までプロ級の右筆に、太田又助が担当することになった。彼は小姓じゃないので、仕事の一つを奪ったことになる。親衛隊かファンクラブのような彼らが、素直に又助へ仕事を譲ったのは理由があった。

 この男、ものすごく書くのが早い。

 目下のところ、俺に関する情報を片っ端から集めているそうだ。

 報告を受けてすぐに問い詰めれば、奴は事実をあっさり認めた。いずれ書にまとめたく存じます、などと真顔で答える有様だ。確かに織田信長ほどの人間なら、伝記物の一つや二つは史料として残っているだろう。読んだことないが。

 小姓たちは、すっかり又助の(書く話の)虜である。

 俺の子供時代を知っている利家、橋介などは率先してネタを提供しているらしい。カッコイイから問題ないとか、大いに問題あるだろ。何を考えているんだ、こいつらは。仕事しろ。

 後世のことを考えて、俺は焚書を免除してやった。

 読まなければいいのだ、読まなければ。

「お濃」

「なにかしら」

「そ、それ……」

「あなたの本よ。結構、よくできているわね」

 俺が書いた本みたいに言わないくれ、頼むから。

 真新しい書物を手にしている嫁は、梅雨の終わり頃から体調を崩していた。今日も部屋にこもっていると聞いたので見舞いに来てみれば、これである。

 大股で歩いて行って、乱暴に手から抜き取った。

「あ」

「休む時はしっかり休め。治るものも治らんぞ」

「おかまいなく。いくら休んでも治るものではないから」

 その瞬間、頭が真っ白になった。

「……は?」

「その、ね。できた、らしいの」

「マジでか!?」

 思わず腹に目をやって、それから嫁の顔をまじまじ見つめる。

 彼女は頷き、小さく微笑んだ。

 白い寝間着を着ているせいか、いつもよりも肌が透き通るように白い。それでいてほんのりと頬が染まっている様子は、とても色っぽかった。十代で嫁いできて、二十代になろうかという年頃での妊娠だ。年齢的に、全然遅くない。

 布団の上で半身を起こしているため、腹の部分が隠れてよく分からない。

 震える手で背を支えながら、改めてその部分を見つめた。

「おっ俺の、子が……ここに、いるのか」

「ええ」

 許しをもらってから、触ってみる。

 やはり分からない。妊娠の兆候が出ている、というだけなのかもしれない。ほっそりとした体の中に、もう一つの命が存在している。俺が男だからか、不思議でしょうがない。

「いつ頃生まれる?」

「あなた、気が早すぎるわ」

「一か月……いや、半年くらい育児休暇をとる必要があるからな。悪阻は個人差があるというが、お濃はどうなんだ? 気持ち悪くて吐き気が止まらないとか、すっぱいものが食べたいとか」 

 思いつく限りのことをまくしたてると、嫁の目が冷たくなった。

 だが声がかかったのは後ろの方だ。

「随分とお詳しいですね」

「由宇、お前どこに行っていたんだ。主の傍を離れちゃダメだろ」

「気安く呼ばないでくださいませ。お二人の時間を邪魔しないように、下がっていたんです! 報告はお聞きになったでしょう? 御方様は大事な体なんですから、さっさと離れてください」

 俺の体をぐいぐい押して、帰蝶から剥がそうとする。

 もう少し柔らかさを堪能していたかったが、俺だって無理をさせたくはない。大人しく従うと、ついでとばかりに書物も奪われてしまった。由宇から受け取った帰蝶が大事そうに抱えるのを見たら、焚書の刑にするとは言い出せない。

 紙束にまで嫉妬するほど、俺は心が狭くないつもりだ。

「お濃」

 名を呼ぶと、顔を上げる。

 婚儀の日はすごい顔で睨んでいた。あの頃から綺麗だったが、今はもっと輝いている。少しやつれたかと思う。ほつれ髪を耳にかけてやると、不思議そうに瞬きをした。

 名を呼んだだけで、何も言わない俺を測りかねているのだろう。

 この時だけは忠実な侍女の存在も忘れた。

「好きだ」

 愛していると同じくらいの想いをこめて、唇を重ねる。

 顔を離すと、ぽかんとしている帰蝶がいた。その半開きになっている花弁へ食らいつきたい衝動を堪え、俺は立ち上がる。

「また来る」

 返事を待たずに、俺は歩き出した。

 次第に口が緩んできて、全身がむずむずしてくる。叫びたい。転げまわりたい。由宇の登場が遅くて、帰蝶が寝床にいなかったら、一気に抱き上げてくるくる回っていた。

 いや、いかんいかん。

 あくまでも織田家当主としての俺は、カッコイイ俺でなくては。

 きりっと顔を引き締める傍から、でれんと表情筋が緩んでいく。あれだ、可愛い妹のお市が生まれた時よりも嬉しいかもしれない。いつの間にか生まれていて、すぐさま会いに行っても門前払いされて、数々の難関を潜り抜けた先の感動はすばらしかった。

 帰蝶が妊娠したというだけで、こんなに嬉しいのだ。

 生まれたら、デレデレになるに違いない。第一印象としてカッコイイ父上を刻みたいところだが、こればかりは仕方ない。俺の嫁が生む子供が、可愛くないわけがない。

 軽やかにステップを踏みながら、どこかへ行こうとする俺を誰かが呼び止めた。

「おおう、誰かと思えば我が弟ではないかあ!」

「いつも以上におかしいですね、兄上」

 にこやかに切れ味鋭く、三十郎はまだ拗ね気味だ。

 だが今日の俺は寛大なので怒らない。身内に甘い信長、上等!

「んっふっふー、理由を聞きたいか。聞きたいだろう、聞きたくなるとも!」

「いえ、別に。もう知っていますから」

「なぬ?」

「義姉上のご懐妊、おめでとうございます。ご嫡男だといいですね」

「女の子でも絶対可愛い!!」

「…………そんなことよりも兄上、城へ津島の民が来ているのです。お会いになりますか?」

 ツシマ、つしまってなんだっけ。人名か。

 踊るのを止めて首をひねっているうちに、思い当たる件が浮上した。

「会おう」

 きりっとカッコイイ俺で返事したのに、冷静な弟は忠告する。

「お顔が維持できていません」

 ダメか。

 いっそ開き直って、だって嬉しいんだもんと叫んだら気持ち悪そうに数歩下がってしまった。反省している、二度とやらない。冷めた目で見られても平気なのは嫁だけだ。


 そして津島の皆さんはどうしたか、といえば。

 先日の盆踊り大会が盛況だった礼に、地元の「くつわ踊り」とやらを披露してくれた。

 観客は門番たちと俺、そして三十郎だ。これは、もっと多くの人に見てもらうべきだろう。いいものを見た礼に、試作品の柑橘水を配る。今度は様々な出店を並べれば、もっと楽しくなるとアドバイスしたら目の色が変わっていた。

 さすがは商人の町である。

 これはもう次回開催が楽しみになった。来年の祭りには、帰蝶も一緒に連れていけるだろうか。隣で目を輝かせている三十郎を見ながら、そんなことを考えていた。


盆踊り大会の内容は、小話集にあります。

おノブが出てきますので、閲覧注意(笑)

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