45. 三年目の蜜月
※情事を匂わせる表現があります
俺、ハジメテを奪われました。
結婚してから三年目にしてようやくっていう感じだが、生涯童貞だった前世を考え……ても「ようやく」っていう感じがするな! 時代が俺に追いついたのだ。
悠々自適の楽隠居が最終目標である。
この時代の結婚年齢は早いので、孫を見るのはそう難しくないだろう。ただし織田信長は、本能寺で息子もろとも死んでいる。その後のことはよく知らん。羽柴秀吉が中国大返しで、明智光秀の三日天下くらいか。
所詮、俺の知識はこの程度だ。
「ねえ」
両手で頬を包まれたかと思えば、ぐきっと横を向かされた。
「何を考えているの?」
「お濃のこと」
「嘘」
ハイ、嘘です。
大人になることは、上手く嘘吐けるようになることだって誰かが言っていた。その基準でいくと、帰蝶の前でだけ永久的に大人になれない気がする。彼女には嘘が通じない。
かといって、俺の前世云々については話せない。
幼い頃からの付き合いである元舎弟たち、平手の爺にも話していないのだ。
「ひどい人」
「ああ、それで思い出した。俺、一途な男だぞ。無類の女好きは親父殿であって、俺は最初からお濃しか見えていないからな」
「それも嘘」
「なんでだよ」
「知っているのよ。わたくしの侍女に、何度も文を送っていたでしょう」
俺の顔が固まる。
やっぱりね、と帰蝶は寂しそうに笑った。
彼女の中では大きな誤解が、揺るがない確信になってしまっているようだ。さっきまで溶け合うほどに近く感じていた心が、急速に冷えていく。親父殿が死に、おふくろには明確な拒絶反応を見せられ、筆頭家老とは完全に敵対し、弟と全く話が通じていなかった現実が次々と脳裏に浮かぶ。
目の前が真っ赤に染まる。
「ダメだ」
「え? あなた、何を……うっ」
生まれたままの肢体を組み敷いて、それに手をかけた。
「お濃、愛している。一目惚れなんだ、本当なんだ」
「う……っ、あ」
「どうして分かってくれないんだ!? 俺だって、必死にやっている! 嫌いなら、嫌いのままでもいいから、離れていくな。離れていくことなど許さない。お濃、お濃、お前だけは……っ」
「あ、なた」
たおやかな指が頬に触れた。
さっきまで爪を立てる勢いで包んでいたはずなのに、するりと落ちていく。白い肌に赤い痕がくっきりと残っていて、それは俺の手の中にあって、とても弱弱しい生命の――。
「うわあああっ」
「けほ、けほけほ……っ」
布団を跳ね飛ばす勢いで飛びのいてから、慌てて彼女に縋りついた。
「だ、大丈夫か!? 悪い、なんか頭がおかしくなってた!」
「あなたに殺されるなら、かまわないわ」
「馬鹿か!!」
思わず怒鳴っていた。
すっかり宵も更け、そろそろ夜明けも近い。
まったりと事後の余韻に浸るはずが、どうしてこうなった。どうして俺は大事なものを大事にできない。前世の記憶がそうさせるのか、信長の生き様がそうさせるのかは分からない。
苦しげな息をしながら、帰蝶は微笑んでいる。
見慣れてしまった氷の微笑ではなく、雪解けの春みたいな笑顔だ。
「なんで、そんな顔してるんだよ。頭に酸素回らなくなって、馬鹿になっちまったのか?」
「失礼なこと言わないで」
「いや、だって。お濃が変なこと言うから」
「あなた、動揺すると口調がものすごく乱れるのね。子供みたい」
「うぐ」
「いいわ、本当に。わたくしを殺したいのなら、殺して」
「お濃!! ……くっ、違う。そうじゃない。そうじゃなくて、俺は」
考えろ、考えるんだ。
平手の爺が困った顔をするのはどんな時だったか。長秀が諫めてくるのは何をやらかした時か。貞勝がいつも定番台詞のように繰り返すのは何故だ。
間違っていることを間違っている、と認めるのはできる。
認めたうえで、間違いを正すことがもっと難しい。
「わたくしも、あなたを殺そうとしたもの」
「へ?」
思わぬカミングアウトに、間抜けな声が出た。
やっぱりアレか。
舅殿から短刀プレゼントしてもらった時に、気に食わなかったら殺していいよっていうハートフルエピソードが本当にあったんだな。親子愛が感じられるチョットいい話かもしれないが、俺にとっては悪い話だ。
美人の嫁が、美人の暗殺者とか何それ萌える。
うまい具合に脱線した。オーケー、冷静になろう。
「その顔、知っていたのね。そんな予感はしていたけれど」
「噂を信じていたんなら仕方ないんじゃないか? 俺は嘘や冗談で『好きだ』って言わない主義なんだが」
「好きだって言われたこと、ないわね」
「好きだ。大好きだ! めちゃくちゃ好きだ!! お濃以外の女に手紙を送ったことなんか、一度もないぞ。正直、ちっとも返事をくれなくて寂しかった」
「え……」
「本当なんだ。俺は、お濃を愛している。どうか、信じてほしい。……俺は口が上手くないから、それしか言えない。たぶん、俺の身分が周りに誤解させるんだろうな。たまたま弾正忠家の嫡男に生まれただけだっつーのに」
「ねえ、本当はどんな人になりたかったの?」
ああ、本当にどうして君は――。
何気ない言葉に、俺は泣きたくなる。
この溢れんばかりの想いを、どうすれば上手く伝わるのだろう。
彼女は、俺を何度も救ってくれた観音様なのだ。ダメ人間に戻りそうな時、どうしようもない思考の泥沼にハマりそうな時、そっと傍にいてくれる存在だ。
この三年、指一本触れなかったと言えば嘘になる。
だがキスもしたことがなかった。
「ちょ、ちょっと何故ここで口づけを……」
「したくなったから」
そうだ。この時代では、キスなんて言わない。
情報として知っていただけの行為が、好意を表すものへ変わる。
ファーストキスの相手が愛しい嫁だなんて最高だ。帰蝶になら「この童貞が」って罵られてもいい。いやもう卒業してしまったから無理だな。浮かれた頭でそんなことを考える。
「ん、もう……いい加減に、しなさい!」
「あいた」
ぺちんともらった平手打ちは、愛情にあふれている。
そろそろ俺はばくはつするかもしれない、幸せすぎて。
「気持ち悪い顔もやめて。直視できないわ」
「ひどい!」
「首を絞めようとした人に言われたくないのだけれど」
「それはっ、お濃が妙な誤解をしたまま譲らないから、で」
「本当にいないの? お父様だって、側室を持つことに口出ししたりしないわ」
「大丈夫! お濃に会うまでは、妹しか見えなかったから」
「…………そう」
あれ? 今、また新しい誤解を生んだかもしれない。
さっきまであった柔らかな微笑が消えている。そのまま罵ってくれてもいいのよ、と言いたい衝動に駆られたが耐える。罵られた直後に、寂しい一人寝が待っているのは確実だ。
俺は正常で健康な青年である。
物語でよくある絶倫とまでいかなくても、それなりに欲望はある。しかも女体の素晴らしさを味わってしまった今はもう、綿の塊では満足できない。
「お濃を抱きしめていないと眠れない」
「離れなさい。もう朝よ」
「えー、いいじゃん。今日は寝坊する」
「忙しいのでしょう? ここ最近は、一度も寝所に戻っていなかったわ」
「税務は終わった。政務は昼から」
「働きなさい」
「もう一回」
「え? 働きなさいって」
「そうじゃなくて」
もう一回、したい。
ニヤニヤ笑って言ったのが拙かった。
帰蝶の顔から笑みが完全に消え、鮮やかな平手打ちが響き渡る。じんじんと痛む感覚からして、いつぞや以来の紅葉型がくっきり浮かんでいることだろう。
この時代の人間はどうにも、口より先に手が出やすい。
「きちんと働くなら、付き合ってあげてもいいわ」
「マジで!?」
「わたくしに分かる言葉で話してちょうだい」
「俺、ノブナガ。身を粉にして働く所存! だから、もう一回イタッ」
「夜」
「……ハイ」
その日、登城してきた信盛には指を差して爆笑された。
他の奴らは必死に我慢しているのに、こいつは本当にどうしようもない。さすがに腹を立てた俺が事の顛末を説明し、忠犬から盛大なる祝辞をもらう。
平手の爺が号泣していたから嫌な予感はしていたが、夕餉は豪華だった。
明らかに精がつくものばかりで、嫁の機嫌は史上最低値を記録した。
夜はどうだったかは、お察しである。
マゾ系ヤンデレ風シスコン




