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ノブナガ奇伝  作者: 天野眞亜
雌伏編(天文13年~)
25/284

19. 尾張国の状況

説明回。

風呂事情を追加したら、ちょっと長くなりました

 一月後、共同住宅が完成した。

 といっても、個別に部屋が仕切られていない広いだけの建物だ。いよいよ寒さが身にしみるようになってきたので、風雨を凌げる場所に皆が喜んだ。


 風呂事情について話しておこう。

 この時代の風呂は五右衛門風呂じゃなかった。確かに石川五右衛門は秀吉時代だから、まだ生まれてすらいないんだろう。そんなことよりも湯を張る常識がないことに、俺は愕然とした。温泉があるのに湯船がない、だ……と。

 五右衛門風呂の作り方なんて知らないぞ。

 どうする、どうするんだ俺!

 目の前には垢まみれの村人たちが所在なさげに立っている。仕方ないので、城へ連れて行った。これでも俺は城主である。城主命令は絶対である。

 はたして那古野城に風呂は存在していた。

 それも蒸し風呂(サウナ)だ。 

 幸いにして村人たちが全員入っても大丈夫だった。垢すりを担当する下女たちに金を握らせ、俺たちも一緒になって汗だくで体を磨く。

 その光景は、まるで猿の家族みたいだった。

 ごっそりと垢が落ちて、身綺麗になった村人たちに新しい着物を纏わせる。頭がぼーっとしているせいか、拒絶する者はいなかった。ほこほこと立つ湯気も消え、すっかり寒くなった頃に新しい建物へ入る。

 その時に浮かべた彼らの顔を、俺は一生忘れないだろう。


 炊事は変わらず、残った家で行う。

 冬場の作業をして、肩を寄せ合って寝るだけの建物。専門の職人がいない状況で作った割にはまともな佇まいだと思う。俺はほとんど参加していないが。

 させてもらえないんだよ、若様だから。

 廃嫡寸前だからいいだろって言ったら、めっちゃ怒られた。

 本当に恒興と長秀には怒られてばかりだ。まるで、ここにいない平手の爺の分まで口煩くしているみたいで、反撃の言葉も飲み込んでしまう。

 爺、城でも見かけないんだよな。

 せっかく結んだ和睦まで危うくしたことを怒っているんだろうか。

 林のジジイ辺りは激怒していそうだ。あいつは本当に信行が気に入っている。親父殿の命令じゃなかったら、とっくに俺付きの筆頭家老の座なんて返上しているに違いない。

 そうはいっても俺は俺の生き方しかできない。

 本来の信長がどうだったか、なんて詳しく知らないから真似もできない。とにかく共同住宅の完成祝いで宴を催した翌日、俺は城へ戻っていた。

「一益、城の様子はどうだ」

「変わりない」

「そうか」

 今の俺は那古野城主である。

 ナゴヤと聞き間違えそうになったが、現代日本における名古屋市の語源になったのかもしれないな。となると、幻の安土城も気になってくる。これは俺が家督を継いで、上洛してからの話だ。まだまだずっと先のことになる。

 で、那古野城を俺に譲った親父殿は古渡城で生活している。

 ぶっちゃけ、ひょいひょい往復できる距離じゃないはずなんだがな。俺が数日留守にする――美濃の蝮と会っていた件――ことを誰かから聞いたんだろう。

 流行り病の見舞いは、普通やらない。

 舎弟たちもそれぞれ家が遠いから、城下町を一緒に歩き回らない限りは「疎遠」を疑われる心配もない。念のため、村では偽名で通している。

 信行はよく古渡城で見かけるし、城を与えられていないのかもな。

 本家である織田大和守家とは微妙な関係にあることも、最近知った。美濃国との和睦に俺が出てきたのもおかしいと思っていたんだ。どうやら弾正忠家(うち)は、本家に負けないくらいの力をつけているらしい。本家と分家がひっくり返るのも時間の問題か。

「若様、斯波氏が信行様に近づいているという報告がありました」

「は?」

「斯波氏は、尾張守護職を務めております。そして織田本家は守護代にして尾張四郡を治めております。現当主である大和守信友様は」

「いや、知っているし」

 説明をぶった切られた恒興が不満そうに口を閉じる。

 守護職と守護代のどっちが偉いかっていったら、もちろん守護職だ。

 公家の血を引いているか、公家が地方に封じられているのも大きい。だが公家が威張っていられるのは朝廷の後ろ盾があるからで、農民にとっては守護職・守護代の違いなんてどうでもいい。年貢を納めて、なんとか明日を迎えるので必死だ。

 農民以外の領民も大して変わらない。

 そんな感じだから、より領民に近い地位にある守護代や武家が力をつけていく。たとえば多めに年貢をとって差額分を懐に入れるとか、商人たちを懐柔する。もっと直接的に派閥組織を作って、守護職が自由にあれこれできないようにする。

 朝廷へ助けを求めようにも、飛行機や車のない時代だ。

 文を届ける人間が裏切れば、助けを求める声は京まで届かない。

 あくどいやり方を想像してみたが、尾張国ではどうだったか知らない。分かっているのは多分にもれず、尾張守護職も本来の権力を失っているっていうことだ。

 室町幕府も、あと少しでなくなる。

 あれ、トドメ刺すのは俺か。いやいや、その時になってから考えよう。

「本家すっ飛ばして、分家の次男に近づく真意や此れ如何に」

「若様、洒落ている場合ではありません」

「だってバレたら大騒ぎだろ、これ。本家が裏で糸引いているんだとしたら、もっと厄介なことになるぞ。尾張国内で戦が起きる」

「ま、まさか、そんな」

 恒興が蒼白になった。

 ぺたんと座り込んだ乳兄弟はさておき、これはノンビリしていられないんじゃかろうか。そうそう死ななさそうな親父殿も、史実通りならば後五年くらいで死ぬ。跡目争いに首を突っ込んで、ニョキニョキ伸びてきた分家の鼻をへし折るつもりか。

 内部抗争だけで済めばいいが、俺は負けたくない。死にたくない。

「親父殿が、尾張統一してくれれば楽なんだがなあ」

「何を仰いますか!?」

「いや、身内で喧嘩とか嫌じゃん」

「ですが、信行様は」

「あ?」

「……っいえ、何も」

「滅多なことは言うなよ。俺も大概にぽろりする自覚あるが、俺の味方だっていう理由でお前も命狙われる可能性はあるんだからな」

「私の命は、若様のものです」

「だったら死ぬな。俺は俺のものが傷つけられるのが大嫌いだ」

「わ、かさま……っ」

 声を詰まらせた恒興が、目から涙を溢れさせる。

 ぼろぼろと泣きながら声は何とか押し殺しているが、非常にいたたまれない。小姓が「自分は何も見ていません」とそっぽを向いている。どちらかといえば、無反応のがありがたかった。

「しかし信行の奴、モテモテだなあ」

 俺の弟妹は魅力的すぎて困るな、はっはっは。

 …………笑えない、全然笑えない。

 一時は火種を全て炙り出した方が、手っ取り早くていいと思っていた。ちまちま潰していくよりは、一気に片付けた後の始末が楽になる。

 俺は理解していなかった。

 生きた人間が、俺と同じように思考して、行動を決めているということを。歴史の大きな流れは変わらないなんて信じているのは俺だけだ。この先何が起きるのかを知っているのも俺だけだ。

 どうしようもないクソッタレだ。

 流されるまま生きて、つまらない人生を終えた前世とちっとも変わっていない。舎弟どもが感激屋で、いつでも俺を持ち上げてくれるから自惚れていた。

「遠いところばかり見ていないで、たまには足元を見ろってか」

「されど、足元ばかり見ていては壁にぶつかる。過ぎたるは猶及ばざるが如し」

 誰だよ、この兄ちゃん。

 懐から出した手で顎をしごいているが、手首がとんでもなく太い。仕立てがしっかりした良い物を着ているくせに、ニヤニヤと下品に笑っている。武家らしい日に焼けたゴツい顔立ちをしているが、家臣たちの中にこんなのいたっけか。

「佐久間殿、無礼であろう。ここをどことお思いか」

「尾張は弾正忠家が所有する一つ、那古野城でござるな。御屋形様が嫡男に城を譲られたものの、その御子は滅多によりつかぬ主不在の」

「佐久間殿!!」

 さっきまで号泣していたとは思えない一喝である。

 すらすらと口上を垂れていた男も、ぴたりと口を閉じている。一見して殊勝な態度に見えるものの、目線はこちらに向いていた。面白がっているようで、見下しているようでもある。

「佐久間信晴の子か」

「おや、父をご存じとは光栄でござる」

「意外そうだな」

「いやいやいや、滅相もない。けっして若様がぼんくらだの、たわけのうらなり小僧だのとは思っておりませぬゆえ、平にご容赦いただければ」

「こ、こ、こここの言わせておけばぁ……っ」

「どうどう、恒興。落ち着け、見えすいた挑発に乗るな」

 今にも抜きそうな乳兄弟の肩を叩き、風来坊風の男を見た。

 まあ、利家のような傾奇者を見慣れているので、どちらかというと上品なヤクザの印象だ。佐久間家といえば、尾張の地に根付いた豪族と記憶している。親父殿自身に従っている家臣の一派でも、かなりの発言力を維持しているはずだ。

 また信行を絡めた苦情かとも思ったが、粗野な振る舞いを見せる意味が分からない。

 いや、元々そういう性格とも考えられる。

「小賢しく何やら巡らせておられるようで」

「ん? まあな。尾張に戻ってきて以来、一度も会ったことのない奴が今頃顔を出した理由は……ふつうに気になるだろ」

「ほう。して、如何に」

 見解を述べろってか。

「単に顔を見に来ただけ、とかな」

「如何にも」

「まさかなー。そんなわけ、……はあぁ!?」

 いかにいかにもって担がれているんじゃないだろうな、俺。

 口を閉じた途端にむすりと不機嫌顔になって見えるわりに、目力がすごい。とにかく目で語ってくるタイプだ。髪も目も色素がちょっと薄いのか、茶色っぽいので純日本人とは少し違って見える。くわっと見開いたら、歌舞伎役者のキメポーズが似合いそうだ。

「佐久間右衛門尉信盛にござる」

 縁側に腰を下ろすと、男はそう名乗った。

 呆然としている俺たちを一瞥してから突然、にかっと笑う。

「本日より、三郎信長様の舎弟に加えていただきたく参上仕った!」

「え、ヤダ」

「若様っ」

 なんかよくわからんが、恒興が嬉しそうだ。

 この乳兄弟の考えていることも時々分からないが、突然舎弟になりたいとか言い出した佐久間家の御曹司も考えが読めない。父親は完全に信秀派――後継者問題では中立――で、一族あげて織田家に仕えている状況だ。

「親の許可は得たのか?」

「これは異なことを。信盛、とっくに元服を済ませてござる。今更、親の顔色を窺うようなことはいたしませぬ」

「じゃあ、やっぱりダメ。出直して来い」

 しっしっと追い払う。

 信盛がガッカリしたような顔をしているが、あえて気にしない。

 実際の年齢は分からないが、だいたい俺とそう変わらない年頃のはずだ。長秀が丹羽家を継いでいないのだから、信盛もまだ家督を譲られていない可能性もある。

 下手をすれば、佐久間一族が分裂する。

 ただでも尾張で内紛の兆しが出ているというのに、新しい火種を呼び込みたくない。そう思って俺は、すぐに奴を追い払ったはずなのだが。

「殿! この木材はどこにお運びいたそう」

「肩に担いでぶん回すんじゃねえよ! あと三郎様に気安く声掛けんなっ」

「犬殿。これは我が策にて。殿はああ見えて優しく、情に厚い方だ。そしてお味方となる者は、身分問わずに重用すると聞いておる。ひたすら働くことで、いつか認めていただくのよ」

「ふうん。その『いつか』っていつだ?」

「知らぬ!」

「……うわー、なんかコイツ面白ぇ」

「半介にいちゃん、そっちじゃないよ。こっちだよ」

「おお、すまぬ。今向かおう」

 復興中の村にて、すごく馴染んでいた。


林のジジイ:林秀貞。信長の筆頭家老であるが、信行派

佐久間氏:尾張を地元とする豪族の出身で、信秀の代から織田家に仕える


斯波氏:尾張守護職。噂によれば、信友の傀儡と化している

織田信友:尾張守護代にして織田本家の当主。織田庶流にあたる信秀とは仲が悪い

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