サンストーンの安寧
白んだ空が、目に痛い。朝日が少しずつ小汚い町を照らし始めた。酔っ払いがゴミ袋の中に顔を突っ込み眠っている。ジェリーは、早朝にミランダの家を出て、ケヴィンのバーに向かっていた。昼間の変な時間に行くとケヴィンを叩き起すことになりかねないし、そうすると確実に不機嫌な顔で蹴り飛ばされることになる。
「この時間なら起きてるだろー」
くぁ、とジェリーは大口を開けてあくびをしながら伸びをする。足りない分の睡眠時間はあとでケヴィンの家でとればいい。そういえば、昨日はマイケルは久しぶりに家族水入らずで暖かい夜を過ごしたのだろうか、それともケヴィンの家に戻ってきて寝たのだろうか。そうだとしたら話がややこしくなりそうで面倒くさそうだ、とジェリーは気が重たくなる。
ポケットにしまいこんでいた鍵を取り出す。小さな銀色のなんの変哲もない冷たい鉄の塊が、ジェリーにとっては妙な重みを持って感じられる。
「……」
「見たくないか?」
「うぉっ!」
突然後ろから声がかかり、ジェリーは驚いて振り返った。そこにはなんの悪気もないと言わんばかりに穏やかな笑みを浮かべる悪魔がいた。でたな、と思いながらジェリーは眉を寄せた。
「……なんだ、お前か」
「会いたくなかったか?」
彼の笑顔はあくまで無邪気だが、悪魔の無邪気なんてなんのシャレにもならない。ジェリーは苦い顔をして腕を組んだ。どうせ今回もろくなことを言わないのだろうと溜息を吐く。
「会いたい訳ないだろ」
それもそうか、とDは肩をすくめた。
「っていうかお前はなんだよ、俺が一人の時にばっかり狙って出てきやがって」
おかげで、毎回ジェリーは一人で頭を悩ませるハメになる。
「ん? マイケルが居るとこで出てきた方がいいのか?」
「話がややこしくなるからやめろ」
正直、そっちのほうが面倒くさいからこれでいいといえばいいのかもしれないが、なんとなく癪に触った。Dは面白そうにけたけたと笑っている。本人にその気がなくとも、彼のその態度はジェリーにしてみれば神経を逆なでられている以外のなんでもなかった。
「まぁ、でもマイケルがいたら俺は出てくるつもりはないんだけどな」
「なんでだよ」
理由なんて想像すらできなかった。
「ん? 俺はあいつとは波長が合わない」
彼はにこにことしたまま、はっきりと言い放った。いつも聖人のような顔をして笑い、まるで善人のようなことを言っている彼が、はっきりとした拒絶の言葉を発したのはこれがはじめてだった。思わず、ジェリーはにやりとした笑みを浮かべた。
「お前にも苦手な物があるのかよ」
「まあ、そういうことになるかな。それにあれだ、お前の波長が、俺は好きだよ」
一際爽やかな笑みを浮かべて言われても、全く嬉しくない。嫌味のつもりで言ったのに、見事に自分が不快になる結果に陥ってしまい、ジェリーは舌打ちをした。
そんな姿を見てDはといえばまたにたにたと笑っているのだから本当に始末に負えないのだ。ジェリーは深い深い溜息を吐き、天を仰いだ。
「嬉しくねぇよ」
視線を戻した時には、そこには既にDの姿はなかった。またかよ! うっかり叫ぶと、うるせぇ、と近くの窓から声が降ってきて、ジェリーはさっと口元を覆った。
それにしても、あの飄々とした悪魔にも苦手な物があるというだけで少しだけ口元が緩んでしまう。ジェリーを妙に気に入っているのは釈然としないが、マイケルと一緒の時に出てこないというのは楽でいい。
「ケヴィン、昨日頼んだやつ出来たか?」
特に挨拶をするでもなくドアを開けると、いつものようにモップで床を拭っているケヴィンが顔をあげた。周りを見渡してもマイケルがいる気配はなく、ジェリーはほっとした。
「お前、完全に俺を便利屋か何かと勘違いしてるだろう」
ケヴィンは肩を竦めて言った。口調は冗談めかしてはいるが、完全に皮肉だというのはわかったし、むっとしているのが伝わってきた。長年の付き合いで本気で怒っている訳ではないのはわかるが、これはそのうちきちんと礼をしなくてはいけないなと思う。
「いやー、悪いな」
ジェリーはあえてケヴィンの皮肉や含みに気づかないふりをして適当な返事をした。ケヴィンもそれがわかっているのか、顔をしかめて溜息を吐いた。彼はカウンターの裏に入り、ごそごそと棚を漁り、一枚の紙を取り出した。
「……いいんだな」
ケヴィンは紙を持ったまま、真剣な表情で言った。
「そんなに畏まるなよ、大したことじゃないだろ」
ははっと笑って肩をすくめる。そう、いいのだ。大したことじゃない、そう内心で繰り返しながら。ケヴィンの持った紙に手を伸ばす。
たった一枚の薄っぺらい紙の上、載せられたジョージ・ジェンキンスの名前。
「ジェイ」
「だから、辛気臭ぇ声出すなよ」
軽い軽い紙切れ一枚、そこに人の死が載っている。そこに父親が死んだという情報だけが、偽造とはいえ載せられている。なんの感慨もなく、なんの実感もなく。ジェリー自身の何も埋められていない空の墓石と同じようにも思えた。
「死亡証明書って、初めて見た」
「まぁ、スラムにいたらわざわざんなもん出さないし、天涯孤独のやつも多いしな」
ケヴィンがくれたそれを、ジェリーは折りたたんでポケットにしまう。なんの重みもないそれから妙に感じる存在感。ケヴィンがじっとジェリーの顔を伺っている。
「サンキュー、助かったぜ」
へらりと笑うと、ケヴィンは無言でカン、と机の上に一本の瓶を置いた。茶色い見慣れた瓶は、ジェリーが好きな銘柄のビールだった。
「……おい」
その意図を察し、低い声を出すと、ケヴィンはいつものトーンで返す。
「やるよ」
「同情とかよせよ」
殺気立ったジェリーの声を聞き流し、ケヴィンはカウンターに出したビールをそのままに再び掃除を始めた。ジェリーは諦めてそのビールの蓋を開ける。喉に流し込めば、パチパチと弾ける泡の感触と、アルコール独特の苦味。
「うまい」
どんな時だって、酒はうまい。嫌になっちまう。そう思いながらつるりとした瓶の口から唇を離す。どれほど肩肘張ったところで、ジェリーはミランダやケヴィンには敵わない。いつだってこうして甘やかされている。
「……ミックには、何も言わねぇのか」
「あぁ。言うなよ」
突然のケヴィンの質問に、ジェリーは頷いた。おそらくマイケルと何か話したのだろう。そんな質問をするくらいだ、ケヴィンはマイケルとジェリーが手と手を取って助け合うことを望んでいるのだろう。だが、それはできない相談だ。
ミランダを女として愛しているなら、ケヴィンは兄であり、親友だ。ミランダを抱きしめたい、抱きしめられたいと願えても、ミランダに全てを打ち明けることはできない。ケヴィンに友のように兄のように信頼し背中を預け、頼ることはできても、恋人のように縋り付くことはできない。
そして、マイケルはいつだってジェリーにとっては守るべきものだ。天使のような彼を大事に大事に守ってやるのがジェリーの役目だ。その笑顔に誇りを保つことはできても、彼に甘えることはできない。
残りのビールを飲み干し、カツンと音を立ててカウンターに置いた。
「これは、俺の問題だ」
口元をぐっと拭い、前を見据えた。




