ラピスラズリの秘密
マイケルは、ぜぇぜぇとみっともなくあがる息を整えた。ある程度体を鍛えているつもりではあったが、それでもまだ足りないようだ。目の前では、Jは既に息を整え、汗で濡れたTシャツを着替えている。
ひとしきり走り回り、後ろから喧騒は聞こえなくなったもののマイケルは家には帰らなかった。帰らなかったというより、万が一誰かが追ってきているときのため、安全のために帰れなかった。
今いるのは、Jの友人であるケヴィンのバーのバックヤードだ。万が一まだ誰かが付いて来ていた場合、マイケルの家に戻れば姉が危ないし、Jの家はJの家で、仕事道具に何かあったらどうする、とJが怒り出したためここに至る。
それを聞いたケヴィンが、俺はいいのか、と眉を寄せたのは当然なのだが、それでも気前よく使わせてくれるあたりが彼の人柄を物語る。よく知らない相手ではあるのだが、強面だが気のいい男なのだということがマイケルにも伝わっていた。
すまなそうな対応をしているマイケルと違い、Jはまるでいつものことのようにずかずかと上がり込むところを見ると、どうやら付き合いも長いようだが、それにしても親しき仲にももう少し礼儀があってもいいのではないか。
そんなことを考えながらJを見ると、ふと違和感を覚え、じっと見つめる。ハンサムな顔が、殴られて少し腫れてはいるが、そこではない。それ以上に目に付く場所。頬が腫れて開きづらそうなその目を見て、マイケルは目をぱちくりと瞬かせた。
「……紫……?」
その左目は、鮮やかで美しいアメジスト。くるりと上を向いた長いまつげの下、光を受けて輝く、作り物のような艶やかな瞳。いつも見ていた彼の瞳は、ありふれたヘーゼルだったはずだ。少しぽかん、とした顔をしたJの目が大きく見開かれる。明らかに顔色が変わり、彼はその目に手をあて、マイケルに背を向けた。
「……J……?」
鮮やかなアメジスト。それは例の指輪以外で、どこかで見た覚えがあった。マイケルはぐるぐると記憶を辿る。一度見たら、忘れることが出来ないあの色は……
「ジェラルド・ジェンキンス」
ポツリ、と言葉が口に出る。しかし口に出たものの、それはあまりに非現実的過ぎた。Jの背中はぴくりとも動かず、何も語らない。
「……ジェラルド? いや、でも彼は昔に死んだし……葬式にも出たし……」
自分で言っておいて、その矛盾にマイケルは戸惑った。ぶつぶつと、自らの考えを整理するように呟く。Jは背を向けたまま、動かない。確かに、マイケルの知るジェラルドは、とうの昔に死んだ。ジュエリークラフトマンだった彼の父は、その後すぐにどこかへ越して行った。マイケルも、何度かジェラルドの墓参りだって行った。けれど、あんなに珍しく、そして美しい瞳の色は、一度見たら忘れない。忘れようもない。
そういえば、とマイケルはあることを思い出し、ジェリーに右手を差し出した。
「銃、見せてよ」
「ダメだ、これは俺の大事なものだ」
Jは首を縦には振らなかった。けれど、マイケルは覚えている。
「その銃、Gって彫ってあったよね。明らかに誰かが手でいれた文字だった」
そうだったか、とJはとぼけるが、マイケルは記憶力はいい方だ、間違いない。何故Gと彫ってあるのかと疑問に覚えたから、尚の事覚えている。
「それに、やたら宝石に詳しい。あと、作業机には彫金用の器具まであった。見慣れたものだから印象に残ってるし、何なら今から見に行こうか?」
「そんなの、こんな仕事してりゃお目にかかることもあるし、多少触ることもあるからだよ」
あくまで誤魔化そうとしているのが伝わってくる。肩をすくめて道化を気取ってはいるが、マイケルは最後のパーツをぴたりと嵌めた。
「ジェリー。僕達は君をそう呼んでいたよね。ジェラルドなら、イニシャルはG・J。けど、ジェリーなら別だ」
ジェリーは、GELLYじゃなくJELLYと綴ることもある。ならば。
「ジェリー・ジェンキンスのJJ。そんなに珍しい色の瞳が、そうそう何人もいてたまるかよ」
そう言い切ると、Jの肩が大きく上がり、下がった。深呼吸しているのはわかったが息を吐く音は聞こえない。ゆっくりと、ゆっくりと息が吐かれているのだろう。
「ジェリー。どうして言ってくれなかったの。知ってたらもっと……」
「もっと、どうした?」
彼の声は冷めている。彼は観念してこちらを向いた。その瞳の片方は紫、もう片方はヘーゼルだったが、その目に指をあて、その偽色を外した。アメジストが二つ揃う。マイケルは、揃って感嘆の溜息を吐いた。彼の瞳は、それほどまでに、まるで芸術品のように美しかった。
「……それで、それを知ってどうするんだ」
ひょいっと眉を上げて、Jは、否、ジェリーは言う。
「だから? 死んだはずの幼馴染をスラムで見つけました? それで? こんにちは、久しぶりだね! 仲良くしようね? ってか?」
はっ、とジェリーは鼻で笑った。外したカラーコンタクトを再びはめ直し、再び背を向ける。
「……あーぁ……今手元にコンタクトの予備ねぇし……ケヴィンに都合つけてもらうか、眼帯でももらうか……」
硬い声。同じ危機を乗り越え、時間を共有し、少し分かり合えたと思っていた背中が遠い。
「ジェリー!」
「そんなヤツはもう死んだ」
肩に手を伸ばすが、その手ごとパシリとマイケルは振り払われる。その態度は、明らかに彼がジェラルドであることを肯定していた。しかし、彼自身が、ジェラルドであることを拒んでいる。
なんで葬式をしたのに生きているのかとか、どうやって生きてきたのかとか、家族はどうしたのかとか、なんでスラムにいるのかとか、言いたいことは色々あった。マイケルは考えあぐね、口をぱくぱくとしながら次に言うべき台詞を探した。
「僕は、君が死んで寂しかったよ」
ジェリーは何も返さず、脱いだTシャツを投げ捨てた。
「……無駄口叩いてないで、姉貴達を安全なところに移せよ、何があるかわからねぇことがこれで分かっただろ」
マイケルは頷く。あとでケヴィンに電話を借りよう。姉二人は、国外の祖父母のもとか、友人のところにでも身を隠して貰えばいい。
「僕等はこれからどうしよう」
「僕等ぁ? お前一人でなんとかしろよ。面倒事はもうまっぴらだ」
ジェリーはこちらを向き、ドン、と壁に拳を叩きつけた。マイケルはその音に一瞬びくりとしながらも、首を左右に振った。
「そういう訳にもいかないよ。向こうは君が指輪を持っているのを知ってるし、もう顔も覚えられてるだろ? そんな目の色してたら忘れたくても忘れられないよ」
ダーミット! と彼は床へと零し、忌々しげにその瞳に手のひらを当てた。カラーコンタクトをしている位だ、彼自身その瞳の色が嫌いなのか、それともそれで嫌な目にあったことがあるのか。そんな様子だった。
あんなに綺麗な瞳をしているのに勿体無い、と思うのはマイケルだけではないだろうが、当事者にとっては問題もまたあるのだろう。
「……はぁ、お前なんか助けるんじゃなかった」
今度は明確に溜息を吐き、目線を逸らしたジェリーに、そういえば、とマイケルは構わずに疑問をぶつけた。
「なんであんなところに?」
「たまたま用事があったんだよ」
すごい偶然もあるもんだな、とマイケルはその偶然に感謝した。
「ありがとう、おかげで助かった」
「残念だ、おかげで巻き込まれた」
感謝を悪態で返すジェリーは、顔に浮かぶ疲労の色を隠しもしなかった。その様子に、流石のマイケルも気まずい気持ちになる。
「……本当にごめん、僕の問題なのに」
「そうだな」
否定もせずに、ジェリーはそこに置いてあった椅子にどっかりと腰かけた。責めるような口調に、マイケルは眉を下げる。そうだ、マイケルが厄介事を持ってきてしまったから彼はこうして逃げるハメになっている。
気まずい沈黙が二人の間に流れる。立ちすくむマイケルと、不機嫌そうによそを向くジェリー。
「お前ら……俺の店に、常時夜のテンションで入ってくるんじゃない……昼間はカフェやってるとはいえ……」
表から戻ってきたケヴィンが二人の間に割って入る。彼は、重そうなまぶたをこすっている。客がいないからと店の奥でうたた寝をしていたケヴィンを叩き起したせいだ。彼の開けた扉の向こう側から、淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。同時に、この香りはベーコンだろうか? ジェリーの鼻にもそれが届いたのだろうか、ジェリーが鼻をヒクつかせて顔を上げた。
「うまそう……!」
「お前の様な不躾な男にやるモンはないぞ、J」
「いいだろ、食わせろよ」
金は払えよ、とケヴィンがぼやきながらカウンターへと向かう。ジェリーもその後へといそいそと向かった。マイケルは一人バックヤードに残される。頭の中を先ほどの会話が駆け巡った。
「ミック! 来ないとお前の分も食っちまうぞ!」
ケヴィンが声を張った。マイケルは急いで表へと向かった。




