Ⅺ 狂熊の秘薬
立ち上がったエドヴァンスの肩口が爆ぜた。火筒の咆哮が帝座の間へ響き渡る。
「がっ!」
血飛沫を散らしながら膝をついたエドヴァンスを見て、スネイクラストの眉がぴくりと動いた。撃ったのはヴァルツだ。
既に全身が血に塗れ、まともに立つことすら難しいはずのエドヴァンスに、態々火筒の一撃を加えずとも、ヴァルツの実力であれば排除出来る筈だ。スネイクラストは衝天の勢いで髪を逆立てる。
「火筒を使うとは」
低い声でボソリと呟く。怒りを押し殺した大きくはない声だ。それを聞き取ったヴァルツは嗤う。
ヴァルツも唇から血を流していた。ヴァルツとて連戦に次ぐ連戦で、帝国最強の四人を相手にしたのだ、無傷とは行かない。
「これは戦だ」
スネイクラストはしばらく男を見つめた。そして首を振る。いつの間にか勘違いをしていたのは自分であると、ヴァルツに指摘され納得した。
「そうか……そうだな、これは決闘ではない」
一歩前へ出る。ヴァルツを再度阻んだ。スネイクラストは目配せする。フィンバロスとルアドリオの二人が頷いた。
「では、こちらも戦争をやらせてもらおう」
次の瞬間、スネイクラストが大きく振りかぶるとヴァルツがそれに対応する。その隙きにフィンバロスが飛び出した。鈍い白銀の舶刀が閃く。
油断か――フィンバロスの刃が届き、ヴァルツの脇腹を切り裂いた。鮮血が噴き出す。それにも構わず、ヴァルツがフィンバロスを殴り付けた。吹き飛ぶフィンバロス。
まだ、スネイクラストの黒剣の一撃は来ない。避けるためにヴァルツが後退するかと思われた刹那。
反対側からルアドリオが踏み込んだ。刃が背中を斜め一文字に抉り摂る。流石にヴァルツの体が大きく揺れた。
そこへ、最後にスネイクラストの黒剣が振り下ろされた。石床が砕ける轟音と共にヴァルツの巨体が吹き飛び、床へ叩きつけられる。
それは、誰の目にも致命傷だった。
――もはや助かるまい。
誰もがそう思った。だが、横たわるヴァルツが口を開く。その声に苦痛も悔しさもなく、淡々と話すだけだ。
「流石に敵わんな」
ヴァルツは苦笑した。左右の腕の骨が折れている。肋骨が肺に刺さり、内臓はいくつか破裂しているだろう。見事な豪剣だった。
「貴様は何がしたかったのだ?」
ピクリとも動かぬヴァルツに近づくスネイクラスト。そして疑問を口にした。しばらく沈黙した後、ヴァルツは天井を見上げる。何かを思い出すかのように。
「命令だ」
スネイクラストが理解不能という顔をした。だが、エドヴァンスは違う。ヴァルツの異常に気が付いた。痛みに体を引き摺りながら、這いずるように来る。
「ヴァルツ……貴様何を言っている」
「命令だ」
男は繰り返した。スネイクラストは囈言か?と聞いたが、エドヴァンスは首を振る。
「俺は命令に従った」
「お前は故郷に帰っただろう」
先程の会話を繰り返しながら、エドヴァンスは違和感を感じていた。ヴァルツはこんなにも無表情だっただろうか。
「レノスで働き口を紹介された」
「誰に」
「ゴート人の行商人に」
レノスにはゴート人も多い。東ゴッティア辺境王国が存在していたこともあるが、ゴートの故地が近いのだ。それ故、不自然ではない。
「それで?」
「命令に従った」
また、同じことの繰り返しか……と思われた。しかし、ヴァルツは違うことを話し始める。
「俺は眠れなくなっていた」
「何故だ?」
「北から帰ったらそうなっていた」
――なんだと?
「最初は兵が眠れないと言った」
誰も口を挟まない。一体、何の話だ?
「皆、悪夢ばかり見ていた」
遠くを見るような目だった。一年の殆どを雪と氷に閉ざされた〈北辺の果て〉。終わりの来ない戦争だった。フィヨルドの村に火を放ち、全ての村人を殺して行く。
「北の雪は寒かった」
夜になれば吹雪となることも多い。天幕なら多少は遮れる寒さも、歩哨をする者は凍えながらの任務だ。
「皆、夜になると魘された」
目を瞑れば殺した者たちの顔が浮かぶ。女子供まで一人残らず殺さねばならなかった。心的外傷になった者も多い。ノルド人がバイキングの元凶であり、対話が成り立たないとしてもそこまでしなければならなかったのか――それは全ての兵の思いだった。
「医者が薬を勧めてきた」
「薬?」
エドヴァンスが眉をひそめる。心当たりはあった。軍医長から薬の補給を求められ、現地での購買を許可した覚えがある。
「よく眠れる薬だ」
ヴァルツは笑った。死んだように眠る仲間を思い出したのだ。あまりも起きないので、蹴飛ばして起こしたこともある。
「今度は眠り過ぎるようになった」
歩哨は眠りこけ、翌朝には凍って死んでいた。起きない者が増え、策戦に支障が出始める。困ったヴァルツは軍医に相談した。
「そうしたら、起き続けられる薬を呉れた」
ラパステーの顔色が変わる。フィンバロスは当りか、という顔をした。だが、声には出さない。ヴァルツは続けた。
「皆、眠らなくても平気になった」
実際には眠らなくても平気になったのではない。眠くなると薬で覚醒し、次第に依存するようになっただけだった。
「寒さにも耐えられた」
「腹も減らなくなった」
そこで言葉が途切れる。長い沈黙のまま、目を閉じた。出血は止まりつつある。だが、血の気が引いていた。
やがて男は呟いた。
「だが、笑顔は無くなっていった」
ラパステーが到頭、震える声を漏らした。
「狂熊……」
ヴァルツは否定しも肯定もしない。そんな名前は知らなかった。そして、ただ横たわったまま呼吸を続ける。
止まっていたかに見えた血が広がる。血は背中に溜まっていただけだった。石床に広がり血の色に染めていく。
そして――。
「命令を……」
ヴァルツの口から掠れた声が漏れる。人を喰ったような男であった。元々は物静かな読書好きの男であったという。
「命令を……」
誰も答えない、誰も答えられない。エドヴァンスも、スネイクラストも、フィンバロスも、ルアドリオも、ラパステーも、誰もが彼の雇い主ではなかった。
「命令を……」
男はそれしか言わない。二十年近く、命令だけで生きてきた。
戦え――と言われれば戦った。
進め――と言われれば進んだ。
殺せ――と言われれば殺した。
耐えろ――と言われれば耐えた。
命令だけが彼の人生だった。
オルガが歩み寄る。ゆっくりと、紅い衣を引きながら。ドレスの裾が血に汚れるのも気にせず、近付いた。
「ヴァルツ・ハイゼン」
男の瞳が僅かに動いた。ヴァルツがオルガを見る。そこには憎しみも哀しみもなく、飼い犬が主を見つけたかのような笑みが浮かんでいた。
「命令を……」
「ええ」
オルガは頷いた。
「命令よ、もう休みなさい」
初めて、ヴァルツの顔から力が抜けた。
静寂が降りた。炎の爆ぜる音だけが響く。ヴァルツは目を瞬かせた。まるで意味が分からないように。
「休む……」
長い沈黙。
「そうか……」
血が口から零れる。
「俺は……休むのか……」
誰も喋らない。ヴァルツは再び天井を見上げた。その顔には初めての安堵があった。
「これで……眠れる……」
小さく息を吐く。そこで声は途切れた。最早ヴァルツは動かない。北方粛清軍最後の将軍は、静かに息絶えた。灰色腕章の革命兵たちが、次々に逃げ始める。
帝座の間が沈黙に満たされた。オルガはしばらく亡骸を見つめ、やがて顔を上げる。
「ラパステー、ベルセルクって何のこと?」
ラパステーは言葉に詰まった。スネイクラストは首を振る。ルアドリオは肩を竦めた。エドヴァンスも知らなそうな顔をしている。
「フィンバロス?」
「あー、俺ゃあ、詳しくはないぜ? 熊皮被りの伝説があるだろ? そういう昔話には裏があるって話さ」
フィンバロスの話は要領を得ない。再びラパステーを見据えた。
「ちゃんと話して」
「狂熊とは――樫覡の秘薬にございます」
全員が呆気に取られる。ドルイドとはケルトの祭司のことであり、古くは裁定者を兼ねた賢者の意味であった。時代が下るに連れて祭祀だけの存在となったが、本質は巫覡である。
「青龍教会の古文書にあったことが、トンネイア卿が仰った伝説の裏側ということになります」
元々はケルトの戦士が戦に赴くときに用いていた物だった。それが、効果の強い物を求められるようになり、死を恐れぬ狂戦士――熊皮を被った者と呼ばれるようになったのだ。効果が強ければ副作用が伴う。こうして狂熊の伝説が出来上がった。
しかし、西方帝国がケルタイを支配するようになって、ケルトでは使われなくなっていた。フィンバロスの話ではそれがゲルマノス人の中に残り、戦場で使われていたらしい。
「じゃあ、彼らも?」
「おそらく、北方戦線で蔓延していたのでしょう」
「凄惨な戦場故の戦死者だと思っていたが、薬による死者も多かっのかも知れぬ」
全員の視線はエドヴァンスへ向けられた。エドヴァンスは静かに首を振る。
「まさか……そんな……」
「知らなかったのだな?」
スネイクラストの無慈悲な問いがエドヴァンスを激昂させる。
「知っていれば辞めさせていた! 癈人になるのだぞ!」
だが、北方戦線の総司令官はエドヴァンスであった。知らぬでは済まされないこともある。
だが、オルガは違った。罪を問いたい訳では無い。この革命の結末をどうしたいのか。それだけだった。
怒りもない、憎しみもない、ただ少し疲れたような眼差しだった。
「それで?」
オルガは小さく首を傾げる。
「エドヴァンス・レイン、貴方はどうしたいの?」
それがエドヴァンスに突きつけられた最も鋭い刃だった。




