第三話:無口な公爵様の過保護と、消えた貴族
あれから数日が経ったけれど、私は元気に生きている。
食べられることもなく、呪いでおかしくなることもなく。それどころか、なぜか異常なほど快適な生活を送っていた。
「あの、エリザ。私、お洗濯を手伝いますよ?」
「と、とんでもございませんレティシア様! そのようなことをさせたら、私が閣下に何をされるか……っ! すべて全自動の魔法具がございますので、どうかお座りになっていてください!」
専属メイドとして付けられたエリザは、私が箒や洗濯カゴを持とうとするたびに半泣きで止めてくる。
どうやら公爵邸では、私に一切の労働をさせないという謎のルールが敷かれているらしい。
与えられた私室には、私が本を読むと言っただけで、王宮の宝物庫から出てきたような最高級の魔法ランプが設置された。光量が自動で調節され、目への負担が一切ないという国宝級の代物だ。
さらには、少しでも冷えるそぶりを見せれば、どこからともなく最高級の毛織物のショールが飛んでくる始末。
「なんだか、至れり尽くせりですね……」
ふかふかのソファでお茶を飲みながら呟くと、すぐ隣からカタン、とティーカップを置く音がした。
――そう、すぐ隣から。
「…………」
視線を向けると、そこには書類に目を通すヴァルター公爵の姿があった。
なぜか彼は、私が談話室にいると必ずやってきて、無言のまま隣のソファに座るようになったのだ。
相変わらず恐ろしいほどの美貌と冷たいオーラを放っているが、不思議と居心地は悪くない。むしろ、彼が近くにいると、私の手からあの『ぽわん』とした温かい力が勝手に流れ出て、彼の身体を少しずつ解しているような気がした。
「そういえば、昨日お見えになっていた他領の男爵様はどうされたんですか?」
ふと思い出して尋ねた。
昨日の午後、庭園を散歩していた際、挨拶に訪れていた若い男爵に声をかけられたのだ。彼は私が『没落寸前のノーヴァル家から押し付けられた身代わり』だと知っていたらしく、ニヤニヤと笑いながら私の髪に触れようとした。
その瞬間、背後から急激に空気が凍りつき、公爵様が『……触るな』と一言だけ低い声を出したのだ。男爵は白目を剥いて気絶してしまった。
私の問いに、部屋の隅で控えていた副官のカインさんが、なぜか滝のような冷や汗を流しながら前に出た。
「あ、あの男爵家でしたら、昨晩のうちに長年の脱税が発覚いたしまして。一族もろとも、北の最果ての開拓村へ送られることになりました」
「えっ、一晩でですか?」
「は、はい。すべては厳正なる法の下に行われたことであり、決して、決して閣下が私兵を動かして物理的に屋敷を包囲し、強引に証拠を炙り出して国へ突き出したわけではございません! ええ、閣下はただ静かに、微笑んでおられましたから!」
「まあ! 公爵様は悪を許さない正義感の強い方なのですね。素晴らしいです!」
私がぱあっと顔を輝かせて拍手をすると、カインさんは胃のあたりを押さえてうずくまってしまった。働きすぎだろうか。
私は改めて、隣に座る公爵様を見つめた。
彼は書類から目を離さず、相変わらずの無表情を貫いているが、よく見ると耳の端がほんの少しだけ赤い気がする。
――もしかして。
私を殺すために呼んだのではなく、大事にしてくれているのだろうか?
「公爵様」
「……なんだ」
「私、ここに来てから毎日とても幸せです。ありがとうございます」
素直な気持ちを伝えて微笑むと、彼はピタッと書類をめくる手を止めた。
そして、わずかに視線を逸らし、ぼそりと呟いた。
「……そうか」
たったそれだけの言葉だったけれど、彼の周りに漂っていた冷たい空気が、ふわりと甘く溶けたような気がした。
◇◇◇
(……この女は、狂っているのか)
執務室の机で、ヴァルターは自らの顔を片手で覆いながら深い息を吐き出した。
恐れもせず、逃げもせず、ただ嬉しそうに笑う。
彼女が隣にいるだけで、三年間、一時も休まることのなかった呪いの激痛が嘘のように消え去るのだ。
甘い陽だまりのような匂い。
柔らかい声。
自分に向けられる、屈託のない翠色の瞳。
昨日、あの下劣な男爵が彼女に触れようとした瞬間、ヴァルターの内でどす黒い殺意が爆発した。
その場で炭の塊に変えてやろうかと思ったが、彼女の前で血を流すことだけは本能的に避けた。だからこそカインを動かし、社会的に完璧に抹殺したのだ。
彼女は自分を「正義感が強い」などと勘違いして笑っていたが、そんな立派なものではない。
「……誰にも、触れさせない」
呪いで朽ち果てるはずだった自分の人生に、突然降ってきた一筋の光。
一度この温もりを知ってしまった以上、もう二度と手放すことなどできない。
ヴァルターの銀灰色の瞳に、静かで、ひどく重たい執着の炎が宿っていた。




