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第二話:初夜の訪問者と、痛まない傷

 案内されたのは、公爵邸の奥にある、それはそれは広くて豪華な寝室だった。

 天蓋付きのふかふかなベッドに、美しい細工が施されたアンティークの家具。魔力を帯びて優しく光るランプは、実家の薄暗い蝋燭(ろうそく)とは比べ物にならないほど温かい空間を作っている。


「……すごい」


 思わず感嘆の溜め息が漏れた。

 これまでの三人の婚約者は、ここで初夜を過ごした後に行方不明になったという。

 つまり、今夜あたり私がバケモノに食べられてしまうか、あるいは呪いでおかしくなってしまう可能性が高いということだ。


「でも、せっかくこんなに素敵なお部屋なんだから、最後くらい綺麗な場所で過ごしたいですよね」


 私は腕まくりをして、部屋の隅に置かれていた羽根ばたきを手に取った。

 普段から使用人が立ち入らないようにしているのか、よく見ると棚の上や窓枠にうっすらと埃が積もっている。実家で毎日屋敷中の雑巾がけをしていた私からすれば、これくらいの掃除は朝飯前だった。


「ふふーん♪」


 鼻歌を歌いながら、楽しげに埃を払っていく。

 実家の物置部屋での生活に比べたら、天国のような場所だ。どうせすぐ死ぬのなら、今この瞬間を楽しまなければもったいない。


 ——ガチャリ。


 突然、背後の重厚な扉が開く音がした。

 振り返ると、そこに立っていたのは、漆黒の髪と銀灰色の瞳を持つこの館の主——ヴァルター・ディアス公爵だった。


「あ、公爵様。こんばんは!」


 私が笑顔で会釈すると、彼は扉に手をかけたまま、微かに目を見開いて固まった。

 無理もないかもしれない。これから殺される(かもしれない)花嫁が、怯えるどころか鼻歌交じりに部屋の掃除をしているのだから。


「……何をしている」


 地を這うような、低く冷たい声。

 普通の令嬢ならその声だけで震え上がるところだろうが、実家で毎日のようにお父様やお姉様から罵倒されていた私にとっては、ただの「静かな声」にしか聞こえなかった。


「お掃除です! 素晴らしい調度品ばかりなのに、埃が被っていては可哀想ですから。あ、もしかして私、勝手なことをしてしまいましたか?」

「……いや」


 公爵様は短く答えると、ゆっくりとした足取りで部屋の中へ入ってきた。

 近づいてくるにつれ、彼からひんやりとした、けれどどこか重苦しい空気が漂ってくるのを感じる。これが、彼を蝕んでいるという『黒の呪い』の気配なのだろうか。


 ふと、ランプの光に照らされた彼の右腕に目が留まった。

 袖口から少しだけ覗く肌に、黒い茨のようなおぞましい紋様が浮かび上がっている。

 それが生き物のように微かに脈打ち、その度に彼の端正な眉が、苦痛を堪えるようにほんの少しだけ歪んだ。


「お怪我ですか? それとも、ご病気……?」


 気づいた時には、私は無意識に彼へと歩み寄り、その右腕にそっと両手を添えていた。


「っ……! 触るな!」


 弾かれたように彼が声を荒らげる。

 だが、私が彼の腕に触れた瞬間——。


 私の中から、ぽわんっと温かい何かが流れ込んでいくような感覚があった。

 まるで、冷え切った身体が日向ぼっこをしている時のように、優しくて心地よい温もり。


「……え?」


 公爵様が、信じられないものを見るように自分の腕を見下ろした。

 先ほどまで痛々しく脈打っていた黒い茨の紋様が、私が触れた部分だけ、ほんの少し色が薄くなっている。


「傷、痛みますか?」


 私が首を傾げて尋ねると、彼は幽鬼のように青ざめた顔で、じっと私の顔と自分の腕を交互に見つめた。

 常に纏っていた氷のような冷たい空気が、少しだけ揺らいでいるように見える。


「…………いや」


 彼はそれだけを絞り出すように言うと、逃げるように踵を返し、足早に部屋を出て行ってしまった。

 バタン、と扉が閉まる音が響く。


「なんだ。無口なだけで、乱暴な方ではないんですね」


 とりあえず、今夜すぐに食べられてしまうことはなさそうだ。

 私はほっと胸を撫で下ろし、再び羽根ばたきを手に取って掃除の続きを始めた。


 ◇◇◇


(……痛みが、ない)


 執務室に戻ったカインは、主であるヴァルターの様子がおかしいことに気づき、怪訝な顔で首を傾げた。


「閣下? どうされましたか。まさか、あの令嬢もすでに……」

「カイン」

「は、はい」

「……俺は今、夢を見ているのか?」


 ヴァルターは自らの右腕を呆然と見つめながら呟いた。

 三年前から一日たりとも消えることのなかった、骨の髄まで焼き尽くすような呪いの激痛が、嘘のように引いている。

 あの小柄な令嬢が、小さな手でそっと触れただけで。


 翌朝。

 公爵邸の庭を見回っていたカインは、思わず持っていた書類を落としそうになった。


 呪いの瘴気に当てられ、数年前から枯れ果てていたはずの中庭。

 そのひび割れた土の隅っこに、小さな、けれど力強い純白の花が、一輪だけ凛と咲いていたのだから。

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