第四話:手紙の燃えカスと、手遅れな実家
穏やかで贅沢な日々がすっかり当たり前になった頃。
私が裏庭に植えた薬草の種は、なぜか一晩で芽を出し、今では花壇いっぱいに青々とした葉を茂らせている。
そんなある日、カインさんがひどく顔を引きつらせながら、一通の手紙を談話室に持ってきた。
差出人はなんと、私の実家であるノーヴァル伯爵家だった。
「……レティシア様。誠に申し上げにくいのですが、ノーヴァル伯爵から『娘を返せ』と」
「えっ? どうして急に」
「公爵閣下の呪いが解けつつあるという噂を聞きつけたようです。本来の婚約者はマリア嬢であるから、レティシア様を実家に戻し、代わりにマリア嬢を公爵夫人として迎え入れろ、と……」
なんと図々しい、とカインさんは怒りでワナワナと震えている。
私はパチクリと瞬きをした。お父様もお姉様も「どうせすぐ死ぬのだから」と私を厄介払いしたはずなのに。
ふと横を見ると、私の隣でお茶を飲んでいた公爵様が、無言のままスッと手を伸ばし、カインさんの持っていた手紙を指先でつまみ上げた。
――ボウッ。
「あ」
何の詠唱もなく、公爵様の指先から青白い炎が上がり、手紙は一瞬にして灰すら残さず消滅した。
相変わらず無表情だが、部屋の温度が急激に下がっている気がする。
「……カイン」
「は、はい!」
「あの家は、まだ潰れていなかったのか」
「申し訳ございません! 既に『数百年に一度の聖女候補をゴミのように捨てた愚かな家』として貴族社会から完全に村八分にされております。隠していた莫大な借金も各方面から一斉に返済を迫られ、没落はもはや数日以内かと! 恐らく、焦って最後にすがりついてきたのでしょう」
なるほど。実家、もうダメだったのか。
私がのんきに納得していると、屋敷の外からけたたましい声が響いてきた。
「通しなさいよ! 私はディアス公爵夫人になるマリア・ノーヴァルよ!!」
なんと、お姉様本人が公爵邸に乗り込んできたらしい。
私はエントランスホールへ向かった。公爵様も当然のように、無言で後ろからついてくる。
扉が開くと、そこには高価なドレスを着飾ったお姉様がいた。
私を見ると、お姉様はいつものように嘘泣きをしながら駆け寄ってこようとした。
「ああっ、レティシア! 無事だったのね! さあ、あなたはもう実家に帰っていいのよ。これからは、公爵様のお世話はお姉様が代わってあげるから……っ!」
昔の私なら、逆らえずに頷いていたかもしれない。
でも、今の私は知っている。ふかふかのベッドの温かさも、美味しいご飯の味も。そして何より、無口だけど不器用で、いつも私の隣にいてくれるこの人の優しさを。
「お姉様」
私は、とびきりの笑顔を浮かべて首を振った。
「お気遣いありがとうございます。でも、お帰りください。ここは、私の家ですので」
「……は? あんた、誰に向かって口を利いて……!」
お姉様が本性を現し、甲高い声で怒鳴りかけたその瞬間。
私の背後に立っていた公爵様が、スッと一歩前に出た。
「――消えろ」
氷の刃のような、低く絶対的な声。
銀灰色の瞳が、虫けらを見るような冷酷な光を放ってお姉様を射抜く。
そこには、私に向けてくれるような温もりは一切なかった。本物の『黒死公』の、底知れぬ殺気と威圧感。
「ひっ……!」
お姉様は腰を抜かし、ガチガチと歯を鳴らして震え上がり、そのまま屋敷から逃げ出していった。
きっと、実家に戻っても彼女たちには借金取りしか待っていないだろう。少しだけ気の毒に思ったけれど、それ以上に心が晴れやかだった。
◇◇◇
(……『私の家』か)
逃げ帰る愚かな女の後ろ姿など、ヴァルターの視界にはもう一ミリも入っていなかった。
彼の意識は、先ほどレティシアが放った言葉だけに集中している。
ここは、私の家。
彼女ははっきりとそう言った。この恐ろしい呪われた館を、自分の居場所だと言い切ってくれたのだ。
「公爵様? どうかされましたか?」
振り返った彼女が、不思議そうに小首を傾げる。
その無防備で愛らしい姿に、ヴァルターは胸の奥が甘く締め付けられるのを感じた。
もう、呪いが解けようが解けまいが関係ない。
この光は、絶対に誰にも渡さない。這いつくばってでも、どんな手を使ってでも、永遠に自分のそばに縛り付けてみせる。
「……いや、何でもない」
ヴァルターは短くそう答えると、彼女の小さな手を、誰にも奪われないようにそっと、けれど強く握りしめた。




