第9話 夢の跡、現実の重み、そして美しき鬼教官
夢のような時間は、いつだって瞬きする間に過ぎ去るものだ。
シルヴェールの開港祭。あの熱狂と興奮、そしてオークションでの衝撃的な価格設定に打ちのめされた後、俺たちはマリー様が用意してくれた「別邸」へと移動した。
別邸、という言葉の響きから、俺は森の中にひっそりと佇む隠れ家的なコテージを想像していたのだが、現実は非情なまでに俺の庶民感覚を粉砕した。
そこにあったのは、俺の実家であるオネスティー男爵邸(現在は他人の手に渡っているが)が二つ、いや三つは入りそうな、白亜の宮殿だったのだ。
「さあ、今日は遅くまで語り明かしましょう!」
マリー様のその一言で、宴は深夜まで続いた。
豪華な食事、極上の酒、そして気の置けない友人たちとの他愛のない会話。
ボブが酔っ払ってオークションのエルフ美女への未練を語り、アルがそれを冷静に分析し、チャートが真面目な顔で騎士団の裏話を披露する。
女性陣は女性陣で、何やらヒソヒソと楽しげに(時に俺たちの方を見てクスクスと)盛り上がっていた。
あまりに楽しすぎて、俺は時の経つのも忘れ、気づけば窓の外が白み始めていた。
◇
翌朝。
俺、グラス・ド・オネスティーは、鉛のように重い瞼をこすりながら、魔導船『オネスティー号』の甲板に立っていた。
「ふわぁ……眠い」
「口元が緩んでいますよ、ご主人様。船長としての自覚をお持ちください」
背後から、冷ややかな声が飛んでくる。
振り返れば、朝日に輝く銀髪をなびかせ、一分の隙もないメイド服姿のサクラが立っていた。
彼女は昨夜、俺たちがバカ騒ぎをしている間も涼しい顔で給仕をこなし、今朝は誰よりも早く起きて船の点検を済ませている。
このホムンクルスに、睡眠という概念はあるのだろうか。
「わかってるよ。みんなを王都まで送り届けるまでは、俺が船長だ」
「それは頼もしい。では、操船は私が担当しますので、ご主人様は皆様の機嫌取り……いえ、おもてなしに専念してください。居眠りをして海に落ちても、拾う手間が惜しいですから」
「最後の一言、必要!?」
サクラに操船を任せられるのはありがたい。
寝不足の俺が舵を握れば、運河の壁に激突して『貴族の友人を乗せたまま爆沈』という新聞の一面を飾りかねないからだ。
だが、だからといって客室で高いびきをかくわけにはいかない。
万が一、俺が寝ている間にサクラが何か(主に俺の尊厳に関わること)をしでかさないとも限らないのだ。
俺の安全保障は、俺自身の覚醒にかかっている。
やがて、マリー様たち一行が乗船してきた。
「おはよう、グラス君。昨日は楽しかったわね」
「おはようございます、マリー様。お楽しみいただけたなら光栄です」
俺は精一杯の爽やかスマイル(自分比)で迎えた。
船は滑るようにシルヴェールの港を出て、王都へと続く大運河に入る。
この運河は、多くの商船や客船が行き交うため、厳格な制限速度が設けられている。魔導船の全力が出せないのはもどかしいが、それでもやはり速い。
風を受けて走る帆船とは違い、魔力駆動による一定の推進力があるため、風待ちや潮の流れに左右されにくいのだ。
「あら……もうあんなところまで?」
デッキでお茶を飲んでいたマリー様が、驚いたように岸辺の景色を指差した。
「うちの家で使っている快速船でも、ここまではもっと時間がかかるわ。一時間は早いのじゃないかしら」
「ええ、この船の自慢は小回りとスピードですから」
俺が胸を張ると、マリー様は興味深そうに船体を撫でた。
「ふうん……便利ね。グラス君、あなた、いいものを持っているじゃない」
その瞳が「欲しい」と言っていないか少し不安になったが、さすがに公爵家が一個人の船を取り上げるような真似はしない……と信じたい。
結局、通常なら半日はかかる道のりを、わずか三時間で走破し、俺たちは王都セルフィニシュの港に到着した。
◇
「ありがとう、グラス! また飲もうぜ!」
「商売、頑張れよ!」
友人たちを見送り、俺は再び「孤独な商人」へと戻った。
いや、正確には孤独ではない。毒舌な相棒がいる。
「さて、感傷に浸っている暇はありませんよ、旦那様。時は金なり。すぐに次の仕事です」
サクラが容赦なく現実を突きつけてくる。
俺たちは王都のギルドへ向かい、とんぼ返りでシルヴェールへ運ぶ荷物を探した。
幸い、前回好評だった高級ワインの輸送依頼がまた出ていた。
「よし、ワインの輸送を受託しよう。これなら勝手がわかっているし、確実だ」
手続きを済ませ、俺たちは倉庫へ向かう。
まだ昼前だというのに、王都の喧騒は凄まじい。
荷馬車が行き交い、怒号と笑い声が飛び交う。
そんな日常の風景を眺めながら、俺の頭の片隅には、昨日のオークションの光景がこびりついていた。
「……それにしても、高かったなぁ」
俺はぽつりと呟いた。
「何がです?」
「昨日のエルフだよ。あの落札価格……今の俺の全財産どころか、親父たちが失った大型帆船二艘分より高かったんじゃないか?」
思い出すだけでめまいがするような金額だった。
たった一人の奴隷に、城が建つような金が動く。
「一体、誰が買うんだよあんなの。王族か? それとも裏社会のドンか?」
「需要と供給のバランスですね。希少性こそが価値です」
サクラは淡々と答える。
「それに、『誰が買うのか』と問われれば、答えは簡単です。旦那様のようなヘタレが大金を、それこそ一生に二度とないような幸運で得た時くらいでしょうか」
「……なんだよそれ。俺が金持ちになったら買うってこと?」
「いいえ。旦那様のような甲斐性のない男性は、奴隷契約という強制力でもなければ、女性に相手にされないでしょうから。金で愛を買うしかない、という皮肉です」
「ぐはっ……!!」
サクラの言葉が、物理的な衝撃を伴って胸に突き刺さる。
毒が強すぎる。解毒剤が必要だ。
「ち、違うもんね! 俺だってそのうち、運命の出会いが……」
「あるといいですね。来世あたりで」
完敗だ。
言い返す言葉もない。
俺は話題を変えることにした。
「……まあ、エルフの美女は高嶺の花だとしてもさ。本当に欲しいのは、実用的な奴隷なんだよ」
今の俺に必要なのは、目の保養ではなく、労働力だ。
荷運びをしてくれる屈強な男手や、船の操縦を交代してくれる船乗り。そういった専門職の奴隷がいれば、商売の規模を一気に拡大できる。
「昨日出てた熊人族とか、元船乗りの奴隷とか……あいつらなら、まだ手が届くんじゃないか?」
俺が淡い期待を口にすると、サクラは懐から手帳を取り出し、パラパラとめくった。
「昨日の落札データを確認しましたが……結論から言えば、無理ですね」
「即答!?」
「戦闘や重労働に特化した奴隷は、冒険者パーティや土木ギルド、あるいは軍部が高値で買い占めます。旦那様の現在の資金力では、足首一本買えるかどうか」
「足首だけあってもホラーなだけだよ!」
世知辛い。
あまりにも世知辛い世の中だ。
結局、俺には「自分の体」という資本しかないのだ。
「はぁ……やるか」
俺はため息をつき、ギルドで借りた荷車を押して、ワイン倉庫へと入った。
そこには、ずらりと並んだ樽、樽、樽。
クーリーを雇う金はあるが、今回は利益を最大化するために、自分で運ぶことにしたのだ。
昨日の豪遊で散財した分も取り戻さなければならない。
「よっ、と……!」
俺は歯を食いしばり、樽を荷車に乗せる。
重い。腰に来る。
ふと横を見ると、サクラが優雅に日傘を差して立っていた。
「…………」
俺はジト目で彼女を見る。
サクラはホムンクルスだ。
その身体能力は人間を遥かに凌駕する。
以前、暴れ牛の角を片手で掴んで止めたのを俺は見ている。
この樽など、彼女にとっては小指で持てるレベルのはずだ。
「……あのさ、サクラちゃん?」
「何でしょう、ご主人様。応援ならしておりますよ? フレー、フレー」
棒読みだ。
心の欠片もこもっていない。
「手伝ってくれるという選択肢は?」
「ありません」
キッパリと言い切られた。
「私はご主人様の『従者』であり、設定上は『可憐な美少女メイド』です。このような粗野な力仕事をして、筋肉がついたらどう責任を取ってくれるのですか?」
「お前、筋肉つかないだろ! 造り物なんだから!」
「気分の問題です。それに、主人が汗水垂らして働く姿を見るのは、教育的観点からも非常に有意義です」
「ドSか! お前絶対楽しんでるだろ!」
抗議は却下された。
俺は泣きながら樽を運び、荷車を押し、船へと積み込んだ。
汗だくになりながら最後の一個を積み終えた時、俺はまた一つ、大人の階段を上った気がした。(主に腰痛的な意味で)
◇
荷積みを終えれば、すぐに出航だ。
王都の港は、昼過ぎになってさらに混雑していた。
無数の商船、漁船、渡し船がひしめき合い、水面が見えないほどだ。
ここから船を出すのは、至難の業だ。
「よし、出航だ。……サクラ、頼めるか?」
俺は期待を込めて振り返る。
だが、サクラはデッキチェアに腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいた。
「お断りします」
「なぜだ! さっきまでは操船してくれたじゃないか!」
「お客様(マリー様たち)を乗せている時は、安全が最優先でしたから。ですが、今はただの貨物輸送です。船長であるご主人様が操船技術を磨く、絶好の機会ではありませんか」
「いや、ぶつかる! 絶対ぶつかるって!」
「大丈夫です。船殻は強化魔法でコーティングされていますから、多少擦っても沈みはしません。相手の船は沈むかもしれませんが」
「それが一番まずいんだよ! 賠償金で破産するわ!」
結局、俺が舵を握ることになった。
心臓が早鐘を打つ。
右からは巨大なガレオン船が迫り、左からは素早いゴンドラが横切る。
「ひぃぃっ! ちょ、ちょっと待って! そこ通るの!?」
俺は悲鳴を上げながら舵を切る。
魔導船は俺の意思に反応してキビキビと動くが、俺の判断速度が追いつかない。
ガリッ!
「ああっ! 今の音! 今の音は何!?」
「流木ですね。セーフです」
サクラが紅茶のカップを持ったまま、冷静に実況する。
「右舷、前方より漁船接近。回避行動を」
「わかってる! でも潮の流れが……!」
「面舵一杯。魔力出力、左舷スラスターに二十パーセント」
本当に危ない瞬間になると、サクラから的確すぎる指示が飛んでくる。
俺はその指示に従って必死にレバーを操作する。
すると、オネスティー号はまるでダンスを踊るように、船と船の隙間をすり抜けていくのだ。
「……はぁ、はぁ。抜けた……?」
港を出て、広い川幅のエリアに出た頃には、俺は精神的に疲労困憊していた。
振り返れば、サクラが「やれやれ」といった顔で立っている。
「見ていられませんね。最後のアプローチ、あそこで減速しなければ、もっとスムーズに抜けられたものを」
「結果オーライだろ……」
俺はへたり込む。
わかっている。
彼女はできるのだ。
操船も、荷運びも、計算も、交渉も。俺よりも遥かに高レベルで。
それでも彼女は、「可憐なメイド」というスタンスを崩さない。
それは単なる意地悪なのか、それとも俺を「自立」させるためのスパルタ教育なのか。
……たぶん、七割くらいは意地悪だろうな。
王都を背に、船は川を下る。
風が心地よい。
俺は甲板に大の字になって、流れる雲を見上げた。
今はこうして、王都とシルヴェール、カレンシーを行き来するルーチンワークで食いつないでいる。
資金も少しづつだが溜まってきたし、生活に困ることはない。
だが、これでいいのか?
親父の商会を取り戻す。家を再興する。
その夢を叶えるには、このままでは何年かかるかわからない。
百年?
二百年?
俺の寿命が尽きる方が先だ。
あのオークションで見た、目の眩むような金額。あれが「本物の商売」の世界だ。
俺のような個人商人がそこへたどり着くには、今の安定を捨てて、何か大きな賭けに出なければならないのではないか。
「……冒険、か」
口に出してみると、その言葉は甘美で、同時に恐ろしい響きを持っていた。
未開の海域、未知の交易品、ダンジョンからの遺物。
ハイリスク・ハイリターン。
今の俺に、その覚悟があるだろうか。
「旦那様。独り言がシリアスになっていますよ。似合いません」
サクラが覗き込んでくる。
その瞳は、何かを見透かすように深い色をしていた。
「……うるさいな。ちょっと将来設計をしてただけだよ」
「そうですか。では、その将来設計の中に、『今日の夕食の献立』も入れておいてくださいね。私は魚料理が希望です」
「はいはい、わーってますよ」
俺は苦笑して体を起こした。
今はまだ、このルーチンワークをこなそう。
だが、いつか必ず、この優秀すぎる従者をあっと言わせるような「大商い」をやってやる。
そう心に誓い、俺はカレンシーへと向かう舵を強く握り直した。
船首が波を切り裂き、白い飛沫を上げる。
俺の「自立」への航海は、まだ始まったばかりだ。




