第5話 汗と涙と、紙切れ一枚の商売人
かつて、偉大なる先人は言った。「労働は神聖なものである」と。
だが、あえて言わせてもらいたい。
いきなり高負荷の肉体労働を課せられた元・温室育ちのボンボンにとって、それは神聖というより「地獄の責め苦」に近い、と。
「ぐ、ぐぬぬ……重い! なんだこの樽! 中身は鉛か!?」
「いいえ、ご主人様。それは上質な赤ワインです。落とせばあなたの労働三ヶ月分がパーになりますから、気をつけてくださいね」
カレンシーの港。照りつける太陽の下、俺は必死の形相で樽を抱えていた。
ボライソー船長から借りた、手漕ぎの古びたボート。通称「オネスティー丸(仮)」。
俺の記念すべき再出発の第一歩は、沖に停泊するボライソー船長の大型帆船へ、補給物資を運ぶ「艀仕事」だった。
仕事内容は単純明快。
一、桟橋で水や食料、酒の入った樽を受け取る。
二、揺れる小舟に積み込む。
三、オールを漕いで沖の船まで運ぶ。
四、ロープで荷揚げする。
文字にすればたった四行。
だが、この四行には俺の悲鳴と絶望が凝縮されていた。
「ひぃ、ひぃ……! 手、手のひらが……!」
「皮がむけましたか? 大丈夫、人間には『再生』という便利な機能が備わっています。続けてください」
桟橋の上で日傘をさし、優雅に見下ろすサクラ。彼女は現場監督だ。
手は貸さない。口は出す。
俺は血の滲む手でオールを握り、波に逆らってボートを進める。
飲料水の入った樽が三つ。
ワイン樽が二つ。
バランスを崩せば転覆。波を被れば荷物が台無し。
貴族時代、重いものといえばティーカップと羽ペンくらいしか持ったことのない俺の筋肉繊維は、断末魔の悲鳴を上げてブチブチと千切れていった。
「おーいグラス! 遅いぞ! 日が暮れちまう!」
甲板からボライソー船長の怒鳴り声が飛ぶ。
俺は涙目で叫び返した。
「い、今いきますぅぅぅ!」
◇
初日の仕事を終えた俺は、廃屋同然の祖父の屋敷――の、床に転がっていた。
死体ではない。かろうじて生きている。
「……手が、動かない……」
手のひらは豆だらけで、いくつかは潰れてグロテスクな状態になっていた。
布を巻いて保護したが、焼け石に水だ。
全身の筋肉が熱を持ち、指一本動かすのも億劫だ。
「お疲れ様でした、旦那様。本日の売上は、銅貨二十枚です」
サクラがチャリンと硬貨を鳴らす。
銅貨二十枚。宿代と食事代を払えば消える額だ。
だが、今は家(廃屋)があるし、食事はサクラが海で釣った魚や、裏山で採った山菜で賄える。
つまり、純利益だ。
「……たったこれだけか……」
「『ペーパー(紙級)』商人ですからね。港内での小間使いができるだけマシです」
サクラは冷たいおしぼりを俺の顔に乗せた。
アメとムチの使い方が絶妙すぎて怖い。
「明日と明後日は、ボライソー様の船がシルヴェールへ向かうため、お仕事はありません。ゆっくり休んで、筋肉を超回復させてください」
「……二日も休みかよ。稼げないじゃん」
「今のあなたの体たらくでは、連勤すれば過労死します。オネスティー家再興の前に、墓石を建てることになりますよ」
悔しいが図星だ。
俺は泥のように眠った。
夢の中でも樽を運んでいた。
その後、俺の労働サイクルは「一日働いて二日死ぬ」という、ニート一歩手前の状態からスタートした。
ボライソー船長の船が戻ってくるまでの二日間、俺は屋敷の修繕(という名の破壊工作)をしたり、サクラにマッサージ(という名の関節技)をされたりして過ごした。
当然、稼ぎは少ない。
いただいた見舞金や支援金を使うという手もあったが、それは「魔導船」の修理費に消える運命にあった。
「いいですか、旦那様。あの船こそが、一発逆転の切り札です。あれが動けば、外洋へ出て莫大な利益を生み出せます。先行投資です」
「わかってるよ……」
かつて、俺の曽祖父も、この場所から魔導船一隻で成り上がったという。
サクラ曰く、曽祖父も俺に負けず劣らずのヘタレだったらしい。
親父もそうだ。
家ではサクラに頭が上がらず、母さんの尻に敷かれていた。
なのに、なぜ彼らは成功したのか?
「……しぶとさ、か?」
ギルド長も辺境伯も、親父のことを「タフだった」「しぶとかった」と評していた。
ヘタレとしぶとさは、紙一重なのかもしれない。
今の俺にできるのは、諦めずに樽を運ぶことだけだ。
一ヶ月が過ぎる頃には、俺の手の皮は厚くなり、豆も固まってきた。
労働サイクルも「二日働いて一日休む」くらいには改善された。
それでも、目標とする「十日のうち八日働いて二日休む」には程遠い。
◇
季節は巡り、夏が来た。
カレンシーの海が、一年で最も青く輝く季節だ。
俺はいつものように、作業着にねじり鉢巻という、元貴族とは思えないスタイルでボートのメンテナンスをしていた。
「おい! そこの小汚い漁師! オネスティー商会の屋敷を知らないか!?」
桟橋の方から、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、そこには派手な夏服を着た二人の青年が立っていた。
一人は金髪の真面目そうな青年。もう一人は、チャラチャラした軽薄そうな青年。
間違いない。王都の学園時代の親友、アルとボブだ。
「……アル? ボブ?」
「えっ、その声……グラス!?」
二人は目を丸くして俺を凝視した。
無理もない。日焼けして肌は黒くなり、筋肉も少しついた。何より、貴族特有の「ひ弱なオーラ」が消え失せ、「生活に疲れたおっさんオーラ」が出ているはずだ。
「お前、なんだその格好! 現地に馴染みすぎだろ!」
「グラス……本当に大変だったんだね……」
二人は駆け寄ってきて、再会を喜んでくれた。
だが、すぐにアルの表情が曇り、俺の胸ぐらを掴んだ(優しく)。
「なんで手紙の一通も寄越さないんだ! 心配したんだぞ!」
「そうだぜ! 僕らがどれだけヤキモキしたか! マリー様たちなんて『もしかして、どこかの港女と駆け落ちしたんじゃ』って泣いてたんだぞ!」
「えぇ……それはごめん……」
俺は素直に謝った。
正直、生きるのに必死すぎて、手紙を書く余裕なんてなかったのだ。
それに、屋敷を追い出されていたから、住所も不定だったし。
「屋敷も差し押さえられたんだ。今は祖父の古い別荘に住んでる」
「そうだったのか……。ごめん、責めて悪かった」
「いいってことよ。……あ、そういえば」
俺はある重大な事実に気づき、青ざめた。
「俺……ギルドにもしばらく顔を出してない」
「はあ? 商人になったんだろ? 連絡とかどうしてんだよ」
「いや、仕事はボライソー船長から直接もらってたし、サクラが何とかしてくれてるかと……」
ボブが呆れた顔をした。
俺たちは急いで商人ギルドへ向かうことにした。
◇
ギルドの扉を開けると、そこには冷房が効いたかのように涼しい笑顔のマーガレットさんがいた。
「あら、グラス君。お久しぶりですね」
ニッコリ。
その笑顔の裏に、般若が見える。
「ひぃっ! ご、ご無沙汰しております!」
「二ヶ月ぶり、ですね? 『ペーパー』ランクの新人が、報告も連絡も相談もなく、独自のルートで仕事をしている。……ギルドの規定、覚えていますか?」
「は、はい! 忘れておりません!」
マーガレットさんの説教タイムが始まった。
カウンター越しに正座させられ(心の中で)、コンコンと諭される。
「ご友人が来ているから手短にしますけど、次は除名処分も検討しますからね」
「肝に銘じます……」
横で見ていたボブが「うわぁ、美人の説教とかご褒美じゃん」と小声で言ったが、アルに脇腹を突かれて黙った。
一通りの説教が終わると、マーガレットさんはふぅと息を吐き、表情を和らげた。
「でも、頑張っているようですね。ボライソー船長から報告は上がっていますよ」
「えっ?」
「『あいつは根性なしだが、逃げ出しはしねえ。最初は一個しか運べなかった樽を、今じゃ二個同時に担いでやがる』って」
ボライソー船長……!
あの強面の船長が、そんなことを報告してくれていたなんて。
「それに、他の船からも指名が入っています。『丁寧で、真面目な運び屋がいる』って評判ですよ」
マーガレットさんは一枚の羊皮紙を取り出した。
「おめでとうございます、グラス君。ギルドの審査が通りました」
「審査?」
「ランクアップです。『ペーパー(紙級)』から、『アイアン(鉄級)』への昇格を認めます」
渡されたのは、銀色に鈍く光る鉄製のプレートだった。
アイアンランク。
それは、港の中だけでなく、近隣の港との交易が許される証。
一人前の商人としての、最初のステップだ。
「やった……! 俺、上がったぞ!」
「おめでとうグラス! すげえじゃん!」
「努力が報われたんだね。さすが僕の親友だ」
アルとボブが背中を叩いてくれる。痛いけど、嬉しい。
手の豆が、筋肉痛が、すべて報われた気がした。
その時、ギルドの入り口から「チッ」という舌打ちが聞こえた気がした。
見ると、サクラが立っていた。
彼女は俺たちの様子を遠くから眺め、呆れたように、しかし口元には微かな笑みを浮かべていた。
「……ふん。ようやくスタートラインですか。予定より三日遅れですね」
聞こえてきた毒舌も、今日ばかりは祝辞に聞こえる。
「よし! 今日は祝いだ! 俺が奢るぞ!」
「おっ、太っ腹! 何食わせてくれんだ?」
「港の屋台の焼き魚定食だ! 一番高いやつ!」
「……お前、まだ金銭感覚は庶民レベルだな」
こうして、俺の「自立」への第一章は、最高の友人たちと、ほんの少しの自信と共に幕を開けた。
ボロボロの手には鉄のプレート。
心には「しぶとさ」という名の種火。
そして隣には、俺の財布を握りしめる最強の従者。
さあ、次は外の世界だ。
アイアンランクのグラス・ド・オネスティー、いざ出航!
……あ、その前に魔導船の修理費稼がなきゃ。




