第4話 没落貴族、ゼロからの再出発
人生には三つの坂があるという。
上り坂、下り坂。そして――「まさか」だ。
俺、グラス・ド・オネスティー(一五歳)は今、その「まさか」の急斜面を、ブレーキの壊れたトロッコに乗って転がり落ちた先の、泥沼の中にいた。
「おい、グラス。着いたぞ。ここがお前の故郷、カレンシーだ」
潮風に混じって、聞き覚えのある野太い声がした。
顔を上げると、髭面の巨漢がニカっと笑っている。
ボライソー船長だ。
王都への送迎をしてくれた彼が、失意の俺をここまで送り届けてくれたのだ。
「……ありがとうございます、船長。船代も出世払いでなんて、恩に着ます」
「気にするな。お前の親父さんには世話になったからな。……ま、頑張れよ」
ボライソー船長の「頑張れ」には、普段以上の重みがあった。
俺はタラップを降り、カレンシーの港に立つ。
活気ある港町。荷揚げをする人夫たちの掛け声、カモメの鳴き声。何も変わらない故郷の風景。
ただ一つ変わったのは――俺が「男爵家の嫡男」から「無一文の孤児」になったことだけだ。
「さて、ご主人様。感傷に浸っている暇はありませんよ。現実という名の請求書を確認しに行きましょう」
背後から、冷ややかな美声が鼓膜を刺す。
サクラだ。
彼女は相変わらず塵一つないメイド服姿で、俺の貧相な荷物を持っている。
いや、持たされている。
俺が持とうとしたら「貴族としての最後の一線まで捨てないでください」と怒られたのだ。
もう貴族じゃないのに。
俺たちは港から直行で、実家のオネスティー商会へ向かった。
そこにあったのは、見慣れた看板――ではなかった。
看板は外され、入り口には屈強な男たちが立っている。
「なんだ坊主、ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ」
「……俺はグラス・ド・オネスティーだ。ここの息子だ」
俺が名乗ると、中から古株の番頭が飛び出してきた。
やつれた顔をした彼は、俺を見るなり涙を流して事情を説明してくれた。
要約するとこうだ。
両親の船団遭難の報が入るや否や、隣国のライバル商会が「負債の肩代わり」を名目に乗り込んできた。
借用書を盾に、店舗、在庫、そして俺の実家である屋敷まで、すべてを差し押さえたらしい。
あまりにも手際が良すぎる。
まるで、遭難することを最初から知っていたかのように。
「……そうですか。父さんと母さんの安否は?」
「わかりません。ただ、生存の可能性は低いと……」
「……わかった。ありがとう」
俺は唇を噛み締めた。
商会の残存資産を整理し、従業員たちへの退職金に充てると、俺の手元に残ったのは「ゼロ」だった。
いや、借金が残らなかっただけマシか。
オネスティー商会は、今日をもって消滅した。
「見事なものですね」
帰り道、サクラがポツリと言った。
「これですっからかん。正真正銘、身一つです。どうしますか? 港で戻って小銭でも稼ぎますか? あなたのヘタレ踊りなら、同情でお金が集まるかもしれませんよ」
「踊らないよ! まずは、ケジメをつけに行くんだ」
俺は拳を握りしめ、次なる目的地、商人ギルドへと足を向けた。
◇
カレンシーの商人ギルドは、港の中心にある石造りの重厚な建物だ。
活気あふれるロビーに入ると、受付カウンターに花が咲いたような笑顔があった。
「いらっしゃいませ! どのようなご用件でしょうか?」
栗色の髪をポニーテールにした、健康的な美少女。
マーガレットさんだ。一七歳。このギルドの看板娘で、荒くれ者の船乗りたちも彼女の前では借りてきた猫になるという伝説の受付嬢である。
「あ、あの……オネスティー商会の件で……」
「あら? もしかして、グラス君? 大きくなったわね!」
マーガレットさんは身を乗り出して俺を見た。
その豊満な胸部がカウンターに乗っかっている。
ドクン、と俺の心臓が跳ねる。王都のマドンナたちとはまた違う、大人の包容力。
「えへへ、お久しぶりですマーガレットさん。実は――」
俺が少し鼻の下を伸ばしかけたその時、強烈な殺気が背後から突き刺さった。
「ご主人様。鼻の下が伸びていますよ。切り落としましょうか?」
「ヒッ!?」
「申し遅れました。私はグラス様の従者、サクラと申します」
サクラが能面のような笑顔で割って入る。
マーガレットさんは「あら、綺麗な方」と呑気に笑っているが、俺には見える。サクラの背後に「浮気即・去勢」という熟語が浮かんでいるのが。
その後、俺はギルド長室に通された。
禿頭のギルド長は、親父の昔馴染みでもあった。
「……そうか。あのタフなオネスティーがな……」
ギルド長は沈痛な面持ちで、革袋を差し出した。
「これは、お前の親父さんが積み立てていたギルドの共済金と、特別功労金だ。ゴールドランクの商会主だったからな、それなりの額が入っている」
「そんな……受け取れません」
「バカ野郎。これから一人で生きていくんだろ? 金はあって困るもんじゃねえ。親父さんが残してくれた命綱だと思え」
その言葉に、俺は涙をこらえて袋を受け取った。
……重い。金貨の重みと、親父の愛情の重みだ。
「ありがとうございます。大切に……」
「はい、私が管理します」
サシュッ!
俺が言い終わる前に、サクラの手が残像を残して革袋を奪い取っていた。
「え? サクラ?」
「ご主人様に大金を持たせると、ろくなことになりません。悪い虫がつかないよう、私が厳重に管理いたします。必要経費は申請制です」
「俺の命綱ーッ!?」
◇
命綱(財布)を奪われた俺は、その足でカレンシーの領主館へ向かった。
ここを治めるのは、親友アルの父親である、ステイン辺境伯だ。
「入れ」
重厚な執務室。書類の山に囲まれた辺境伯は、アルを三十年後にタイムスリップさせて筋肉増強剤を打ったような、威厳ある武人だった。
「グラス・ド・オネスティーです。……いえ、これより爵位を返上いたしますので、ただのグラスとなります」
俺は膝をつき、男爵家の紋章が入った指輪と書類を差し出した。
辺境伯はそれを受け取ると、深い溜息をついた。
「……アルから手紙が来ている。『グラスを助けてくれ』とな。あいつがあそこまで必死になるのは珍しい」
「アルが……」
「それに、私もお前の父親とは個人的に親しかった。あいつが持ち込む珍品には、いつも楽しませてもらったよ」
辺境伯の目が、鋭く光った。
「今回の件、あまりにも不自然だ。遭難から倒産までの流れが速すぎる。……黒幕がいるな」
「はい。ボブ……友人もそう言っていました」
「うむ。私の方でも調査を進めるが、お前も気をつけろ。敵はまだ、お前を見ているかもしれん」
そう言って、辺境伯は懐から分厚い封筒を取り出し、俺に投げ渡した。
「見舞金だ。とっとけ」
「えっ、しかし!」
「手切れ金ではない。再起のための投資だ。……アルの友人が、このまま終わるわけがないとな」
辺境伯の不器用な優しさに、俺は深く頭を下げた。
部屋を出ると、待機していたサクラが当然のように手を差し出してきた。
「はい、回収します」
「……お前、俺をATMか何かだと思ってないか?」
「ATM? なんですかそれは。私はただの金庫番兼、教育係兼、毒舌メイドです」
◇
実家を失った俺たちが向かったのは、街から少し離れた海岸沿いの寒村だった。
そこには、かつて祖父が隠居用に使っていたという、古びた屋敷があった。
商会の名義ではなく祖父個人の名義だったため、今回の差し押さえを免れた唯一の不動産だ。
「……ボロいな」
「趣があると言ってください。隙間風がシンフォニーを奏でる、素敵な廃屋ですね」
屋敷は蜘蛛の巣だらけで、床板は悲鳴を上げていた。
だが、サクラは案内を止めず、屋敷の裏手へと進んでいく。
そこには、崖をくり抜いて作られたような、巨大な船宿があった。
「ここに来るのは数十年ぶりですね」
サクラが懐から古びた鍵を取り出し、重い扉を開ける。
ギギギ、と錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、暗闇の中に光が差し込んだ。
「うわ……!」
俺は息を呑んだ。
そこにあったのは、一隻の船だった。
全長は十メートルほどだろうか。
大型帆船に比べれば小さいが、そのフォルムは異質だった。
滑らかな曲線を描く船体は、木ではなく、青白く輝く未知の金属で作られている。
帆柱はなく、代わりに船尾には複雑な機構の何かが取り付けられていた。
「これは……?」
「魔導船。古代の遺物です」
サクラが愛おしそうに船体に触れる。
「曽祖父様が私を海底遺跡から引き上げた時、私もこの船の中で眠っていました。いわば、私の揺り籠であり、オネスティー家の繁栄の礎となった船です」
「これが、魔導船……! 伝説の?」
魔導船。
風ではなく魔力を動力とし、風待ちの必要がなく、海流に逆らって進むことのできる夢の船。
現存するものは極めて少なく、王家や大貴族それに一部の商人が所有する程度だ。
それが、こんなところにあるなんて。
「すぐにでも使えるのか!?」
「無理ですね」
サクラは即答した。
「長年の放置で魔力回路が劣化しています。今のまま動かせば、港を出る前に爆発して、ご主人様諸共お星様になります」
「縁起でもない!」
「整備には特殊な素材と、私の調整が必要です。それなりに時間がかかりますし、お金もかかります」
結局、金か。
だが、希望はある。
この船さえ動けば、俺は海に出られる。
「わかった。整備はお前に任せる。俺は……金を稼ぐ」
◇
翌日。
俺は再び商人ギルドを訪れ、登録手続きを行った。
かつて親父が持っていた「ゴールドランク」の輝きはない。
渡されたのは、ペラペラの羊皮紙一枚。
「はい、登録完了よグラス君! ランクは……『ペーパー(紙級)』ね」
マーガレットさんが申し訳なさそうに言った。
ペーパーランク。
最下層のアイアンよりも下。
このカレンシー港内でのみ活動が許される、見習い以下の存在だ。
「ありがとう、マーガレットさん。……ここから、這い上がってみせるよ」
「うん、応援してるわ!」
ギルドを出た俺は、港の桟橋へ向かった。
そこには、ボライソー船長が用意してくれた、手漕ぎの小舟が一艘浮かんでいた。
「よお、若大将。そいつが今日からお前の相棒だ」
「船長……ありがとうございます」
「仕事も世話してやる。沖に停泊している大型船への水や食料の運び込みだ。キツイ仕事だが、日銭にはなる」
艀仕事だ。
華やかな貿易商とはかけ離れた、肉体労働。
俺はスーツを脱ぎ捨て、作業着に着替えた。
「旦那様、似合いますね。その泥臭い格好」
桟橋で見送るサクラが、いつものように毒を吐く。
「褒め言葉として受け取っておくよ。……見てろよサクラ。ここからもう一度、オネスティー家を再興させてやる」
「口だけならタダですからね。精々、腰を痛めないように頑張ってください。あなたが稼がないと、私の整備費が出ませんので」
「お前のためかよ!」
俺は小舟に飛び乗り、オールを握った。
手にマメができるだろう。腰も痛くなるだろう。
だが、不思議と心は晴れやかだった。
失うものはもう何もない。
あとは、上るだけだ。
「ペーパー商人」グラス・ド・オネスティーの、泥まみれの快進撃が、ここから始まる――!




