九話
「お帰りなさいませ、旦那様、お嬢様」
無事に帰ってくると安堵する。すっかりここが帰る場所になってしまったようだ。狐塚家では帰りたいだなんて考えたこともなかった。あの場所は私に苦痛を与える場所でしかない。こんな暖かくて優しい場所を知ってしまったら尚更。
「旦那様、少しよろしいでしょうか」
春海さんが庵司さんにそう話しかける。
「わかった。私の事はいいから先に夕食を食べておいてくれ」
「ですが、だ…庵司さん。先に食事に手をつけるのは申し訳ないです」
主人より先に食事に手をつけてはならない…と骨の髄まで染み込んでいる私にはひどく難しい事だった。
「冷めた食事を食べさせるわけにはいかない。いいから先に食べていてくれ」
「…わかりました」
私は頭を下げると今に向かい、庵司さんと春海さんは他の空部屋へと向かった。
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「旦那様、お話と言うのはお嬢様の事です」
「どうかしたのか?」
この部屋には二人だけだが春海は声を潜めた。
「実はおけいが今日お嬢様の身体中にあった痣や傷の痕を見まして…。もしかしてお嬢様は虐待…をお受けになっていたのではと思ったのです」
視界が回るような、足元から崩れていくような…そんな感覚に庵司は陥った。そんな…まさか?しかし思えば確かに虐待を受けていたりしたのならば納得できる節がいくつもあった。
「詳しく、調べてみよう」
庵司は仕事の合間に今はもうない狐塚家のことを調べ始めた。まず最初に目につくのは多大な浪費。狐塚慶三の借金が没落の決め手となったが、借金を作らなくてもそのまま静かに狐塚家は没落しただろう。
浪費の一番の原因は長女狐塚桜子。没落し行く狐塚家に対して浪費額は増えていった。海外からの輸入品が特に目立つ。
没落と共に解雇された元使用人達の証言もとれた。その多くは罪悪感から。使用人すらも薫子を蔑み、虐げたという。後妻の子というだけで。
あんなに家事ができたのは一ヶ月ほど庶民の暮らしを経験したからではない。その前からずっと…虐げられ奴隷同然の扱いを受けた。
「もっと早く、気づいてやれればよかった」
不自然な態度もそういう性格なのだろうと深く考えなかった。婚約者を大切にしているつもりでその実深く関わることを避けた。庵司の不器用な態度は誤解を招きやすい。
その日の夜中、衝撃の真実に眠れずフラフラと庵司は廊下を歩いていた。母屋にいるのは庵司と薫子だけ。自然と薫子の部屋の前まで来てしまっていた。
静かな夜に啜り泣く声が聞こえる。それは薫子の部屋からだった。
「ごっ…ごめんなさい…。私なんかが生きてっ…しまって…」
嗚咽まじりに吐き出される言葉に庵司は胸が締め付けられた。今すぐこの襖を開けて慰める事はなできない。それは恐怖を与える事でしかないのだろう。
ただ庵司は待つしかない。薫子が心を開いてくれるまで。
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初めて庵司さんと出かけた日からよく朝の散歩や買い物に誘われる様になった。何かを買ってもらったりするのは申し訳なかったが庵司さんが望むのなら…と私も甘んじて受けてしまっている節がある。
(私なんかがこんな綺麗な着物や洋服を…)
箪笥に入るものは増えていくばかりだ。そのお返しと言ってはあまりにも足りないが、私はよく洋食を作る様になった。
コロッケ、オムレツ、スパゲティ、トンカツ、ビーフシチュー、卵とハムのサンドイッチなど。どれも私が勤ていた喫茶店のメニュー通りでしかないけれど。
最近は庵司さんの微妙な表情の変化もわかる様になってきた。その表情が見たいがために洋食を多めに作っているのは秘密だ。
「お嬢様、こちらに来てください!旦那様からの贈り物ですよ」
今日も庵司さんを見送った後、洗濯をするはずがおりんさんに手を引かれ台所へと向かうことになった。台所には見慣れない桶の様なものにくるくると回す取手がついたものがあった。
「何ですか、これは…?」
「旦那様曰く、アイスクリーマーだそうです」
台所にいた春海さんがそう説明した。海外からの輸入品なのだそう。
「そんな高価なものを…何故」
桶に材料を入れた茶筒を入れ周りに塩と氷の層を作ってくるくると回せばアイスクリームが作れるのだそうだ。
「旦那様がお嬢様の好物はアイスクリームだからと購入なされました」
「ええっ!?」
アイスクリームを初めて食べた時、とても甘く美味しいと口にした。もしかしてそれを覚えていらっしゃったのだろうか。それは嬉しいが、何故アイスクリーマーを買ったのだろう。
「良かったですねお嬢様!これでいつでもアイスクリームが食べられますよ」
もしかして庵司さんは私を喜ばせようとしてくださったのではないだろうか。そうだと思うと胸のあたりに何か暖かいものがこみ上げてくるのを感じた。
これが一応の婚約者を気にかけるだけのことかもしれないけれど、私は一生庵司さんの心遣いを忘れないだろうと思った。
庵司さんが私に死ねと言ったら、喜んで命を差し出すのに。燃え盛る炎の中にでも荒れ狂う冬の海でも…躊躇わずに飛び込むのに。
こんな生きている価値のない私に、優しく手を向けてくださる方。私が庵司さんに相応しければこの想いを明かすのに。そう考えた時、私の身体中の古傷が疼く。こんな汚らわしい身体で何を望んでいるのだと。
「やめてください、やめてください!」
私がいくら頼んでも鞭の雨が止む事はない。姉は優雅にソファに座り私を見下ろしている。ああ、いつもそうだ。姉は自分の手を汚さず使用人にやらせる。
「汚らわしい女狐が何を言っているの?」
くつくつと口の端から笑いを漏らす姉。私はもう感覚も無くなってしまった身体を必死に蹲らせていた。
(せっかく庵司さんが贈ってくださったのに…嫌なことを思い出してしまったわ)
もう、この汚らわしい身体で庵司さんに何の想いを抱いたのか。少しずつだがわかってきた様に思う。そしてこのままではいけないとも。
このまま何ごともなければ私は庵司さんと結婚するだろう。その時になれば嫌でも明かさなければならない。身体中にある傷のことを。特に背中から左の肘にかけて大きな火傷がある。燃える屋敷から逃げ出す際に負ったものだ。
皮膚がえぐれた様になっているため、傷の中でも一番醜い。幸いだったのは着物で隠せた事。しかし結婚したら隠し通せる訳もない。
(そうなったら…離婚なのかしら)
いくら庵司さんが優しくても、傷だらけの女とこの先一生を添い遂げるのはかなり厳しいだろう。
(私が…姉みたいに綺麗だったら)
艶のある黒髪、陶器のように滑らかな肌、目尻と唇にほんの少し紅をさした姿はパッと花が咲いたように美しさ。それが一番に思い出される姉の姿。綺麗な着物を着て、笑う姉の姿は誰もが美しいと思うだろう。
誰からも愛される、それが姉。だから姉の気に入らない存在である私に誰もが牙を向いた。
(それに…私は本当は…本当は庵司さんの婚約者じゃない)
初めて会った日、婚約の理由を聞いた時から思っていた。婚約者は私ではないと。祖父は私が生まれて直ぐに亡くなった。祖父が私の存在を知っていたか怪しいくらいに。
つまり祖父にとって当てはまった孫というのは姉のことなのだ。
私は小鳥遊家の婚約者に相応しくもなければ、そもそも約束の孫ですらないのだ。




