八話
庵司さんが訪れたのは帝都の中でも賑わっている商店街だった。和風の建物も洋風の建物も立ち並び人々が行き交う。
「旦那様、あのこちらには何か御用があって…?」
「貴女と…一緒に来たいと思っていた」
「えっ」
なんでそんな事をさらっと何でもないことのように言えるのか。私一人だけが勘違いをして顔に熱を集めている。
「私がいないと困る場所に今から行かれるのでしょうか…」
「いないと困る」
もうこれ以上、庵司さんの顔を見ていられなくて私は顔を逸らした。ぎゅっと日傘を握る。
「好きなものを言え。それを買おう」
「すっ…好きなもの!?私なんかのためにそんな…」
「あの時は貴女の好みを聞かず、勝手に用意してしまった。だから貴女好みのものを買おう」
しばらく理解が追いつかなかったがあの時とは着物などを大量に贈ってくれた時のことだろう。
「私の好みなど…必要ないです。旦那様が必要だと思ったものにしてください。私はそれに従います」
私の意思など必要ない。私のような存在に意思などあっては不幸になるだけ。ずっと逆らわず大人しくしていれば全ては過ぎていく。
「しかし…」
「どうかそうしてください。私には好みというものはありませんから」
そう言って私は下を向く。履いたパンプスの先がチラチラと見えるのを見ていた。
「欲しいものがあったらすぐ言ってくれ」
「はい。かしこまりました」
欲しいものをねだる資格なんて私にはない。私が何かを欲しいと願うことはおこがましい。ましてや自分のお金ではなく人のお金である。私は働いていた際、生活費を切り詰めて後は全部借金の返済に当てていたので私のお金は僅かしかない。
その時、いきなり庵司さんが私の手を掴んだ。
「だっ…旦那様?」
驚いて私は逸らしていた顔を庵司さんの方に向ける。
「人が多い。はぐれないように」
「あっ…あぁ。そうですか」
心臓の音がバクバクとうるさい。触れられた部分からにも熱が集まる。大きくて不器用な手はとても頼もしかった。ふと庵司さんは一つの店へ私の手を掴んだまま入った。
「ここは…呉服屋?」
波打つような煌びやかな反物が所狭しと並べられている。
「いらっしゃいませ、小鳥遊様。今日はどうされました?」
綺麗な女性が奥から出てくる。
「私の婚約者の着物を仕立てたい。似合うものを見繕ってくれ」
「旦那様!?」
私は目を見開いた。今この人は何と言った?と。
「着物はすでに十分いただいています」
「必要だと思うものを買った。それだけだ」
確かに言ったがそうじゃない。私なんかのためにお金を使うなど勿体ないからやめてくださいという意味で言ったのだ。
まじまじと女性店員が私を見る。じっと見られ私はビクッと肩を跳ねさせ、庵司さんの手を握りしめた。
じっと見られると恐怖する。その瞳に侮蔑が含まれていないかと。私を蔑む瞳が、私を汚らわしいと罵る唇が。今目の前の女性にない事を願う。
傷だらけでもこれ以上傷つきたくないと願うようになってしまった。何より庵司さんの前では綺麗でいたいと…そんな浅ましく愚かな願いも…密かに願うようになってしまった。
「婚約者様には淡い色合いがお似合いですね。今着ていらっしゃるものも凄くお似合いです」
「なら淡い色合いで何点か」
私は思わず握りしめてしまっていた庵司さんの手を離す。
「あの…私なんかのためにお金を…。多分後悔いたします」
「後悔はしない」
そうは言っても私のためにお金を使わせてしまった事を申し訳なく思った。私達はまだ結婚していない。正式に小鳥遊家に入っていない私は妻の役目を果たしていない。
中途半端な居候の状態で金食い虫になるわけにはいかないのだ。
「では出来上がりましたらご連絡いたします」
店員がそう言うと私達は人が行き交う外へと出た。また庵司さんに手を差し出される。手を繋げという意味なのだろう。せっかく下がった熱がまた上がってくるような感覚にクラクラしながら私はその手をもう一度取った。
「疲れたのか?」
少し歩いた時、庵司さんは立ち止まって私の方を見た。
「いえ、私の事など気にしないでください」
まだ疲れるほど歩いてはいないが、手を握っていたせいで通常では使わない労力がかかったのは事実だ。恥ずかしくて疲れましたなんて…口が裂けても言えない。
「喫茶店に入ろう」
庵司さんはそう言って近くにあった私が働いていたような高級な店へと入った。綺麗で洒落た洋風な内装。働くなら素敵な職場だが客として入るには緊張する場所だ。
なんと陰気な女がきたのだろうと思われただろう。私は席に着くまで下を向いていた。
「好きなものを頼め」
庵司さんは私にメニュー表を差し出したが、ふと手を止めた。
「そういえば、好みがないんだったな」
「旦那様が何か選べと仰るなら…選びます」
これを食べろ、あれをしろ。命令ならばできる。何か選べと言われれば好みなどなくとも選ぼう。メニュー表をめくり適当に探す。
「あっ…あの、では…アイスクリームを…。いえ、私なんかには勿体ないですね。もっと別の…安いものを」
「アイスクリームだな。わかった」
テーブルに一つずつあるベルを鳴らし庵司さんはアイスクリームと自分用に珈琲を頼んだ。しばらくして玻璃の器に盛られウエハースを添えられたアイスクリームが持ってこられた。
私もアイスクリームを客に運んだことはあったが食べたことはなかった。それどころか甘いものというものをほとんど口にしてこなかった。
「いただきます」
添えられていたスプーンで白いバニラのアイスクリームを一口掬う。口に含めばひんやりとした冷たさの後に甘さが広がる。初めて食べた甘味は何処か優しい味がした。
「美味いか」
「はい、とても美味しいです。とても甘くて…とても…」
感動…しているのだろう。汚らわしい私がこんな綺麗な感情を抱けるなんて。この先どんなに辛いことがあろうとも、今日この日庵司さんと一緒に出かけ始めて口にしたアイスクリームの甘い味をずっと覚えていたいと思った。
******
喫茶店を出て、どこに行くのかと思えば大きな公園に入った。大きな池がある公園だ。私の女学校の近くでもある。
「舟に乗るか」
「はっ…はい。旦那様」
じっと池を眺めていた庵司さんがポツリと呟いた。船着場に行き、船を借りた。
「あの、私舟に乗るのは初めてで…」
「怖いのか」
「はい…少し」
船がひっくり返って池に落ちたらどうしようと思う。私は泳げないので恐怖だ。
「心配するな。落ちても助けてやる。ゆっくり乗れ」
それで不安が全てなくなったとはいえなかったが軍人の庵司さんの運動神経はさぞいいのだろうと思えば少し気持ちが楽になった。乗り込むと船は左右に揺れた。
しかしひっくり返るほどではなく、大丈夫だ、という庵司さんの声を聞いて少し落ち着いた。
「あの、旦那様ばかりに舟を漕がせるのは申し訳ありません」
替わろうと手を差し出す。
「いや、いい。コツがいるから無理だろう」
「そう…ですか」
そうしてしばらく無言が続く。変な緊張感はないが、和やかでもなかった。私は静かな水面を眺めながら気付く。これはデートというものではないのだろうかと。そして自分の考えに赤面する。
「貴女は、どうして他の女中達と同様に旦那様と呼ぶんだ?」
「えっ?」
驚いてしまい船が揺れる。揺れが収まると庵司さんはもう一度聞いた。
「何故、使用人のようにするんだ?私達は婚約者という間柄だろう」
「えっと…私は…その…」
その方が慣れているからです、私の事は使用人のように扱ってください…なんて庵司さんの顔を見て言えるわけがなかった。
「無理に言わなくていい…。が、私は貴女に旦那様と呼ばれると…少し、悲しいというか…寂しいというか」
悲しい?寂しい?……庵司さんが?私に旦那様と言われるだけで。
「あ…庵司…さん」
口に出してみれば顔に熱が集まる。思わず目を合わせることが恥ずかしくて出来なかった。
「っ…!そうか…ありがとう」
その声色は何処か嬉しそうに聞こえた。今日の庵司さんはよく喋った。




