七話
帝国陸軍本部の建物の一室、小鳥遊庵司少佐の仕事場には山積みの書類と黙々と格闘する庵司と一人優雅にソファに座り紅茶を嗜む小鳥遊翔吾中佐の姿があった。
「実は俺午後から休みなんだ」
「そうですか。兄上は休みですが私は仕事です」
書類から顔を上げずに庵司は淡々と告げる。
「お前も休みを取れ。部下に無理やり休まされる日以外全部出勤してるだろ」
「それなりに責任がある立場ですから」
二人とも若くして佐官という立場になり、小鳥遊家というだけで期待も嫉妬も憎悪すら向けられる。下手に休みを取ればよく思わない連中から怠けているだの言われるのは簡単に予想がついた。それが庵司は煩わしいだけ。
「午後から妻とデートするんだ。今話題の映画を見にいく」
なんだ惚気か…と庵司はため息をついた。
「お前もしたらいいじゃないか婚約者さんと」
******
「明日…ですか?はい、一日家にいる予定です」
夕食の時間、私は庵司さんに明日暇か?と尋ねられた。会話などなく、黙々と食事を取るだけだった空間に会話がなされている。私はひどく緊張していた。
「出かけよう…と思って…だな…」
庵司さんも言葉につまりながらである。何か言いにくいことなのだろうか。
「はい」
「貴女も…一緒に行かないか」
たぶんこれは来いという命令なのだろう。
「分かりました。一緒に行かせていただきます」
庵司さんの言葉には素直に従った方がいいのだろう。しかし何処へ行くのだろうか。行き先が提示されない不安と一緒に出かけようと誘ってくださったという妙な高揚感が入り混じっていた。
(こんな私をわざわざ誘ってくださるなんてお優しい方)
そのひどく冷たく見えた無表情も今は愛らしい。私は明日貰った着物の中で何を着ようかと思案を始めた。春らしく、淡い色合いにしよう。桜色がいいか…空色がいいか。思わず食事をするのを忘れ、ぼぉっとしてしまった。
慌ててきんぴらごぼうを口に入れるが慌てすぎてむせてしまった。
「げほっ…げほっ…」
「大丈夫か!?」
今まで一番、庵司さんの表情が変わった。私を心配しているのが伝わってくる。向かいに座っていたがすぐこちらにきて背中をさすってくれた。まるで仲睦まじい夫婦のよう。
(庵司さん、私なんかを心配してくださって…)
無口だがやっぱり優しい方。
「だ…大丈夫です。お見苦しい姿をお見せしました。申し訳ありません」
「そうか」
一瞬その声色は悲しそうに聞こえたがきっと勘違いだろう。能面のような無表情に戻った庵司さんはふいっと顔を逸らした。
翌日は晴天。気温は暑くないが少し冷たい風が吹くため、淡い桜色の着物にレースのショールを合わせ、貰った日傘を持った。
「お嬢様、すごくお似合いです!」
是非着付けを私に!とおけいさんに言われてしまったので自分で着れるがおけいさんに着付けを任せた。正直、生きた心地がしなかった。誰かに何かをやってもらうということになれていない私はおけいさんの機嫌を損ねないかビクビクしていた。
「私なんかが似合っているのでしょうか。いえ、お褒めいただきありがとうございます」
深々と私は頭を下げる。ここの人達はどうすれば機嫌を損ねるのか分からず回避が難しい。
「お嬢様、まだお化粧が残っていますよ!」
おりんさんがウキウキと化粧箱を持ってくる。
「はっ…はい。この醜い顔をどうかマシにしてください」
「醜くなんてないですよぉ〜」
そう言いながらおりんさんは私に化粧を施す。
「ほら出来ました!お嬢様は控えめなお化粧がすごいお似合いですね」
「あの…顔はマシになったのでしょうか」
庵司さんの顔に泥を塗らない程度には綺麗にしておかなければ。立ち振る舞いなど小鳥遊家の婚約者にふさわしい振る舞いや装いが求められる。
「はい、お綺麗ですよ!」
女中の皆が太鼓判を押してくれたので少し息を吐いた。ちょっとの安堵が押し寄せる。
(安心している場合ではない、庵司さんを待たせているんだった!)
「お待たせいたしました旦那様。申し訳ありません、私のような者が旦那様の貴重なお時間を消費してしまって…」
「いや、気にするな。無駄な時間を過ごしたとは思っていない」
それが本心なのかわからなかったが、怒っている様子はなかった。気に入らないことがあればすぐ婚約を解消して私を追い出すだろうから。
「ありがとうございます」
「何故感謝する?」
車に向かいながら私は庵司さんに礼を述べた。
「私が旦那様の貴重なお時間を消費していないといってくださったからです」
「わざわざそんなことを気にするのか」
それ以上会話は続かなかったが不思議と緊張などはせず和やかだと感じている自分がいた。
(昨日から庵司さんはよく喋るわ)
何か心境の変化でもあったのか。それを私が知りたいだなんておこがましいけれど。少し、庵司さんを知りたいと思ってしまった。
******
「いってらっしゃいませ」
庵司と薫子を見送った女中たは台所へと戻っていた。ここが駄弁り場だともう染み込んでしまっている。
「ねぇ、こんなこと言うのはあれだけど…お嬢様って変わってるね」
おりんが最初に口を開いた。
「わかるわかる。なんていうか…元お嬢様って感じがしないんだよね」
おけいもうんうんと頷く。
「庶民暮らしに慣れてしまわれたのではないかしら?」
陽子は料理を作る薫子や洗濯物や掃除を進んでやろうとする薫子を思い浮かべた。いつも低姿勢、使用人である陽子達にも敬語を使い、その謙虚さは卑屈といっていいほど。
いくら家が没落して大変だったとはいえ痩せすぎの身体、不安に怯える瞳、艶のない髪。いつもオドオドとこちらの顔色を伺っている。まるで怖がられ怯えられているかのような態度に陽子達はかなり傷ついている。
「でも使用人の苦労を知っててくれる奥様っていいと思うんだよね。私はこのままお嬢様が奥様になってくれればいいなって思う」
おりんがそう言ったとき、台所の扉がピシャリと開いた。
「何、駄弁っているの。仕事なさい!」
女中頭の春海がそこにはいた。
「春海さん、私達お嬢様のことについて話していたんです」
「お嬢様について?」
春海も薫子のことは心配している。だから薫子のこととなれば許されるのだ。
「お嬢様、絶対おかしいですよね!」
「お嬢様のことを悪く言うのではありません」
ピシャリとおりんの言葉は春海に跳ね返される。
「春海さん!おかしいですよ。痩せすぎな身体、自ら女中の仕事をなさるし、いつも怯えているようで…」
「確かに、私もそれは不思議に思っていました」
「でしょう!」
えっへんっ!とおりんは得意顔になる。
「しかしそれを無理矢理暴こうとしてはなりません。人には隠しておきたいものもあるのです」
「ですが春海さん…私見てしまったんです」
深刻そうな顔でおけいは告げた。
「今日、着付けをした際お嬢様の肌襦袢の中がチラリと見えたのですが…」
そこで一旦おけいは口を噤んだが、意を決したようにまた口を開いた。
「肌に無数の痣や切り傷の痕、火傷の痕なんかがありました。最近できたものでは無さそうです」
ぶるっとおけいは肩を震わす。台所はシンッと静まり返った。
「どう見ても…自然にできる怪我ではありませんでした…」
ポツリとおけいが呟く。怯えた態度、身体中の怪我。点と点が結ばれて一つの仮説に導かれる。
「お嬢様…誰かに酷い目に遭わされて…」
「だから私達にも怯えて…」
「卑屈になったんだ」