五話
いつもの癖で随分早くに起きてしまった。
(まだ…誰も起きてないわよね?)
水を飲もうと台所に向かうと暗い廊下に灯りが漏れていた。
「あっ、お嬢様おはようございます」
台所では女中の皆さんが朝食の支度をしていた。
「おはようございます」
まさか人が起きているとは思わず、少しびっくりしてしまった。
「何かの御用ですか?」
陽子さんがそう尋ねる。
「お水を…貰おうかと…」
忙しそうにしているのに頼み事をするのが申し訳なく思ってしまう。
「はいっ!私が!私がお嬢様に水を入れて差し上げます」
おりんさんがビシッと手をあげる。
「いや、私がやるからあんたはいいのよ」
おけいさんがそう言っていち早く水を硝子のコップに入れようとする。
「あっ、ずるい!私が最初に言ったよ?」
「こういうのは早い者勝ちよ」
「二人とも、争わない!」
女中頭の春海さんの厳しい一声でビクッと二人は同時に肩を震わせる。結局お水は陽子さんが入れて渡してくれた。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
忙しそうに働く女中達を見ながら、私は水を喉に流し込んだ。
「あの…何かお手伝いできる事はありませんか」
「お嬢様に手伝わせることなんて…!」
しかし落ち着かない。狐塚家では使用人から押し付けられた雑用をこなしていたし、一人暮らしでは全部自分でやっていた。女学校でも一通り習ったので足手纏いにはならないはずだ。
その実、誰かにやってもらうという事に慣れておらず、狐塚家の使用人達を連想してしまう為何かやって貰うなんて恐ろしくて出来ないのだ。
「私が手伝いたいんです。女学校で一通り習いましたし、喫茶店で働いていたので料理も作れます。女給でしたが…」
実際に喫茶店の料理を作った事はないが作るところを見て手順は覚えているし、優しい厨房担当の方が教えてくれた事もあった。
「喫茶店!」
おりんさんが目を輝かせた。
「もしかして…もしかして…洋食を作れたりするのですか!?」
「まぁ…一応?」
パァーとおりんさんの顔が明るくなる。
「凄い!凄い!ここには和食しか作れる人がいなかったから日々の食事は和食だったんですよ〜」
ぴょんぴょんとおりんさんは飛び跳ねる。みっともないですよ、飛び跳ねない!と春海さんが怒る。
「毒味、毒味はぜひ私が!」
おけいさんも目を輝かせる。皆、洋食を食べたいようだった。なんだか存在を許してもらえたかのようなそんな気持ちになった。
「でも朝食の準備はし始めてますし、朝から洋食は…」
困ったように陽子さんは呟いた。
「なら、今晩の夕食にしましょう。いえ、出過ぎた真似をしてしまいました。きっと晩まで献立は考えてあるのでしょう、申し訳ありません」
名案かと思ったが慌てて否定する。きっと一週間くらいの献立は決まっているのだろう。狐塚家では決まっていた。一週間分の父と姉が飽きないように工夫が凝らされた豪華な食事が。
食材の切り方一つ一つにこだわり、皿の色や盛り付けの少しのズレも許されない。季節の旬の食材は常に献立に盛り込まれ、好評だったものは偶にまた出され不評だったものは献立から一切姿を消す。
限られた父と姉が好きな食材で栄養が偏らないように献立を考えていた料理人はすごいと思う。狐塚家は私が生まれた頃から経済的に傾き始めていたので使用人の数は少なかった。だから食事の配膳は私の仕事だった。女中達は父と姉を恐れて押し付けるのだ。
料理人がこだわった盛り付けを崩さないように気をつけて配膳する。姉はなにかと文句を言って私を叩いていた。
「出過ぎた真似なんてとんでもない。もしお嬢様がよろしければ今晩の夕食はお嬢様の洋食にいたしましょう」
春海さんが微笑んでそう言ってくれた。良かった…と心の中で安堵する。
「では、何かお手伝いします」
そして私は釜でご飯を炊き始め、味噌汁の具は何があるのかと氷箱を開けた。
一粒一粒米が綺麗に立った艶のある白米と優しい香りが立ち昇るカツオと昆布から出汁をとった豆腐とわかめの味噌汁。こんがりと焼かれたアジの干物に丁度いい塩梅で使った胡瓜の漬物が膳に並べられた。
配膳を済ませると女中達は自分達の朝食を食べる為台所に戻り、私は居間で庵司さんが起きてくるのを待った。まだ薄暗かった外は今は清々しい朝になって少し開けられた障子から覗く中庭から少しひんやりとする朝の香りが入って来ていた。
「おはよう」
「おはようございます、旦那様」
紺色の着流し姿の庵司さんが居間へと入ってきた。私は畳に膝をつけ頭を下げる。爽やかな藺草の香りが鼻をついた。
「いただきます」
庵司さんが食事に箸をつけたのを確認すると私も小さくいただきますと手を合わせ食事を始めた。食器に箸が当たる音、味噌汁を啜る音、咀嚼音。言葉が交わされない食卓には緊張だけが走り、朝の清々しい空気などもう何処かへ行ってしまった。
食事を終えると庵司さんは自室に戻り、軍服に着替えた。これから出勤なさるのだ。階級は少佐、若くして大勢の部下を抱え仕事をこなす立派な方だ。
(そんな方なら引く手数多でしたでしょうに)
何故小鳥遊家は約束したとはいえ没落華族の女狐などと。小鳥遊家風に言えばあまりにも誠実過ぎるのではないか。紫黒の軍服に身を包んだ庵司さんを玄関で見送る。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
軍靴の音が車に乗って聞こえなくなるまで私は頭を下げたままだった。
ふぅ…と溜めていた息を吐く。張り詰めていた空気が緩んだような気持ちになる。
(やはり、庵司さんの前だと緊張してしまうわね)
歓迎されていない分、余計に。化けの皮を剥がすといい、昨日の庵司の言葉が思い出される。
(化けの皮…。)
今私が身につけている着物は昨日貰ったものの中の一つだ。普段着用なのだろうが、とても高価なものだった。流石にみすぼらしくいられると迷惑だという理由で貰ったのに着なければいけないだろうと思ったからだ。
(居候の身で何もしないわけにはいかないわ。何かしなければ)
視界に映ったのは少し萎れている牡丹の花が映った。
「あの、春海さん。玄関のお花が少し萎れていますので新しいのに変えたいのですが」
「分かりました、すぐに新しい花と花瓶を準備いたします」
新しい花は風信子だった。甘い香りが立ち込める。
「綺麗」
狐塚家にいた頃は花など触れさせてもらえなかった。姉が気にいる花しか花瓶にはいけられず、気に入らない花とその花を飾った使用人は捨てられた。臭いがきつい、色が気に入らない、何となく不快…など。姉の気分によってそれは左右された。
あの家は父と姉を中心に周り、彼らの機嫌を損わせない事を第一とする。私にとっては家でも針の筵だった。
(そう…花といえば)
その日、私の教科書が無くなっていた。それは学校の池の中から見つかったのだが私が池に入って教科書を回収している間に起こった事だった。
ずぶ濡れになって教室に戻ってくると私の席には白い花と花瓶が置かれていた。死人に対する白い花が。
「なっ」
私は目を見開いた。くすくすくす、笑い声が聞こえる。
「だって女狐は死んだほうがいい存在ですもの」
「いつまで生きていらっしゃるの?」
バシャっと私に頭から水がかかる。
「中途半端に濡れておられましたから、全身濡れさせて差し上げました」
甲高い嘲笑に教室は包まれる。水をかけられたからか全身に突き刺さる視線は氷のように冷たく感じられた。
「姉の桜子さんを虐めるような女狐にはお似合いの結末ね」
「桜子さんもあんなのが妹でお可愛そう」
女学校では気の許せる友達ができるかもと期待していたが、それは姉のせいで不可能になった。私は姉を虐める後妻の卑しい娘なのだ。
「申し訳ありません」
私は早くこれが終わるように謝るしかなかった。




