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椿と撫子

これからは自由恋愛の時代だと誰かが言った。でも私にとっては自由恋愛とは小説の中でしかあり得なくて。私達はいつまでも雁字搦めだった。



******



人形のように白い肌、濡れ羽根のように艶やかな黒い髪、撫子の花より柔らかく繊細な唇、水晶よりも透き通り光を力強く宿す瞳。そう表現するのが相応しい美貌を持つ少女。


それが小鳥遊(たかなし)撫子(なでしこ)。父は帝国軍人小鳥遊庵司(あんじ)、母は小鳥遊薫子(かおるこ)。英雄的扱いを受ける社交界一有名な一族の娘であり、類稀なる美貌から帝国の花と称される。


そんな私は今年からステラ女学校に入学する。上質な毛織物の制服を身にまとい、その女学校の敷地内に足を踏み入れた。ステンドグラスからの光、様々な楽器の音。まるで異国に来てしまったかの様だった。


「新入生の皆さん、今から学校内を案内します」


黒いワンピースを纏った教師が新入生の群れにそう投げかけた。繊細で耽美で何処か退廃的な花園。それがこの学校だった。


(息が詰まりそう…。と言うか詰まってるわ。制服が苦しいんですもの)


首元までしっかりと覆われた貞淑なデザインの制服は今まで着ていた父の買ってきていた服と比べるととても息苦しかった。


「こちらがステージになります。今演劇部の先輩方が練習していますね」


周りの新入生達からわぁ…と声が漏れる。ステージには巨大なシャンデリアがあり、照らされたステージ上にいるのは先程説明された演劇部の先輩なのだろう。


「私は濁りなき愛に堕ちて行く。かくして、私は永遠なる愛の化身に成り果てるのだ!」


美しい声がホール全体に響き渡る。確かいたはずなのだ。帝国歌劇団のトップスターの女優がこのステラ女学校に。その人だろう。その人にしか目がいかない。


「愛しているよ、共に地獄へ堕ちよう」


舞台上で美しい女性は演劇部の女子生徒の頰に手を添えるとゆっくり顔を近づけ唇に触れそうになっていた。


(えっ…嘘。キスしてしまうの?)


自分のことでは無いのに心臓が跳ねた。顔も赤くなってしまう。私は驚いて目を見開いていると舞台上だけが照らされていたはずが客席の方まで一斉に明るくなった。


「違う、違う!表情が固いわ!」


舞台袖から演劇部の部員と思われる女子生徒が出てきた。これは練習だと言うことを忘れて見入っていたので一気に現実に引き戻される。指導を受けているのはキスされそうになった女子生徒だった。


「椿様が相手だからって緊張しすぎですよ。相手役を相応しく務められないなら、降りていただくしか無いわ」


ステラ女学校の演劇部は厳しいと聞いていたが今それを目の当たりにしていた。現役女優が所属しているため相当厳しいのだろうと思っていたが想像以上だった。 


(大変そうね〜)


その時、椿と呼ばれた女子生徒がこちらを見た。


(今、目があった?)


美しく透き通る様な眼で射抜かれてまた心臓が跳ねた。だが気のせいだろう。此方なんて見ている訳がないのだから。しかし椿と呼ばれた女子生徒は舞台を降り新入生の方へと近づいてくる。きゃーと歓声が上がった。

 

確かその人は、西園寺(さいおんじ)椿(つばき)といったいった。帝国歌劇団のトップスターで実家は金融業から名を興し今や多角経営で国内屈指の規模を誇る財閥華族、西園寺家。社交界の宝石と謳われる美貌の持ち主だと聞いたことがあった。


コツコツと靴を鳴らしながら此方に向かってくる西園寺椿は微笑みながら私の目の前で立ち止まった。


「そうね、貴女なんかいいんじゃ無いかしら」


色素の薄い髪に碧色の瞳に見つめられ私は固まった。あまりの美しさに呼吸をする事さえ忘れてしまった。


「へぁ?」


私が間抜けな声を出したと同時に西園寺椿は私の腕を掴んだ。


「ちょっと付き合ってもらうわね、可愛らしい新入生さん」


耳元でそう囁かれ、耳が赤くなるのがわかった。きゃー!と言う周りの歓声も遠のくほどに私の視界には西園寺椿しか映っていなかった。見惚れたまま腕を引っ張られながら私は舞台へと上がる。何故、自分が舞台にいるのかよくわからなかった。


「愛しているよ、共に地獄へ堕ちよう」


西園寺椿の口からその言葉が歌の様に紡がれた。全身がゾワリと震えるのがわかった。手が頰に添えられて唇が触れそうになる。顔は赤くなってぎゅっと私は目を瞑った。


(ちょっと…待って…!)


「見たかしら?今みたいに初心な反応が欲しいのよ」


唇が触れそうになる寸前で顔は止まっていた。スッと西園寺椿の顔は離れる。


「なるほど、椿様!勉強になりました」


演劇部の先輩は喜んでいる。私は顔に熱が集まりすぎて冷えた指先で頬を包んだ。


「あ…あの…今のは」


「ごめんなさいね、付き合ってもらっちゃって。可愛らしかったわよ。よかったら演劇部においでなさいな、歓迎するわ」


私はフラフラとおぼつかない足取りで舞台から降りた。歓声に包まれながら、私は残りの学校見学の内容が頭に入ってこなかった。気を抜けば触れそうになった唇とか頰に当たった吐息とか、長い睫毛を思い出してしまう。


(私、どうしちゃったのかしら)


頭の中が西園寺椿で満たされている。この学校で生活していれば西園寺椿という有名人と嫌でも関わることになるだろう。自分の立場が無駄に高いのも原因になりそうだ。


西園寺椿のことを考えては顔が赤くなるので気が重くなった。


「小鳥遊さん、こちらが寮のお部屋ですよ。優しい先輩も相部屋なのできっと仲良くなれます」


「はい」


西園寺椿のことを考えていたら、寮に案内されていたことをすっかり忘れてしまっていた。相手の先輩と仲良くなれなければ辛い学校生活になることは目に見えていた。寮母さんがドアをノックする。


「西園寺さん、入りますよ」


西園寺という名字に心臓が跳ねた。


(お…落ち着いて私。西園寺なんて一人や二人いるわよ)


しかし西園寺と言って思い出せるのはやはり西園寺椿だけだった。


「あら?あの時の新入生ちゃんじゃない。部屋が同じなんて偶然ね」


……居た。よりにもよって西園寺椿が居た。仲良くするんですよ〜と部屋の説明は西園寺椿に任せて寮母さんは行ってしまった。


「少し適当なところがあるけど、悪い人じゃないのよ」


困ったように笑った西園寺椿は去っていった寮母さんの後ろ姿を眺めながらそう呟いた。


「そう…ですか。私、小鳥遊撫子と申します。同室になりますのでこれからよろしくお願いします」


「私は西園寺椿よ、よろしく」


優雅に微笑む椿さんを見て私は顔が赤らむのを感じ、自然に視線を逸らした。しかし椿さんには見抜かれてしまった。


「どうして視線を逸らすの?もしかして練習に無理矢理巻き込んでしまったこと…怒っているのかしら?」


「怒っては居ません。ただ…」


「ただ?」


綺麗な瞳が私を覗く。隠してもこの人には通用しないだろうなと直感的に感じ、正直に話してしまうことにした。


「あまりにも綺麗なので…照れてしまうのです」


「ふふっ。何だぁ、そんなこと」


珠が転がるかのように鈴が鳴るかのように…玲瓏な声で椿さんは笑った。少し頬を赤らめて笑う様は艶やかで色香を漂わせていた。


「貴女も可愛いけれど?」


椿さんの顔が近づく。咄嗟に視線を逸らそうとしたが頬を両手で包み込まれてその美しい碧眼から逃れられないようになる。


「だーめ、目を逸らしちゃ。じっと見つめれば慣れるわ」


中性的な声で囁かれ、一気に顔に熱が集中する。頰に触れた掌越しに椿さんにも熱は伝わっているだろう。西園寺椿は学校の王子様だった。舞台の上では男装の麗人としても活躍している。


「これから私が卒業するまでずっと一緒なのよ?慣れてもらわなければ困るわ」


「は…はひぃ…」


はい、という返事になり損ねたなんとも言えない情けない声が部屋に響いた。


「とりあえず、部屋の説明からね。右の寝台(ベッド)は私が使っているから撫子は左の寝台(ベッド)ね」


部屋には左右に寝台(ベッド)と机が並び真ん中は窓掛(カーテン)で仕切れるようになっていた。もし椿さんの美貌に照れ続けるようなら最悪、窓掛(カーテン)を閉め続けて生活すれば何とかなるかもしれない。


椿さん側の寝台(ベッド)の脇にある机には香水やら化粧品が並んでいて、生活感があった。部屋全体も仄かに甘い香りがする。


「荷解きを手伝うわ。ほら、鞄を貸して」


服などは事前に洋服箪笥に運び込まれている。鞄に入っているのは教科書などだ。


「それくらい、自分で出来ますよ」


私は鞄を寝台(ベッド)の上におろした。


「改めてこれから宜しくね、撫子」


差し出された手を握り、私と椿さんは握手を交わした。



******



バルーンシェードの窓掛(カーテン)から差し込む朝日に目を細める。不鮮明な視界の中、ぼんやりとその人の輪郭が描かれる。爽やかだけどほんのり甘い香水の匂いが鼻を掠め、色素の薄い髪が私の視界にだんだんはっきりと映ってくる。私はこの光景を微睡みの中で幻視することがある。


「おはよう、撫子。私と一緒に食堂で朝食を食べに行かない?」


私の朝は毎回椿さんの朝食の誘いから始まる。


「いいですよ。それにしても起こしてくれたらよかったのに。まさかずっと私の寝顔を見ていたのですか?」


「可愛かったから…つい」


彼女はピシッと制服を着こなしている。寝癖がついている私とは大違いだ。


「髪を解いてあげるから、此方に座って」


鏡台(ドレッサー)の前の椅子を椿さんはぽんぽんと叩く。寝間着(ネグリジェ)姿の私はおぼつかない足取りで着席した。


「撫子の髪は絹のように艶やかで美しいわね」


「椿さんに言われると嫌味に聞こえます」


椿さんは手を止めた。怒らせてしまったか?と顔を見たが怒ってはなさそうだった。ただ少し顔が不満げである。


「違うわ、お姉様でしょう?」


不満げだったのは呼び方についてだったらしい。


「ああ、わかりました。お姉様」


私と椿さんはエスになった。エスとは女学生の少女同士が姉妹のような強い絆で結ばれてお互いを助け合う関係のことを言う。同じ部屋で暮らし、毎食のように食事を共に取る。もう姉妹のようだと、椿さんから私にエスの誓いを申し込んだ。


普通なら手紙のやり取りをしてエスの誓いをするのだが、椿さんは変わっていた。まるで結婚の申し込みかのように指輪を用意していたのだ。


「エスになった記念にね」


それは子供が用意できる精一杯。玩具の指輪だったが私は嬉しかった。


「私達は強い絆で結ばれたのよ。指輪はその象徴。好きよ、撫子」


「私も好きです、椿さん…いえ椿お姉様」


そっと私達はお互いの指輪に口付ける。シーツを被って花嫁衣裳を倣うように。私達はただのエスの生徒よりも強い絆で結ばれている自信がある。椿お姉様とエスになった私は周りから羨ましがられる事もしょっちゅうだったが少し優越感に浸って居た。


あの西園寺椿の特別な妹になったのだ。私だけが椿お姉様の出演する舞台に招待されたり、一緒に買い物に行ったり、一緒にパンケーキを食べたり、夜こっそり寮を抜け出して池で舟に乗って遊んだり。私だけが椿お姉様を独占できている。


「好きよ、撫子。大好き」


「私も大好き」


私だけに愛の言葉を囁いてくれる。私の髪に口付けを落とす椿お姉様も私だけが知っている。私だけが…私だけが。


これは友情だったのか恋情だったのか、今となってはわからないが限りなく恋に近かったのだと思う。幸福は長くは続かなかった。


「椿お姉様、校門のところでお会いになっている方どなたなのですか?」


マントに学帽姿の男性が椿お姉様と逢瀬をしているところを私は目撃してしまった。黒い何かが私の中で膨張していくのを感じて居た。


「家が勝手に決めた婚約者よ。私はただの胎に成り下がるの。女優も辞めさせられると思うわ」


寝台(ベッド)に腰掛け、そう呟いた椿お姉様は何処か悲しそうに影を落として居た。


「私、撫子のことが好きよ。世界中の誰よりも。勿論、さっきの人よりもよ」


そう言って椿お姉様は指輪を撫でた。私は何を言ったらいいのか分からなかった。


「ほら、私達二人とも大層な家名の元に生まれたじゃない。私、貴女に親近感を感じて居たの。仲良くしたいなって」


窓から入ってきた風に長い髪が揺れた。


「私このままじゃ結婚のために退学させられるわ。撫子貴女のことが大好きよ、だから…」


その言葉の続きはなかった。何を言いたかったのか…もうわからない。


「私もよ、私も大好き」


ただ一緒に逃げようなんて言えなかった。私達はどう頑張っても世間知らずの子供で、弱かった。そのあと、西園寺椿は芸能界から姿を消した。


私は椿お姉様の結婚式に出席して椿お姉様も私の結婚式に出席してくれた。私達は仲のいい姉妹としてあの時の誓いを守る様に生涯仲良くあり続けた。


私達はいつまでも雁字搦めだった。私は時々、玩具の指輪を眺めている。

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