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三話

「狐塚様、お預かりしました荷物は既に車に乗せてありますので」


客間を出ると、先程荷物を預かってくれた使用人の男性が話しかけてくれた。私は今から庵司さんが住んでいる別邸という所でお世話になる事になり、今から向かう事になったのだ。


私の前をつかつかと歩く庵司さんの体は大きい。熊のような大男ではないが、がっしりした肩幅にやはり男性なのだなと思う。

長い廊下を歩き、また綺麗なステンドグラスがある玄関ホールに戻ってきた。使用人が玄関の扉を開ける。


「庵司様、たまには本邸にお越し下さい。使用人一同いつでもお待ちしております」


「わかった、たまには…な」


車の運転手が車の扉を開け、乗るのを待っている。


「乗れ」


庵司さんがぶっきら棒にそう告げる。私は一瞬先に乗ってしまっていいものかと迷ったが命令を無視したり逆らったりするわけにはいかない。


「畏まりました」


しずしずと私は前にいた庵司さんを通り過ぎて車に乗り込む。後から庵司さんも乗り込み、私の隣に座った。こんなに異性の方が近くにいることがなく免疫がなかった私は顔に熱が集まるのを感じた。きっと姉なら満更でもないのだろう。


車窓の外の風景は段々と日が沈み黄昏の時間になる頃に別邸に着いた。本邸が洋風の豪邸だったのに対し、別邸は純和風の屋敷で本邸に比べればこぢんまりとしているものの、それでも大きい事に変わりはなかった。


「狐塚様、足元にお気をつけくださいね」


運転手に注意され、暗い足元に注意しながらゆっくり車を降りる。しかし


「きゃっ」


足元にあった小石に気づかず足を捻るように躓いてしまった。膝が地面につき、着物が汚れるそんな時に両腕を支えられ転ばずに済んだ。助けてくれたのは運転手かと思ったが違った。


先に車から降りていた小鳥遊庵司その人が自ら私を支えていた。慌てて私は体勢を立て直した。


「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」


深々と頭を下げる。もしこの場にいたのが父なら私が転けようと無視し、姉ならノロマで鈍臭いと嘲笑い転んだ際に踏まれていた事だろう。二人と同乗した経験がないから真実はわからないが。


「足を捻ったんじゃないのか。歩けるか」


無愛想ながらも一応心配してくれているようである。助けてくれたあたり、助ける価値もないほどは嫌われていないようだった。


(私なんかに手を差し伸べてくださる…。悪い方ではないのかしら)


「大丈夫です。歩けます」


右足が熱を帯びてジンジンと痛むがこれ以上迷惑をかけまいと、重心を左足に移してなんとか歩き出す。数寄屋門を潜り抜け別邸の敷地内に入る。庭師が丁寧に手入れをしているのであろう植木達と鯉の泳ぐ池が幻想的な風景を作り出していた。

玉砂利を踏んで、飛び石に添って歩く。松の木と、庭の池。はらりと落ちた桜の花弁が池の水面で微かな漣を起こして、淡い色彩で水を彩っていた。微かな鳥の声が聞こえ、街から少し離れ、ほんの僅かに山奥に奥まったこの屋敷には人々の喧騒は届かない。


黒く濡れたような木で作られている玄関の引き戸が開かれ、中の温かみのある灯りが外に漏れ出す。


「お帰りなさいませ、旦那様」


女性達の声が聞こえた。思わず玄関先で固まってしまう。別人だということはわかっているがどうしても女性の集団を見ると女学校の同級生達を連想してしまう。


(大丈夫、別人よ。それに、私は蔑まれるだけのことをした存在なのだから)


私の罪は生まれてきたことか。


「どうした、入らないのか」


庵司さんが後ろを振り返り尋ねる。よく見れば少し不機嫌そうだ。私が家に早く入らないのが気に食わないのだろう。


「入ります。直ぐに」


痛む右足を庇いながら左足に重心を傾けて玄関に入る。


「ようこそいらっしゃいました、奥様!」


女中であろう女性が四人。玄関で待っていた。白髪の老女が一人、痩せて背の高い女性と背が低く少しふくよかな女性、そして真ん中あたりの身長のそばかすの女性がいた。


「お…奥様?」


私に対して言っているのか一瞬わからなかったが、庵司さんの妻になる私が女中たちにとって奥様なのだと分かった。


「まだ結婚はしていない。義父上の喪が明ける来春祝言をあげる予定だ。だから今は婚約者…だな」


庵司さんが女中達にそう説明する。婚約者という甘美な響きに私はまた顔に熱が集まるのを感じた。


「狐塚薫子と申します。どうか宜しくお願いします」


私は女中達に頭を下げる。狐塚家では使用人達に頭をさげなければ叩かれたり蹴られたり…どんなことをされるかわかった物ではなかった。


「私は女中頭の阿久津(あくつ)春海(はるみ)と申します」


白髪の女性は名を名乗り頭をさげた。他の女中は背の高い方が陽子(ようこ)さん、ふくよかな方がけいさん、そばかすの方がりんさんといった。


「私達のことはおりん、おけいとお呼びください。お嬢様」


おりんさんがそういって笑う。


「お嬢様…?」


「まだ奥様ではないし、かといって婚約者様って言うのもなんだか余所余所しいといいますか」


ぽりぽりと頬をかきながらおけいさんが言う。それに、お嬢様って呼ばれ慣れているでしょうしね!と陽子さんが付け足す。しかし彼女達の予想は外れている。

狐塚家でお嬢様と言われるのは姉しかいない。私は姉から使用人達からの怒りと蔑みを一身に受ける奴隷だったのだから。


「私は別に何と呼ばれようと構いません」


女狐と呼ばれようとも、害虫と呼ばれようとも。事実なのだから。


「もう日も暮れた。夕食の用意は出来ているか?」


庵司さんが春海さんにそう尋ねた。


「勿論、出来ておりますよ。さぁ、お嬢様もお上がりになってください。」


春海さんはそう私に微笑みかけるが体をビクリッと跳ねさせてしまった。


「緊張なさっているのかしら。でも大丈夫ですよ、直ぐなれますから」


この笑顔の裏に何が隠れているのかわからない。優しいこの人達が姉のように豹変するかもしれない。庵司さんが父のように見て見ぬ振りをし同じように嘲笑うかもしれない。


裏切られるのが怖い。傷つくのが怖い…だなんて笑えてしまう。もう私は傷だらけだということは変わらないのに。また傷つくことを恐れている。なんて滑稽なのだろう。


私は春海さん達に案内されるがまま居間に通された。居間である和室には私と庵司さんの分であろう膳と夕食が用意されていた。


湯気の立った温かい食事。それが自分のものであるとしばらくわからなかった。けれども冷静に考えればそれは私の分で。


「さぁ、召し上がってください」


春海さんが私に座るように促す。信じられなかった。私の分があるだなんて。私の食事は誰も用意することがなかった。残飯を勝手に漁って命を繋ぎ止め、廃棄直前の食材を使って料理を作ってそれを食べた。腹を壊したことは何度もあった。しかし体は一向に強くはならなかった。


「食べても、よろしいのですか?」


「勿論。お嬢様の為にお作りしましたから」


「本当に私などがこんな素晴らしい食事を頂いてもよろしいのですか?」


声は震えていた。手も震えていた。


「勿論でございます。素晴らしいなどと言って頂けて光栄でございます」


春海さんのその笑顔が本物だと信じたい。女中達は嬉しそうに退室する。私は震えながら席についた。向かいには庵司さんも座る。


「食べないのか」


しばらく食事を眺めていたら、庵司さんからそう声をかけられる。顔は不機嫌そうな仏頂面だ。


「食べます」


震える手で箸を掴む。浅葱や赤貝などの胡麻和えに箸をつける。胡麻和え自体は温かくはなかったが口の中に温かみがほのかに広がった。


「美味しい…」


自然と言葉と涙が溢れていた。こんな美味しい料理を食べたのは初めてだった。

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