白銀の夜に
はらりはらりと雪が舞う夜。私、小鳥遊薫子は夫である庵司さんと共に劇場に訪れていた。
帝都中で大人気でチケットが取れないと評判の歌劇だ。この日のために忙しいはずなのに庵司さんは休暇を取ってくれていた。
「寒いですね」
手袋越しに繋がれた掌から庵司さんの温もりを感じる。
「今日は冷えるな。体調が悪くなったらすぐ言ってくれ。すぐに帰ろう」
「いえ、大丈夫です。楽しみにしていたお芝居ですから」
劇場は暗くてよく見えないが外国の城のような外観だとわかる。入り口には続々と人が集まっていた。さくさくと積もった雪を踏み固めていく音が心地よい。
劇場内は巨大なシャンデリアが飾られ目が眩むほどの煌びやかさだった。お芝居もそれは素晴らしいもので、思わず見惚れてしまった。
「面白かったですね」
劇場から出るときも興奮冷めやらぬまま私は庵司さんに話しかけた。
「ああ、そうだな」
一見そっけない返事だが庵司さんもだいぶ楽しんでいたようだ。
(もちろん、お芝居も面白かったけど何より庵司さんと来れたことが嬉しい)
この日のためにどれだけ庵司さんが努力して休暇を勝ち取ってくれたのだろうか。そう思うと自然と頬が緩むのだ。
「久しぶり、庵司さんじゃない」
その時、私達を呼び止める若い女性の声が聞こえた。
「え?」
私達が振り返るとそこには煌びやかな宝石とワンピースと外套を羽織った女性がいた。雨に濡れたかのような物憂げな雰囲気と色香を纏う。繊細で透き通るような白い肌に冷艶な唇。潤んだ切長の黒瞳、黒絹の髪はバッサリと切られていた。
断髪の美貌の女性が庵司さんの名前を呼んでそこに立っていた。
「酷い、その顔!その顔は絶対に私の名前忘れているわね?麗華、氷室麗華よ。全く…私達の仲だって言うのにね」
麗華さんは怒った顔も様になった。同性の私でも見惚れてしまうほどの美貌。先程から劇場から出てくる人達の視線を一身に浴びている。
そして庵司さんの表情を読み取ったことも驚いた。
「すまない、忘れていた。久しぶりだな」
「思い出したのなら許すわ」
ふふっと笑う麗華さんの美しさにドキリとした。これは一種の芸術品だ。呼吸をやめさえすれば鑑賞物になるだろう。
(凄く綺麗な方…。庵司さんはこんな方ともお知り合いなのね)
素直に感心していた私だが、麗華さんの私達の仲じゃないという言葉に引っ掛かりを覚えていた。
「貴方も歌劇に興味があったのね。そちらは妹さんかしら」
人を魅了する瞳にじっと見つめられ、全てを見透かされているような気分になり居心地が悪かった。そして何より庵司さんの妹だと勘違いされたことが。
「妹じゃない。妻だ」
「妻の小鳥遊薫子と申します」
私は妻の部分を少し強調した。夫婦ではなく兄妹に見られていたなんて少し悲しかった。
「そうね、そういえば貴方に妹なんていなかったわね!」
珠が転がるように綺麗な声でケタケタと笑いながら麗華さんは口元を手で隠した。
「それにしても結婚したなんて聞いてないわよ、何で言ってくれなかったの?」
「結婚式は身内だけで行ったからな」
少し、庵司さんが顔を顰めたのがわかった。先程は庵司さんの表情の変化に気づいた麗華さんもこれは気づけなかったみたいだ。
「今度、家にお邪魔させてくれないかしら?結婚祝いを持っていくわ!」
ひらひらと手を振りながら麗華さんは去っていってしまった。庵司さんの「おっ…おい!」という言葉も聞かずに。
「全く…勝手な奴だ」
はぁとため息をついた庵司さんの手を私は握り直した。
「あの…麗華さんとは随分親しいようですね」
「まぁ…そう…だな」
歯切れの悪い返事に私は少しの不安を覚えた。
******
さまざまな色や柄の綺麗な包装紙で包装された箱や、有名店の紙袋、リボンで飾られた籠など。大量の贈り物を持って後日麗華さんは屋敷に訪れた。
「ほーんと、結婚するなんて思わなかったー!」
ニコニコと笑いながら紅茶を啜る姿も絵になる。一つ一つの所作が流麗で、物静かで控えめながら艶やかだった。
「あの庵司さんがこんなに可愛らしいお嫁さんを貰えるとはね」
可愛らしいと褒められても、麗華さんの美しさの方が優っているので素直に喜べなかった。
「申し訳ありません、庵司さんは仕事でいらっしゃらないなんて」
私は申し訳なさそうに麗華さんに謝罪を述べた。あの日歌劇を見にいくために休暇を取ったため必然的にこの日は仕事に向かわねばならなかったのだ。
「いいの、いいの。急に押しかけた私が悪いし、薫子さんとお話ししてみたかったのよ」
「そうですか。それは嬉しいです」
こんな綺麗な人が私と話したいことなど何だろうと少し身構えた。
「ズバリ、庵司さんとの馴れ初めよ。新婚さんに聞くのは定番でしょ」
「馴れ初め…ですか?えっと…お見合いですね」
詳しく言えばあれは誰もが想像するお見合いの形をなしていなかったが、話せば空気は重くなるだけだろうし麗華さんはそこまで話すほどの仲ではないと思った。
「ふーん、私の時とそう変わらないかぁ〜」
私の時?ピクリと私の肩が跳ねた。
「あの…私の時というのは…?」
「ああ、私ね。庵司さんの元婚約者なの」
こんな綺麗な方が庵司さんの元婚約者?たしかに庵司さんと並べば美男美女夫婦になっただろう。私なんかよりもずっとお似合いだ。
「そ…うなの…ですか」
私は言葉に詰まった。こんな気まずいことがあるだろうか。
「庵司さんね…私と婚約していた時はお芝居とか全然興味がなくて連れていってさえくれなかったわ。私達、形だけの婚約だったのだから仕方がないと言えば仕方がないのだけれど」
麗華さんは悲しそうに長い睫毛の瞳を伏せる。
「どうやって…貴方は庵司さんの氷の心を溶かしたのかしらね」
くるくるとティースプーンで紅茶をかき混ぜながら、寂しそうに紡がれた言葉に私はかける言葉が見つからなかった。慰めるのも違うと思う。
「庵司さんは優しいお方です。決して心が氷のような方ではありません」
「そう?私には冷酷無慈悲で非情な判断を下せる氷の軍人だと思うわ。…………やっぱり貴女は彼の氷の心を溶かしたのではなくて鋭い刃を鈍らせただけなのよ」
ズキリと胸が痛む。庵司さんが死亡だと誤報されるほどの怪我を負った時を思い出した。
「このままでは彼、軍で立場を失うんじゃないかしら」
「っ!?そんなっ」
「彼、国家の狗ならぬ国家の狼と呼ばれるほど有能な人物なのよ。それが妻のせいで腑抜けてしまったらどうかしら。無能な狗なんて不要なのよ」
「わ…私のせい…なのですか?」
私は身を乗り出す勢いで前のめりになっていた。
「軍人の妻としての自覚があるのなら、夫が腑抜けないように適切な距離を保つべきじゃないかしら。軍人の家庭なんて少し冷めてるくらいが丁度いいのよ」
そう言うと麗華さんは立ち上がった。
「そろそろ、帰るわ。またお話ししましょう?」
私は客人を見送るのも忘れてただ固まっていた。軍人の家庭は冷めているくらいで丁度いい、麗華さんの言葉が延々と頭の中で響いていた。
******
寝る前、寝室にて。
「顔色が悪いが大丈夫か」
「はい…。大丈夫です」
庵司さんの顔をまともに見れなかった。見たら泣き出してしまいそうで。麗華さんの言葉は直接的ではないにしろ、貴女は庵司さんの妻に相応しくないと言っているようなものだった。
「今日、麗華が訪ねてきたそうだな」
「はい。少しお話しした後帰られました」
しばらく庵司さんは黙っていたが、私が避けている顔を無理やり覗き込んだ。
「大丈夫じゃないな。何があったのか話してくれ」
純粋に心配だけを映した瞳に見つめられ、一人で抱え込むものでもないなと思った私は話してしまうことにした。
「庵司さんが家庭に求めるものは何…ですか?」
「穏やか…であること…だろうか。安心できる場所であるといい」
どうして急にそんなことを聞くんだ?と庵司さんは首を傾げた。そして薫子は今のままで十分だから努力するようなこともないと言ってくれた。
「それは軍人という職業の視点からもですか?」
「勿論だ」
それを聞いて少し安心した。ふぅ…と一旦息を吐く。そしてこれが一番重要な質問だった。
「あ…あの、失礼かもしれませんが庵司さんは私と結婚して…その…仕事に集中できなくなったりなどしませんか?私、足手まといになってしまってはいませんか?」
「足手まといなどなっていない。それとも、仕事中にも自分のことを考えていて欲しいか?」
ぼっ…と音が出そうなほど急速に私の顔が赤くなった。庵司さんが意地悪そうに微笑んでいる。
「ちっ…違います!ちゃんとお仕事に集中しててください!」
「わかっている」
庵司さんは笑いながら私の頭を撫でた。こういう事がもしや妻ではなく妹のような扱いになっているのでは?と疑問が湧いたが嬉しかったのでやめて欲しくはなかった。
「麗華に何が言われたのか」
頭を撫でられ油断していたところで言い当てられ、私はピクリと肩を跳ねさせた。
「麗華さんは…庵司さんの元婚約者だったと伺いました」
「ああ、そうだ。だからあまり会わせたくはなかったんだがな…。不快な思いをさせてしまったか?」
ぶんぶんと首を振る。私が庵司さんの交友関係に口を出す権利はないと分かっている。ただ…
「あんな綺麗な方と私を比べて…少し卑屈になっていました。嫉妬も…しました」
恥ずかしかったが正直に白状した。以前なら比べることも烏滸がましいと思っていただろうが、今の私は少しだけ…ほんの少しだけ庵司さんのおかげで綺麗になったのではないかと思えるようになった。
「麗華さんが軍人の家庭は少し冷めているくらいが丁度いいと仰っていたので…不安になってしまいました」
庵司さんが静かに怒りで震えているのが分かった。告げ口をしてしまったようで少しの罪悪感を覚えた。
「麗華にはもう二度と来ないようにしてもらおう」
「あの…ごめんなさい。私のせいで庵司さんの友好関係を狭めてしまい…」
「何を言っている。何も謝る事はない。妻にそんな事を言う奴を家にあげる事はできない」
そう言って庵司さんに抱きしめられた。全身を包む温もりに私は安心した。
******
後日、麗華さんはまた家を訪ねてきた。
「またお茶でもしようと思って海外の紅茶を取り寄せたのよ〜!」
麗華さんの手に持たれた紙袋には外国の文字の紅茶缶が入っていた。
「悪いが、麗華。帰ってくれ」
玄関先に立ち塞がって庵司さんは麗華さんを入れようとはしなかった。
「酷い!今日は事前に連絡したわよ?」
「元婚約者という間柄、妻を不安にさせてしまうからな。悪いがもう来ないでくれ」
麗華さんは眼球がこぼれ落ちてしまいそうなほど目を見開いた。
「そのぶっきらぼうな感じ、庵司さん変わってないわね。また私を突き放すのね」
その言葉には怒りがこもっていた。麗華さんは庵司さんの後ろにいた私を睨みでけながら涙を流し始めた。
「婚約はお互いこのまま結婚しても幸せになれないとわかって同意の上、解消したじゃないか。悪いが友人には戻れない」
一呼吸置いて庵司さんは続けた。一旦目を閉じて、その瞳を開けばもう睨みつけるようなものに変わっていた。
「私達の家庭を壊そうとする友人なんて要らないからな」
あのまま、私が言わなければ確実にすれ違っていた。小さく入った亀裂は徐々に大きくなり遠くない未来、確実に崩壊しただろう。私達はまだ最初の方に発見できたからよかったのだ。
「ちょっと、助言しただけじゃない。私だって軍人の娘だから薫子さんの助けになれると思ったのよ。お節介だったみたいね」
麗華さんは腕を組んで頬を少し膨らませてみせた。
「余計なお世話だったんだ。それに私達の関係はもう終わっている。今更拗らせられても困るからな。分かったならもう来ないでくれ」
庵司さんの言い方は少しきついのかもしれない。麗華さんが少し可哀想になってきた。しかしあの助言は私達の家庭には当てはまらない。たとえ他の軍人の家庭が冷めているものだとしても、私達は暖かくて優しくて穏やかで安らげる家庭がいい。
「もう、いいわ」
麗華さんは涙を浮かべると歯を食いしばってそのまま車に乗り込んでしまった。遠くなる車の音に私は少しの罪悪感を感じたのだった。
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小鳥遊庵司様と薫子様へ
突然、お手紙を送ることをお許しください。先日の非礼を詫びたいのですが、もう二度と来るなと言われておりますのでお手紙を書かせていただきます。もしかしたら、庵司さんは封を開けずに燃やされてしまうかもしれませんが読んでいてくださることを信じて書きます。
まずは本当に申し訳ありませんでした。あの時の私は酷く幼稚でした。お二人の幸せそうな姿に醜くも嫉妬して家庭を壊そうと企んでいたのですから。
私の家庭は冷めていました。仕事しか大切ではない軍人の父と父を愛していない母の元で育ちました。私は他の家庭も自分と同じであると信じて疑いませんでした。
だから貴方達が仲睦まじくデヱトしている姿を見た時、何故私の時とは違うのか怒りが湧いてきました。私は誰かに愛されたかったのです。だから庵司さんからの愛を受けている薫子さんが憎くて仕方がありませんでした。
私はまだ庵司さんに未練があったのだと思います。ですが庵司さんの口からはっきりと二度と来るなと言われ、目が覚めました。本当にお二人にはご迷惑をかけてしまいました。
どうか末長くお幸せに。影ながら祈っております。
氷室麗華より
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庵司さんと私は手紙を読み終わると顔を見合わせた。麗華さんは可哀想な人な人だった。それが分かった。彼女が未練を断ち切り、前を向いて歩いていけることを願うばかりだ。
私も影ながら祈っております。
目の前には鏡台、手には鋏。私はそっと長い黒髪を見つめた。
「庵司さんはあのような断髪の方が好みなのでしょうか…」
時代の先端を行くモダンガールの様な方が。
「ああああ!?駄目ですよ、絶対駄目!!奥様は長く美しい髪がいいんですから!!」
全力でおりんさんをはじめとする女中の皆様に止められた。
「私も…長い髪の方がいい。勿論、髪が短くなった薫子を嫌いになるはずなどないのだが…」
後で庵司さんにもそう言われた。そして長い髪に口付けを落とされたのだった。




