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蒼穹 三話

走って、走って、走って。段々とそれは歩みに変わって、そして足を止めた。どれだけ走っただろうか。多分思っているほど距離は空いていない。追いかけて来なかったのが幸いだった。


「ふっ…ぅ…うぅ…」


立ち止まってしゃがみ込んだ。膝を抱えて私は泣いた。堪えていた涙が堪え切れなくなった。信じられなかった、信じたくなかった。

清さんが私を好きじゃなかったことも浮気したことも…全て信じられなくて。そして何より悔しかった。私では何も出来ないことを。


清さんに復讐する事は私には出来ない。医者を辞めさせる権力なんてないし、殺してしまうほどの覚悟もなければあんな最低野郎の為に私の人生を棒に振る勇気もなかった。


浮気した元恋人と同じ職場で働いていけるほど私の神経は図太くないし、清さんの言う通り出て行くなら私なのだろう。それが堪らなく悔しかった。


「美琴さん…大丈夫…?」


その時、頭上から声が降ってきた。こんな情けないところ見られたくなかった。


「あ…翔吾さん…私」


泣き腫らした目も、走って乱れてしまった髪も。白衣の天使でない私なんて何の価値もないから。作った私以外どこにも需要がないから。だから一番見られたくなかった人だった。


「私…大丈夫じゃないんです」


「とりあえず、涙を拭いて。落ち着こう」


そっとハンカチで涙を拭ってくれた翔吾さんの優しさにまた涙が溢れてしまった。


「どうして…翔吾さんはここに…?」


「寝付けなくて、散歩でもしようと…」


「もう!夜間は病室から出ないでください。規則ですよ」


その言葉は震えていて嗚咽が混じっていた。


「そんなこと、今はどうでもいいじゃないですか」


廊下に座り込んでいた私を翔吾さんは立ち上がらせると落ち着ける場所と言って森の切り株のところまで来た。翔吾さんが絵を描いていた場所だ。


星明かりに照らされ、外は少し明るく夜風は冷えたが頭を冷やすのにはちょうどよかった。本当に頭を冷やすべきは私ではなく清さんなのだろうけど。


「なんで泣いているのか…聞いてもいいですか?」


真剣な眼差しと声色で私ははぐらかして逃げることなど出来なかった。そしてポツリポツリと先程の出来事を私は話していた。


「私が…悪かったのでしょうか」


確かに最近、清さんとろくに話していなかった。すれ違ってばっかりで。だからもう愛情が尽きて他の女性のところにいったのではないだろうか。

繋ぎ止められなかった女が悪い。そう世間は言うのだろう。周りはそう言うのだろうか。


「そんな事あるわけない。悪いわけがない」


翔吾さんが私の肩を掴む。


「美琴さんは悪くない!悪いのは久遠先生だ」


そうはっきり言ってもらった事で少し楽になった様に感じた。


「私…悔しいです。どう頑張ってもあの男に復讐できない。しかも出て行くのは私の方だから」


ぎゅっと胸の辺りの服を掴む。シワになってしまうことも気にせず握りしめた。こんな情けない姿を見せることに普段なら恥ずかしさを覚えていただろう。

いくら親しくなったとはいえ私達は看護婦と患者。看護婦は患者にとっての白衣の天使であり、癒しであり、頼れる絶対的な存在なのだ。


しかしその絶対が崩れ落ちる瞬間を目撃したら?実は脆い者だと気づいたら?彼らの病状悪化に繋がってしまうかもしれない。幸いなことに翔吾さんは退院間近まで回復していたので大丈夫だとは思うが。


あの男への憎さと自分の無力さからまた涙が溢れてくる。翔吾さんから借りたハンカチもぐしょぐしょに濡らしてしまっていた。


「僕らの天使を泣かせるなんて、久遠先生は許されないことをした」


まだこの人は天使の私を見ている。


「天使だなんて…翔吾さんは他の看護婦にもそんな事を言っているんでしょう?」


顔もいいし、女性を口説く甘い言葉も知っている。だって女誑しっぽいもの。でもおかげでクスッと笑えた。涙を止めようといつも通りを演じようとしてくれたのだろう。

清さんのいつも通りと言った完璧すぎて気持ち悪いくらいのものではなかった。 


星明かりと持ち出したカンテラの灯りが私達二人を照らした。


「貴女の涙を止めてあげたい。悲しんでいる姿も見たくない。だからもし何か出来ることがあるなら頼って欲しい」


まったく…言い慣れている感じが伝わってくる。一体どれだけの女性を落とせば気が済むのか。恐ろしいものだ。私も堕ちた何人もの女の一人になりかけているではないか。

傷心に漬け込まれているではないか。信じたら、また裏切られるのでは?捨てられてしまうのではないか?


それでもあの男に復讐できるのなら。私は弱い。だから媚び諂ってでも力を手に入れる。これは嘘偽りのない本当の私。白衣の天使の姿を脱ぎ捨てた、本当の薄葉(うすば)美琴(みこと)


「助けてください」



******



朝、病棟はなんとも言えない雰囲気に包まれていた。ピリピリと張り詰めている。そして嵐の前の静けさという様に異様に静かだった。

そしていつもは白いシーツなどが干されている病棟同士の間に位置する中庭には二人の男の姿があった。


「呼び出して悪いですね、久遠先生」


にっこりと微笑む翔吾だが目だけは笑っていなかった。病棟の窓からは無数の視線が降り注がれている。


「忙しいんですから、早くしてくれませんかね」


ズレた眼鏡をかけ直して興味がないと言った様に清は言った。


「じゃあ、単刀直入に言います。僕と決闘してください」


「は?」


流石に清も表情を崩した。間抜けに一言、は?と。


「何を言っているのか分かりませんが…」


「そのままの意味です」


翔吾は朗らかに笑う。その笑顔を見た看護婦達がはぁと感嘆のため息を漏らした。


「恨まれている心当たりはありますね?昨夜の事ですから」


そう言いながら翔吾はポキポキと拳を鳴らす。見物人達のおぉ〜というざわめきがあたりに響いた。


「それは僕と彼女の問題です。部外者は首を突っ込まないでください」


「僕は彼女から決闘代理人を頼まれました」


もう関係者ですと翔吾は笑いながら言った。ギリギリと奥歯を食いしばり清は翔吾を睨みつけた。だが翔吾は笑ったままだった。


「女性を泣かせる屑野郎には二、三発…顔が変形するくらい殴らないと彼女が可哀想ですからね」


女誑しの様な容姿だが、女性は泣かせない主義と言った信念が感じられまた看護婦達からうっとりとしたため息が漏れた。


「軍人が善良なる市民を殴ってもいいと思っているのか?殴ったらどうなるかわからないわけないだろう。たかが一人の女の為に人生を棒に振るのかい?」


ぴくりと翔吾の眉が動いた。たかが一人。だけど翔吾にとっては唯一の人。


濡烏色のサラサラとした髪は窓からの風に揺れ、瞳は澄んだ水のように清らかで。純粋なものしか映さない。色づいた唇には、少しだけ色がのっている。清潔感を漂わせる薄化粧など邪魔なくらいに彼女は美しかった。


白い百合のような清楚さと、満開の薔薇のような艶やかさを持ち合わせながら、愛され甘やかされた少女のような美しさを持つ彼女。彼女が微笑むたびに、花々が揺らめくような感覚がする。

立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花、なんて言葉を地でいく女性。


そんな天使が地上に降臨したと言われても信じてしまうかの様な美しさを持つ女性。いつも患者達に笑顔を振り撒き優しさを注いでくれる。


そんな彼女が髪を乱して、息も絶え絶えになって。泣いた目は腫れて。誰が貴女にそんな顔をさせた?許せなかった。自分に振り向いてくれなくていいから、幸福の中で笑っていて。それだけで良かったから。ただ彼女に不幸な影を落とすなら、許さない。


「軍人をクビになったら画家でも目指しますかね」


『凄いですね、とても上手です。画家さんだと言われても驚かないくらい』


彼女の顔が蘇った。秘密がバレてしまった唯一の人だからでもあるが、そう言ってくれた初めての人だった。前世、天使か何かだったんだよきっと。この世で唯一傍にいて癒される人。


翔吾は目にも見えぬ速さで清との距離を詰め胸ぐらを掴み上げ拳を構えた。


「これが最初で最後の忠告だ。今、彼女に謝って彼女が許すなら殴らないでおいてやる」


「ただじゃ済まないことになる、馬鹿なんだね君は。あんな女の為に」


清の体は全身震えていた。


()()()()じゃない。お前みたいな屑野郎があんな女呼ばわりしていい人じゃない!」


清の胸ぐらを掴む手に力が込められる。


「ヒィッ」


翔吾の剣幕に驚いたのか、清の口から情けない悲鳴が溢れた。清の額から冷や汗が伝い落ちる。そんなことお構いなしに、翔吾は拳を清に向かって叩き込もうとした。


「ゆっ…許してくれっ!」


清の声にその拳は当たる寸前で止められた。


「す…済まなかった」


やはり現役軍人の拳の前に清の虚勢は崩れ去った。先程まで強がり、馬鹿にしていたのが嘘の様だった。


「謝るのは僕にじゃない」


そう言って翔吾は掴んでいた胸ぐらを離し、清を地面に投げ捨てる。



そして私は決闘の見物人達の間からそっと前に出た。

 

清さんは私を見つけると怯えた様に顔を青ざめさせた。ああ、私はこんなに情けない男が好きだったのかと馬鹿らしくなっていた。

好きだった時は優しくて穏やかだと感じていたとしても冷めれば、なんて情けなくて弱々しく臆病な姿なのだろう。


「これからは君だけを愛すよ、済まなかった」


清さんは私に頭を下げる。なんだそれはと驚愕し、怒りに燃えている翔吾さんに落ち着いて…と笑顔を向けた。


「久遠先生、顔をあげてください」


私はとびきりの笑顔を作った。清さんは顔を上げると私の笑顔に許されたと勘違いした様だった。

パチンっと音が響く。私は清さんに平手打ちを食らわせていた。


「ふざけるな、糞野郎。お前が愛してるのは私のお金でしょう。あの子とどうぞお幸せに」


とびっきりに呪いを込めた笑顔を向ける。当然、目だけは笑ってはいなかった。見物人達からは拍手が送られた。



******



薄水色の水仙の刺繍がされた着物を着て私は療養施設の門から一歩外へ出た。門の前には軍服姿の翔吾さんの姿があった。つい最近、退院おめでとうございますと送り出したばかりだ。


「迎えに来てくださったんですか?」


「ええ、そうです」


彼の後ろには高級そうな自動車があった。なんと贅沢な…と私は目を丸くする。


「そういえば、翔吾さん。久遠先生があの後急にいなくなったのですが何か知っていたりします?」


「美琴さんは知らなくていいことですよ」


絶対に何か知ってるとは思ったが聞かないことにした。大体予想はつく。翔吾さんが実家の力も使って清さんをクビにしてくれたことくらい。あの悪評は広まってもう病院に医者として就職することは難しいだろう。


看護婦見習いの少女はクビにはならなかったけど厳しい婦長から直々に徹底的にしごかれるだろうからご愁傷様と言いたい。


私はというと、辞めた。辞める必要はなかったけど嫌な思い出のある場所に留まりたいとは思えなかった。だから次の病院を探そうかとあの決闘騒ぎの後私は翔吾さんに零していた。


「それに、あんな暴言を吐いてしまいましたし居心地が悪くなってしまうと思って。暴力暴言女ですから、嫁の貰い手も無いでしょうし」


「あの、僕が貰うって言ったら迷惑ですか?」


真剣な眼差しに見つめられ私はえ?と口を開けたまま固まった。


「あ…やっぱり忘れて…」


そう翔吾さんが言いかけた時、思わず私は言葉を遮っていた。


「忘れないで」


顔が真っ赤になってる気がした。いや、多分真っ赤になっている。


「その…迷惑じゃ…ありません。嬉しいです」


私のために手を貸してくれた優しい軍人さん。私の本当の姿を見ても幻滅しないでいてくれた人。


「傷心に漬け込んだ形になるのが嫌なので、まずはお付き合いから始めましょう」


翔吾さんは手を差し出した。握手するみたいな手だ。私はその手を取る。


「よろしくお願いします」


助けてくれてありがとう。私のために怒ってくれて、心配してくれてありがとう。あの時一番かけて欲しい言葉やものを貴方がくれた。



翔吾さんが退院して、たった今私はあの療養施設を辞めた。次の就職先は翔吾さんの恋人か。


「嬉しい。天使が僕の隣に来てくれたからね」


「ふふっ。翔吾さん、貴方一体何人の女性にそんなこと言ったの?」


差し出された手を私は取る。握手の様なものではなくて手を繋ぐものだった。


「美琴さん以外、誰にも言ったことはないよ。こんなに真剣になったのは初めてだ」


「どこまで本当なのかしら」


「酷い。僕ってそんなに信用がない?」


翔吾さんが困った様に笑う。


「これから信用してもらえる様に努力するよ。他の女を見るなっていうならこの眼球は要らないし、何処にも行くなというなら足の腱を切るよ」


「重いわ、そして軍人としても画家としても致命的だわ」


冗談だよ、と翔吾さんは笑う。


「僕のこの世で唯一安らげる場所が美琴さんだからさ、離れないでね」


「これからは貴方だけを癒やしてあげますよ」


私達の頭上には目に染みる様な蒼穹が広がっていた。

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