蒼穹 二話
木が生い茂る病棟の裏庭。ここは小さな森のようになっている。木漏れ日が降り注いで私達を照らした。
「こんなところにいたんですね、翔吾さん」
「絵、見ます?」
朗らかに笑う翔吾さんは木の幹に背中を預け、スケッチブックを私の方に差し出した。私達は名前で呼び合うほどに親しくなっていた。絵という秘密を共有する仲間だからか、親密になるのに時間は掛からなかった。
「今回は何を描いたんですか」
受け取って私は絵を見る。切り株の模写のようだった。翔吾さんがふらりと何処かへ行くと騒ぎになる。そうして探しに行く役目はいつも私に回ってくる。他の看護婦だと心臓が持たないそうだ。
「美琴さんも描いてみます?絵って感情の発散というか、現実逃避には最適だと思うんですよ」
私はこれが彼が軍での自分の立場や家からの重圧から逃げ出すための手段だと知っている。
「私、上手くないですよ」
「上手くなくてもいいよ」
私はスケッチブックと鉛筆を受け取ると翔吾さんが描いていた切り株に腰を下ろした。
「もしかして、下手な私の絵を馬鹿にするために勧めました?」
「そんなことするはずないよ」
「そうでした、ごめんなさいね」
クスクスと私は笑いながら鉛筆を走らせる。
(翔吾さんの似顔絵でも描いてみましょう)
下手な出来の自分の似顔絵を見て彼がどんな反応をするのか楽しみだった。チラチラと彼を盗み見てそれを絵に落とし込む。特徴くらいは掴めたのではないだろうか。
「それ、もしかして僕?」
やけに声が耳の近くでするなぁと顔をスケッチブックから上げてみれば隣には隣に翔吾さんは来ていた。
「きゃあ!」
驚いて切り株から滑り落ちる。
「ごめん、驚かせるつもりはなかったんだ」
差し出された手を掴んで私は立ち上がった。パンパンとスカートについた汚れを払う。
「下手でごめんなさいね」
「下手ではないよ。いや〜、男前に描いてもらって嬉しいよ。ここに入院した記念にするね」
その言葉を聞いて、そう言えばもうすぐ退院するんだという事を思い出した。
「そういえば、もうすぐ退院ですね」
「おかげさまで。鈍った体を鍛え直さなければなぁと思っているよ」
そう言って困ったように笑う。ここにいる間は彼にとって現実逃避だったのだろう。療養中であれば家に帰らなくていいし、軍での立場も少し忘れられる。だからこそその言葉を零させたのだ。
「ずっとここに居たいよ…」
森の中はただでさえ静寂で先程までは私の鉛筆を走らせる音だったり私達の喋り声だけが響いていた。シンッと静まり返る。しばらくの沈黙が永久にも似た長さに感じられた。
「ずっとここに居るわけにはいきませんよ」
「また来たいな」
「二度と来ない事を願います」
ここにくるということは療養が必要なほど傷を負ったという事だから。
「さぁ、そろそろ夕食の時間です。行きましょう」
彼の寂しそうな顔を見て見ぬ振りをした。私だって寂しい。彼は私の中で大切な友人に変化していったから。でもだからこそもう来てほしくない、会いたくないという思いから私は彼を見ずに建物の方へと歩き出した。
******
銀砂を撒いたような星空の夜。自然豊かな土地であるここでは星空がよく見える。そんな病棟の夜。
「久遠先生…」
「すまない、大事な用でなければ後にしてくれ」
そう言って清さんは私に背を向けて診察室に入っていった。ピシャリと音を立てて閉められた扉が拒絶されたように感じる。仕事中に私情を挟まないでと言っておきながら、冷たい態度を取られると不安になってしまう。
(大丈夫、きっと忙しかっただけよ)
最近、恋人として清さんに会えていない。お互いに忙しいのもあるが以前よりも休暇が被らない。
(すれ違ってばっかりね)
はあ…と大きく溜息をつく。そうして私は仮眠室に向かうために診察室を後にした。静かな廊下に私の足音だけが響く。静かなのが余計に私に自分を責める思考に陥らせた。
(嫌われたのかしら。だから冷たかったのかしら)
じわっと涙が滲んでくる。その涙を袖で拭った。
(私達のこれからは大事な用だわ。今度の休み、話し合う時間が取れないか聞いてみるくらいならいいかしら)
悩みながらも私の足はくるりと反対方向に向き、診察室へと向かっていた。今の時間、患者は診察室にいないし清さんは多分残った仕事を診察室で片付けている最中なのだろう。
(邪魔をしてしまうのは申し訳ないけど、すぐに終わる事だから大丈夫よね)
診察室に灯りは灯っていなかった。
(居ないのかしら?)
それにしても妙だった。戻ってくるまでそんなに時間はたっていない。もし居ないとなればまるで私を避けたいがために忙しいと嘘をついて診察室に逃げ込んだようではないか。
悲しくなって…惨めになって…。泣き出しそうだった。その時、部屋からひそひそと話し声が聞こえた。
(やっぱり、居るんじゃないの)
引き戸に手をかけようとした時、その声ははっきりと聞こえた。暗闇の中で何をしているのか思考が回らなかった。
「久遠先生ぇ…好きぃ〜」
「照れるな、私も好きだよ」
甘ったるくて吐きそうになる程気持ち悪い声と清さんの声。二人は夜中の診察室という背徳感を楽しんでいる様だった。私は引き戸に伸ばしかけた手が震えた。震えながらその手を引っ込めた。私にその扉を開ける勇気はなかった。
一歩、後ろに下がる。見て見ぬ振りをして今まで通り恋人でいた方が楽なのではないかと現実から逃げようとした。古い廊下はギィと音を立てた。静かな夜、音を遮るものなどない。
当然、中にいた人にも聞こえたようだった。
「先生ぇ〜」
「ああ、わかっているよ」
私は体が固まってその場から動けなかった。逃げ出したいのに出来なかった。引き戸が開かれる。その音はこの世で一番残酷に聞こえた。
「清さん…」
私は真っ直ぐと清さんの瞳を見つめ、名前を呼んだ。
「どういう事ですか」
「見ての通りだよ」
清さんはいつも通り、優しい声色で言った。慌てる様子は一切なかった。まるでバレてもいいと思っているかの様に。
「こんなことになったという事は私達お別れですね」
「本当にそれでいいの?」
清さんは眉を下げて困った様に笑う。本当にいつもと変わり無い清さんだった。
「何を言っているんですか?まさか、別れない選択肢があるとでも?」
「そうだよ」
清さんの手が私の頰に添えられた。愛でる様に優しく…暖かくて柔らかい。
「彼女に触れた手で触らないでください!」
パチンッという音と共に私は清さんの手を払い落とした。そして自分でも驚くほどに声を張り上げていた。
「将来の旦那様にこんなことしていいのかな」
「誰が貴方なんかと結婚するものですか!」
この状況でもいつも通りを崩さない清さんに私は恐怖の様な感情を抱いていた。
「ここで私と別れてどうする?君は行き遅れになるだけだし、職場でも立場を失う」
「立場を失うのは貴方の方だわ」
「どうかな?私はこの病院になくてはならない存在だよ。出て行くなら君の方だ」
言葉に詰まった。清さんは優秀な医者でここになくてはならない存在になっている。医者は看護婦より人数が少ないので一人抜けただけでも痛手だ。
「君は火遊びに寛容になった方がいい」
息がかかるほど清さんの顔が近づいてくる。私は慌てて清さんを押しのけた。
「あのぉ〜、おばさん」
さっきまで静かにしていた浮気相手の少女が清さんの後ろから顔を出した。まだあどけなさが残るその少女は看護婦見習いの子だとわかった。
「久遠先生がぁ〜、結婚してやるって言ってるんだからぁ〜素直にぃ〜頷いたらいいのよぉ〜」
にっこりと笑うその笑顔には敵意が溢れていた。
「でもっ、先生の本命はぁ私だからっ!」
「は?」
私は顔を顰めた。この人達が何をしたいのかわからなかったから。
「そこのお嬢さんと結婚すればいいでしょう!」
まるで別人の様に豹変してくれればよかった。なのに清さんはいつもと変わらず穏やかで優しいまま。最低な野郎だと分かっているのに記憶の中の好きだった清さんと違わないから私は酷くなり切れない。
行き遅れになってしまうのは事実。世間的にも男性の方が優位になってしまうのも事実。
「君の家は裕福だ。君と結婚すれば将来、医院を立ち上げる時融資して貰える」
そういえば、よく清さんは夢を語っていた。自分の医院を立ち上げたいのだと。その時は君も隣にいてねと笑っていた。彼が見ていたのは私ではなくお金だったのか。
何かがふつふつと湧き上がってくる。これは怒りか、蔑みか…その両方だろうか。
「君は優秀な医者の妻になれて生活に困る事はない」
だから私は愛されない人生をこれからずっと歩まなければならないのだろうか。愛人を黙認して、ただただ耐えて。
「そんなの、死んでもお断りよ」
私はそう吐き捨てるとその場を走り去った。




