蒼穹 一話
家はかなり裕福だったが、華族の位を与えられる程ではなく。でも、十分幸福だったのだと思う。
女でも誰かの役に立ちたくて………違う。そんな綺麗事じゃない。華族でも無いのに厳しい掟の鎖で自らを縛って、針が突き刺すような痛みで充満していた家から早く自由になりたかっただけ。
人の役に立ちたいと綺麗事を述べたら、父は喜んで看護学校の学費を出してくれた。いつか、綺麗事は現実の私になった。今日も私は綺麗事を述べていい子を演じる薄葉美琴に擬態する。
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その帝國陸軍の療養施設は小高い丘の上に聳え立っていた。木々の隙間から木漏れ日が差し込む道を抜けると物々しい門が見える。ここが私の職場。私は無事看護学校を卒業し、ここで看護婦として働いている。全身純白に包まれた白衣の天使。
「おはようございます」
「おはよう〜」
花が咲くような可憐な声が響く。出勤してきた者、これから退勤する者達がすれ違う。この施設は巨大な建物では無い。数ある帝國陸軍の療養施設のうちの一つ。勤務している医者も看護婦も帝都の大学病院などと比べれば少ない。
敷地内には三つの病棟が並んである。戦場で心に傷を持ったものを癒す場所。それがここである。
シーツを洗って敷地内の庭に干したり、治療器具を消毒したり、怪我をした患者達の包帯を取り替えたりする。平和な日々だ。
廊下を歩いていればとある病室の前だけ看護婦達が集まっている。これもいつもの風景だ。最初の頃は何事かと思っていたが、最近は慣れつつある。
「今日も麗しいわね」
「あんな方の婚約者になりたい人生だったわ」
ほぉ…とため息をつきながら頬を紅潮させる看護婦達。その視線の先にあるのは端正な顔立ち、闇夜の様に黒く暗い髪。何処か女誑しにも見えなくは無い雰囲気を纏った人物。
隣国との戦争で功を立て帝國の英雄的扱いを受ける小鳥遊家の長男、小鳥遊翔吾。現在は隣国との戦争で負傷し、ここにいる。
戦争は休戦状態になり、今は一時的にかもしれないが平和な時代だ。
「あっ、美琴さん。丁度いいところに!美琴さんがカーテン開けてきてくれない?」
最初はカーテンを開けたり、包帯を取り替えたり検温の時間だと体温計を渡しに行ったり。彼に関することは看護婦の中で争奪戦が起きる程だった。
しかし彼に見つめられれば照れてしまい殆どの看護婦が仕事どころでは無くなるので現在は彼に見つめられようとも動じない鋼の心を持つ私か、婦長のみが彼の処置などを行なっている。
「分かりました」
私はたとえどんな美形が現れようとも、他の看護婦のように色めき立つ事はない。
「おはようございます、カーテン開けますね」
私は歩みを進め、病室に入りカーテンを開ける。遮られていた光が病室に入り、彼は眩しそうに目を細めながら読んでいた本を閉じた。
「おはよう、看護婦さん。今日も白衣の天使の名に違わぬ美貌ですね」
「小鳥遊さん、暗い部屋で本を読んでいたら目が悪くなりますよ」
こんな言葉、彼からは言われ慣れている。最初は驚いたものだが今では丁重に無視できるほどに成長した。
「いや〜、看護婦さん達のおかげで俺たちは元気になれるんですよ」
「本当ですよ?」
他のベッドからも褒める言葉が聞こえる。私は満面の笑みを作った。
「私達看護婦もみなさんのお役に立てて嬉しいです」
そして私は嘘を吐く。
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「やあ、おはよう。美琴さん」
爽やかな笑顔で私の目の前に現れたのは私の最愛の人。久遠清さんだった。丸い眼鏡をかけサラサラな黒というよりは灰色に近い髪を持つ。
清さんは私の恋人だ。だが、それは周りには秘密にしている。
「久遠先生、おはようございます」
「見ていたよ。今日も君は患者達に大人気だったね。少し…妬いてしまうな」
パッと私の顔が赤くなる。清さんは私の垂れた前髪を耳にかけた。清さんが触れるところから熱が籠る。自分の心臓が煩くて、清さんに聞こえていないか不安になった。
「先生、ここは廊下です。誰が聞いているか分かりませんよ」
「誰もいないよ?」
あたりを見渡して清さんが微笑む。困り眉の瞳で見つめられ、危うく私は流されてしまうところだった。
「口付けくらい…いいんじゃないかなぁ?」
「職務に私情を挟まないでください、先生!」
私の頬を撫でていた清さんの手がぱっと離れる。そこに少しの寂しさを感じてしまうあたり私も仕事中に私情が挟まれてしまう。
「最近は忙しくてね、中々君に会えないじゃないか。だから少しらしくない事をしてしまった。ごめんね、忘れてくれ。仕事に戻ろうか」
「そうですね、先生」
日が差し込む病棟を繋ぐ渡り廊下で。私達はなんでもない様に別れた。清さんの背中が見えなくなって私は触れられた自分の頬を優しく撫でた。
「私も…寂しいですよ、清さん」
優しくて陽だまりのような清さんが大好きなのだなと私は再確認した。たとえどんな美形が現れようとも私は動じることがない。だって、私にはこんなにも好きでたまらない恋人がいるのだから。
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蒼穹と呼ぶに相応しい空に白いシーツが揺れる。今朝干したばかりのシーツの白は青い空に映えた。そのシーツの揺れる隙間からチラチラと見える後ろ姿は姿が見えないと騒がれていた彼のもので間違い無いだろう。私はその後ろ姿に向かって歩みを進める。
「こんなところにいたんですか、小鳥遊さん」
座って風景を眺めているのであろう彼に声をかける。
「あっ、看護婦さんでしたか」
翔吾さんは何かを後ろに隠すようにして困ったように笑った。
「今、何を隠したんですか?」
「いえ、何も隠してなんていないですよ?」
その整った顔で目一杯に美しい笑顔で誤魔化そうとも私には無駄だった。他の看護婦になら有効だったかもしれないが。
「何か危険物を持っているかもしれませんのでちゃんと見せてください」
「やだなぁ、危険物なんて…」
そう言いながらも彼の額に冷や汗が滲んでいる事を私は見逃さなかった。じっと彼の目を見て訴えかける。観念したように彼は後ろに隠していたものを見せた。
「絵…ですか?」
「絵…です」
スケッチブックに丘の上から見える風景が鉛筆だけで描かれていた。素人から見てもかなり上手かった。
「凄いですね、とても上手です。画家さんだと言われても驚かないくらい」
「実は画家になりたかったんですよ。ただ軍人の家系だから仕方なく…軍人の道を選びました。……笑いますか?」
真剣な雰囲気に私はゴクリと唾を飲み込んだ。何かこの人にとって聞いてはいけないことに踏み込んでしまったのかもしれない。
「笑いません」
「軍人のくせして、未練がましく絵を描いてるなんて思わないんですか?」
「思うわけないじゃ無いですか。素敵ですよ」
本心からその言葉が口から溢れた。優しいいい子を演じようだとか白衣の天使に相応しくだとか、そんなこと微塵も考えずに。
「看護婦さん、貴女は前世で天使か何かだったんですか?」
「まさか、天使なわけないじゃ無いですか」
こんな美しさも無い醜いだけが中身の女が天使なわけないのだ。白衣の天使と呼ばれているのは私が必死に作った外見。息苦しい家から逃げ出すための手段。
人を助けたいだとかそんなんじゃない。まだ看護婦の制服に憧れたとかの方がマシなくらいに。私は自分のためだけにこの職についた。本当に人を助けたいという信念でやっている人に失礼なほど。
「看護婦さん、絵のことは秘密にしてくださいね」
「分かりました。二人だけの秘密ですよ」
サァーと風が吹いてシーツを大きく揺らした。私達の姿が病棟から丸見えになる。
「こんなところにいたんですか、小鳥遊さん。昼食の時間です、行きましょう」




