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二十四話

池に腰のあたりまで浸かった。どうやって足を動かしているのか分からなくなってきた。刺繍をしたハンカチを胸に抱く。


(これで怖くありません)


庵司さんがそばにいてくれている気がした。今から庵司さんの元へ行くのだから近くに感じるのは当たり前だったかも知れない。


名目上そして事実、私と庵司さんの関係はただの婚約者で終わる。庵司さんのお嫁さんになりたかった、妻になりたかった。夫婦になりたかった。


自分の弱い頭を回してそんな叶わない願望が溢れ出す。まだ話したいことが沢山あった。まだ聞きたいことが沢山あった。一緒に過ごしたい季節が数え切れないほどある。


絢爛たる花咲き乱れる春も、深緑が眩しい夏も、金風が吹き荒ぶる秋も、霜夜凍てつく冬も。私達が過ごしたのはたった一年にも満たない時間。


(今、そちらに会いに行きます)


肩まで池に浸かった。手の感覚がないにも関わらず私はハンカチを握りしめる手だけは離さなかった。まるで庵司さんと手を繋いでいるような気がして。もう一度繋げるのなら、二度と離したりなどしないから。


(そういえば庵司さん、私に自分の事名前で呼ばせたのに結局私の名前は呼ばなかった…)


会ったら聞き飽きるほど読んでもらおう。私は微睡むように目を閉じる。耳にまで水が浸かった。あともう少し、あと少しで。


目の前には薄曇りの空に桜が降っていた。きっとこれは幻なのだろうと思った。そういえば、庵司さんと出会った季節は春だった。


ざあざあと音が聞こえそうなほどの勢いで散る花びらの中、やはり気温は春のように暖かい。冬の池に浸かっていると言うのに体が温かく感じてきたのはいよいよ死が迫っているのだろうか。


吹き荒ぶる強い風、視界を遮る薄紅色に目を奪われる。その花びらの隙間に後ろ姿の庵司さんを見つけた。


「待って!行かないでください」


私は必死に手を伸ばす。しかし現実は水の中。体は水中でゆっくりとしか動かず思うように行かないし、叫ぼうと開いた口から水が大量に流れ込んでくる。


「私を置いていかないでください!!」


庵司さんの背中は遠のいていく。私の方に振り返りもせず、歩いて行ってしまう。花びらに隠れては現れ、隠れては現れる。その度に背中は小さくなっていく。


「私もそちらに行きますから、待ってください」


もしかしたらうまく言えていないのかもしれない。聞こえていないのかもしれない。でも口を開けば水が入ってきて苦しい。私は手を伸ばすと言うより溺れているようにバダバタと足掻いていた。


あの日、初めて会った日桜は咲いていたんだろうか。わからない。だから、一緒に春を迎えたかった。黄泉の国で花見でもしましょうね、と会えたら言おう。


その時、愛しい声が私を呼んだ。


「薫子!」


幻の中の庵司さんが私を呼んでくれたのかと、振り返ってくれたのかと私は嬉しくなる。しかし視界は池の中から急激に変わった。


「ゲホッ…」


大量の水を吐き出して、肺に空気が送られる。私は横抱きにされて池から掬い上げられた。着物が水を含んで相当重いはずなのにその人は軽々と私を抱えていた。


「庵司…さん…?」


ぼんやりとした意識の中そこには居るはずのない人が居た。これがもし、死にかけの私の妄想なのならば庵司さんは死へと誘うはずだが、何故か逆方向の池の外へと向かって居た。


「冬の池に入るなど…死にたいのか!?」


その顔は険しくて、汗も滲んで息も上がっている。私の冷たい手足に触れる暖かい庵司さんの体温で生きていると実感した。


「庵司さん…生きて…いらっしゃったのですか」


私は庵司さんの首の後ろに腕を回して抱き締めた。自然と涙が溢れて居た。


「今はそんなこと、どうでもいい」


庵司さんは私を一旦降ろすと自分の上着を脱いで私に被せた。見れば庵司さんは軍服姿のままで、腰あたりまで水に浸かった痕あった。


「冷えるから、早く帰ろう。このままだと死んでしまう」


そう言われた途端、急に寒さを感じるようになった。庵司さんが生きて居た事に気を取られ寒さなど感じて居なかった。でもそれは精神的なもので体はちゃんと寒さを感じて小刻みに震えている。


「帰っても…宜しいのですか」


庵司さんは優しく微笑んだ。


「私達の帰る場所だからな」


公園の近くには車が停めてあった。


「ああ、旦那様お戻りになりましたか…ってえぇ!?なんで濡れてるんですか!?」


運転手が驚いたように私達を見る。


「説明している暇はない、家まで飛ばせ。命が掛かっている」


「はっ…はい!」


車に揺られながら私はこれは都合のいい夢じゃなくて現実なのだと再確認して居た。


「庵司さん…ごめんなさい。馬鹿な真似をしました。私…庵司さんが亡くなったと聞いて…」


もう生きる理由など無かったから。


「ああ、馬鹿だ。大馬鹿だ。本当に私が死んだとして居ても馬鹿すぎる」


「はい」


大丈夫、ちゃんと生きてる。私は庵司さんが私に生きてほしいと望んだと言う事実があれば生きていける。私は自分に言い聞かせるように頭の中で唱えた。

死ななくてよかった。また庵司さんと会うことが出来た。庵司さんが助けてくれたおかげだった。


「理由は後で聞く」


ポツリとつぶやかれた庵司さんの声は怒っているように聞こえた。



******



出迎えられた女中さん達には大泣きされて、すぐに温かい風呂に入れられてその次は暖かい格好で布団に押し込められた。


「私達がどれほど心配したか、お分かりですか?」


厳しい言葉を春海さんからかけられた。


「ごめん…なさい。私…ここに居てはいけないと思って…生きて居ては…いけないと思って」


「そんなことあるわけ無いじゃ無いですかぁぁぁぁあ」


鼻水を垂らしながらえんえんと泣くおりんさんに、同じく嗚咽を漏らすおけいさん。そして陽子さんまでもが涙ぐんでいた。物凄く申し訳ない気持ちになる。


「私は生きていけないんです」


気力がなかった。水のない魚のように、親鳥から餌を与えられない雛のように。私は庵司さんがいないと生きていけなかった。あの時までは。


「でも、もう大丈夫です。庵司さんが望むなら私は生きていけます」


たとえこの先一人になったとしてもこの事実に支えられて私は生きていける。そんな気がする。


襖が開かれる。そこには庵司さんが立っていた。女中さん達は気を利かせてか皆部屋を出て行く。


「庵司さん、これは夢ではありませんよね?あの世でもありませんよね?」


手を伸ばすと、その手は大きくてゴツゴツとした手に包まれる。


「ああ。現実だ」


その手の温もりが私に現実だと訴えかけて居た。


「実際に左胸は撃たれたが、心臓から僅かにズレていた。死亡の誤報は敵に私が死んだと騙させる為だったが、此方にも間違って来てしまったようだ」


本当に死の淵を彷徨ったらしい。医者からも助かる見込みはないと。でも庵司さんは奇跡的に生き返った事を教えてくれた。


「死にかけた時、貴女の声が聞こえた。貴女が助けてくれたんだ」


「私は何もしておりません。ただ庵司さんの後を追うことだけを考えた馬鹿な女です」


「生きていてくれて、良かった」


庵司さんは両手で私の手を包む。私もその手に空いていた片方の手を添えた。


「庵司さん、私の名前…呼んでください」


あの時、たしかに庵司さんは私の名前を呼んでくれた。


「薫子」


甘く、そして冬に密かに咲く花のように冷たい、とにかく清廉な香りを連れてそれは訪れた。具体例を上げるとするならば近いもので薄荷のような茉莉花のような、そんな香りと共に。唇に柔らかいものが触れていた。


顔に熱が集まるが、私は不快な気分になることは無かった。この幸せがずっと続きますようにと願うほど。



******



随所に差し込まれた朱色が美しい白無垢。口紅で彩られた唇が美しい笑みを作る。鈴のような玲瓏な声だった。真っ直ぐで艶やかな黒髪、透けるような白い肌、物憂げにも見える大きな瞳。

長い睫毛は瞬くたびに音がしそうで肌に影を作っていた。かちりと透徹したような触れ難い美貌だというのに、微笑むとまだ少女の年頃だが、不釣り合いなほどの色香がある。


名前は狐塚薫子。これから小鳥遊の姓となる。



三々九度の盃を交わした。朱に塗られた三つの器を三度傾け三度飲む。隣には庵司さんがいる。それだけで私の心は幸せだと踊るし、安心する。

庵司さんの胸元に仕舞われているのは比翼の鳥の刺繍が入ったハンカチ。その刺繍の鳥のように仲睦まじく生きていければと願う。


あの小鳥遊家の結婚式だと言うのになんとも規模が小さいものとなった。庵司さんと私もあまり盛大なものを望まなかったし、私には花嫁行列どころか挙式自体に参加してくれる親族が誰もいない。


だから、幸司さんと響子さんと翔吾さんと美琴さんと私達だけの小さな式である。

雅楽の調べに合わせて奉納される巫女舞。巫女達の前天冠や鉾鈴が綺羅々々と光っている。もう式も終盤に差し掛かっていた。


私達は神社を出る。眩しい陽光が差し込み、私達の門出を祝ってくれているようで私は目を細めた。その時、ポツリと雨が一粒降ってきた。空は晴れているのに雨が降っている。


「雨…ですね」


私はそう呟いて隣にいる庵司さんの方を見た。


「不吉ではありませんか?」


「いや、これは縁起がいい」


なんでも、嬉し泣きを表しているそうだ。天気雨、別名狐の嫁入りという。


(ただの狐じゃなくて、女狐の嫁入りよ)


女狐と蔑まれた過去は遠い昔のように思える。私は心の中でクスリと笑った。大丈夫、生きていける。大丈夫、歩いていける。庵司さんが隣にいるから。

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