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二十三話

帰ってきた私を心配そうに女中さん達は見ていた。でも声をかけることはせず見守るような。多分、慰められたらまた泣いてしまうと思ったから話しかけてこないのはありがたかった。


自分に与えられた部屋に入り、パタンと襖を閉じる。部屋に入り庵司さんから貰ったもので溢れかえっていた。一つ一つに思い出があり、その姿を視界に入れると涙が溢れてしまうため私は何も見ないように下を向いて、畳まれた布団を引っ張り出すとそこに顔を埋めた。


浮かび上がってくるのは「お前みたいな女狐は周りを不幸にするのよ、早く死になさい」という姉の言葉。私は生きているだけで周りを不幸にする存在だと私の頭の中で響く。


(そうか。私のせいで不幸になったんだ。だから庵司さんは亡くなったんだ)


私なんかが幸せになろうとしたから。私なんかが庵司さんの傍にいたいと願ったから。だから不幸になったんだ。私は幸せになんかなっては行けない虐げられ蔑まれる存在なのだから。


全部私のせいだ。私が悪いのだ。私のせいで周りが不幸になる。


自分のせいで周りが不幸になるなんて自意識過剰もいい所なのかもしれない。でもずっと私は周りを不幸にするのよと言われ続けた環境で育った私には、絶対に私のせいだと思い込んでしまった。


一度思えばそうとしか思えなくなっていた。これは私への罰なのかもしれない。汚らわしい女狐が庵司さんという素晴らしい方の婚約者の座に居座っていた罰。


いくら悲しんでも、いくら後悔しても。庵司さんがいなくなった世界の時間は無情に進んだ。この家で待っていれば庵司さんが帰ってくるかもしれない…そんな気がしてならなかった。


しばらく、心が伴わない生活が続いた。もう帰らない人を待つ虚しい日々。景色は灰色で、音は雑音で、感情は空っぽだった。

ただ何も考えずに私は渡せるはずもないハンカチに刺繍を施していた。何故かわたしはこの刺繍を完成させなければならない焦燥感に駆られていた。


庵司さんは帰ってこない。生きて…どころか死体ですら帰ってこない。持ち帰れる状況ではないことは容易に想像できたが、何も帰ってこないのは残された者達にとってあまりにも辛すぎる。


「あ…」


そう、声が漏れた。針は私の指に突き刺さり、血が垂れている。慌てるわけでもなく私はそっと針を引き抜いた。空虚な日々は昔の絶望に彩られた日々に似ていた。


もう痛みも感じなくなっている。段々と感覚が鈍くなる。生に執着しなくなる。あの時、父が死んだ日。姉の言う通り私は火に飛び込めば良かったのだろうか。

あの時死んでいれば私は庵司さんの優しさに触れることはなかった。失う悲しさを知ることはなかった。


「庵司さん…私、弱いです」


空っぽな日々の中で久々に零れ落ちてきた涙。


「庵司さんがいないだけで急に駄目になってしまいます」


それは誰に向けた懺悔だったのだろう。庵司さんはいない、神も仏もいない。この状況で存在を信じられる気にもなれない。


「私は庵司さんのいないこの世で生きていく自信がありません。面倒臭い女です」


私は恐れているのだろうか。ーー何に?庵司さんとの結婚が無くなってまた借金を返す日々が始まることを。ーー違う。私は借金を肩代わりしてもらえるからという理由で庵司さんとの結婚を望んだわけじゃない。

確かに私にとってこの結婚は破格の申し出だった。借金がなくなり、贅沢な暮らしができて、小鳥遊家の嫁という立場を手に入れることができる。


でも違う。そんな事じゃない。庵司さんがあの優しい庵司さんならどんな境遇であっても私は同じことを願っただろう。


ただ傍にいさせてくださいーーと。



******



『今まで大変お世話になりました』


たったそれだけの文を残して私は屋敷を出た。持ち物は僅かなお金と小鳥の番いを刺繍し終えたハンカチ。身につける衣服は庵司さんから貰ったものではない以前から着ていた古着とも呼べぬ着物。


庵司さんから頂いたものを持って出ていくのはなんだか財産を持ち逃げしているようで気が引けた。というかもう私にはそんなもの必要ないのだ。


まだ皆が寝ている朝早くに出たので誰も私が屋敷を出ていくことに気づかなかった。これでよかった。あの人達は優しいから引き止めてくれただろうがこの屋敷に留まっていてもわたしの居場所はない。


庵司さんと結婚しない私は小鳥遊家にとって邪魔者以外の何でもないから。


私は庵司さんとの思い出の場所を巡った。今度は一人で。庵司さんと訪れた店や神社。どこを探してもそこに庵司さんはいなくて。

日が昇り、人通りが多くなる道で私はその人混みの中に庵司さんがいないかと探していた。背格好が似ている人を見つけては顔を確認する。勿論、いる訳もなくわたしは毎回小さく落胆する。


庵司さん、庵司さん、庵司さん。何処にいらっしゃいますか?


何処にいるかは…本当はわかっていた。ただこの世にいないだけ。庵司さん、貴方だけがいない。


「すぐ戻ってくる」


庵司さんの言葉が頭に響いた。戻ってこなかったではないか。


「庵司さんは…嘘つきです」


頬を伝う涙が地面に落ちて染みを作った。もう何度泣いたのだろうか。涙が枯れてしまうのではないかと思うほど泣いた。声が潰れてしまうほど泣き叫んだ。それでも、まだ足りない。


急に泣き始めた私を変な目で見ながら人は通り過ぎていく。気にせずわたしは涙を拭いながら歩いた。涙を拭っても拭っても溢れ出してくる。


会いたいです。でも会えない。声が聞きたいです。聞けるはずがない。もう一度、貴方の手に触れたいです。手を繋いで色んな所に出かけましょう?それはもう実現が出来ない。


再び、あの屋敷に帰ってきてくれませんか?庵司さんがただいまと微笑み、私がお帰りなさいと出迎えるんです。今日は庵司さんの好物にしましたよと私が言いたいのです。


日頃の感謝を込めて、ハンカチに刺繍をしました。小鳥の番いです。私達二人を表して見ました。少し、恥ずかしいですね。


あの、馬鹿にせずに聞いてください。はしたないと庵司さんは顔を顰められるかもしれませんが、抱きしめても…よろしいですか?手を繋いだことはあっても抱擁を交わした事はなかったかと思います。


何も出来ない。何も叶えられない。庵司さんがいなければ何も。ふらふらと揺れる体は病人のよう。古い着物に艶のある髪はチグハグだっただろう。


そして最後に訪れたのは庵司さんと訪れた大きな池のある公園だった。あの頃とは違い植えられた木は葉をつけておらず何処か寂しい。人も居らず、静かに風が池の水面に小さな波を作っていた。


(舟に乗るか、と庵司さんは仰ったのよね)


まるで遠い昔のことのように感じてしまう。そしてここにもやはり庵司さんの姿はなく、わたしが思いつく限りの思い出の場所は巡り尽くしてしまった。探しても居るわけがないというのに。


「何処にも…居ないんですね」


何度現実を叩きつけられても、心の何処かではまだ生きているのではないかと信じていた。何度希望を打ち砕かれようともその度に繕って…でももう駄目なのかもしれない。


諦めて前に進むべきなのかもしれない。前に進むなんてなんて素敵な響きだろうと周りは言うかもしれない。それは素晴らしいことだと。だけど私にとっては大事なものをその場に全て捨てて、またかつての地獄を歩いていかなければならないことだった。


庵司さんが居ないのならばかつての地獄よりも酷いかもしれない。


しばらく景色を目に焼き付けて、そして人が居ないのを確認して。私はゆっくりと池に足を浸けた。冬の池は凍るとまでは行かなくとも感覚を奪うくらいには冷たい。


一歩、また池に踏み入る。着物が水を含み体温を奪っていく。自殺行為に等しい行いをしたのは何故か。


私は死ぬ事にした。

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