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二十一話

清廉、謙虚。実際に会った狐塚薫子という人間はそんな言葉が似合う人物だった。

自分で選んでおきながら庵司は疑っていた。実はその謙虚さは演技なのではないかと。今まで婚約してきた女性は皆、我儘でいやむしろ傲慢だった。


その仮面の下に隠しているのは傲慢さなのか、又は別の何かなのか。


車から降りる際に足を捻ったであろうにそれを隠し何でもないように振る舞う姿は本当なら健気だが心配。演技ならば憎たらしい。


「大丈夫です。歩けます」


その声は痛みに耐えているのか少し震えていた。


着物や洋服を与えた時も彼女は自分には勿体ないと受け取ろうとしなかった。普通なら喜んで受け取りそうな物を。実際に今までの女性達は贈り物を喜んでいた。

貧しい暮らしを味わった後なのだ。豪華な生活は嘸かし懐かしく嬉しい物だろうと思ったのに。


わからなくなった。狐塚薫子という女性が。庵司の知る女性と全く別の行動をしてくる。しかし、今まで貧乏な暮らしから急に贅沢な暮らしに変わったのだ。欲が出てくるに違いない。小鳥遊家を食い荒らす狐になりはしないかと疑った。


「そろそろ化けの皮を剥がすといい」


その下に隠しているのは、庵司が落胆する傲慢さなのか。それとも本当に謙虚さなのか。庵司は薫子の事が本当にわからなくなった。

だから教えて欲しかった。知りたいと思った。その行動が相手を傷つけてしまうと知らずに。


庵司は寡黙であまり喋らない。その為喋る時は少し直接的な言い方になってしまうことは良くあった。自分でも悪い事だと元婚約者達の件で分かっている。

治そうとはしているのだがこの時は薫子に対する探究心が勝った。


「ばっ…化けの皮…」


彼女はそんなものありませんと目で訴えていた。薫子の過去を知った時、彼女の正体は卑屈さだったのだと知った。誰からも蔑まれ虐げられて存在を否定された彼女が、兄との劣等感に苛まれ存在意義を失いかけた自分と重なった。


実際は比べるまでもなく彼女の方が酷い境遇にあった。はじめは同情した。全ての違和感の謎が解き明かされて…そして信じられないと思いながらも何処か納得している自分がいた。


しかし生活を共にしているうちに同情ではなく別の感情がある事に気がついた。最初に見た時と似たような感情が。


変わろうと努力している姿を見て、同情するような存在ではないと気づいた。むしろ同情する方が失礼だった。過去を思い出しては震えているというのに必死に過去に向き合おうとしている。


一人で歩き出してしまった彼女を見て、もう自分の庇護下にはいないのだと少し寂しくも感じた。しかしそれは対等になっていくのと同じ事。どちらか一方に依存したりするよりはよほど良い。



着物の袂を動きやすいように紐で縛って、前掛けを腰に巻いているその姿。トントンと規則正しい包丁とまな板が当たる音が聞こえる。


「庵司さん、どうされました?まだご飯は出来ていないんです」


まな板で野菜を切り終わると彼女は振り返ってそう言った。


「いや、様子を見にきただけだ」


「旦那様〜、お嬢様の料理楽しみにしてるんじゃないですか〜!」


ニヤニヤとしながら同じく台所で釜で米を炊いていたけいが笑う。彼女は鍋に味噌を溶かし、煮立つのを待つだけになったのか、前掛けで手を拭うと被り物を解いた。

以前は艶のない髪が今や椿油で輝きを放つ黒髪が露わになる。見惚れてしまうほどの美しさに息を飲む。


「旦那様、いつまでも台所の入り口に突っ立っておられては邪魔ですよ」


後ろから春海がやって来てそう言った。自分でも彼女を見つめていた事に気づき内心慌てながらその場を後にした。彼女を一目見たくて台所に行くなんて、昔彼女を一目見るために公園に寄っていた事と同じような事をしていた。



少し眩しい日差しの中、縁側に座って新聞を読んでいた庵司の視線の先は新聞ではなく、洗濯物を干している彼女の姿だった。

先程までは大きな桶の中に洗濯物を入れ裸足になってバシャバシャと水を跳ねさせながら洗濯物を踏んでいたが、今はそれを物干し竿に干している。


「今日は洗濯物がよく乾きそうですね」


女中達と談笑している彼女の髪は陽子の気合いが入ったのか複雑な編み込みになっていた。


「今日の夕食は何にいたしましょうかね」


そこにやって来た春海が彼女に尋ねる。


「茄子がありましたよね。茄子を焼くのはどうでしょう」


「あっ、それいいですね!味噌…?生姜醤油?じゅるり…」


同じく洗濯物を干していたりんが涎を拭う。庵司の頭の中にも油の染み込んだ茄子に砂糖を加えた甘辛い味噌を絡めた料理が浮かび上がっていた。


(彼女が作るのなら…さぞ美味いのだろう)


彼女が初めて作った料理の味が舌の上で蘇る。


「鰹で出汁をとったお吸い物と南瓜と豆の煮物も作りましょうか」


夏の日差しが彼女を眩しく照らす。庵司は目を細めて彼女を見つめた。



「お帰りなさい、庵司さん。この落ち葉で焼き芋でもしようかと考えていたところなんです」


玄関前の落ち葉をせっせと竹箒で掃いている彼女の姿があった。紅葉柄の蜂蜜色の着物を着て、髪は上品に結われている。黒髪には落ち葉の紅が映えていた。


「髪に落ち葉がついているぞ」


そう言うと彼女の顔は紅葉にも負けないほど赤くなった。


「えっ!ど…何処でしょう?」


「取ってやるから動くな」


触れれば消えてしまいそうな儚さを残した少女の髪に手が触れる。そっと手袋越しに落ち葉を掴む。


「取れたぞ」


「ありがとうございます、庵司さん」


ふふっと微笑むその笑顔を誰にも渡したくないと思った。愛おしさに似た感情が込み上げて、守りたいと思う。誰にもその姿を見せたくないとすら思う。

ずっと自分の前だけでその花は咲いていて欲しい。その美しさを堪能できるのは自分だけであって欲しい。自分のものにできるのは来春。それが気が遠くなりそうなほどの長さだと今気づいた。



雪の降る日。


「庵司さん、お茶を入れました。冷えるでしょうから」


彼女が持ってきた盆の上には二つの湯呑みと薄黄色の茶が入っていた。


「ああ、ありがとう」


湯飲みを受け取ると少し冷ましてから飲む。隣に彼女は座り、両手で湯飲みを包み込むように持つとふーっと息を吹きかけた。そのまま飲もうと口をつけた時に熱っ…と小さく零した。


「大丈夫か」


「はい、少し舌を火傷してしまいました」


彼女は猫舌だ。その過去の境遇から冷めた食事しか口にしてこなかったのと、家が火事になって負った火傷から熱いものに苦手意識を持っているように思えた。


その横顔に影がかかる。徐々に変わり始めた、それはいい事だ。だが自分は何の助けにもなっていない。彼女の変わるきっかけに自分は含まれていない。

きっと女中達が彼女と仲良くしてやったのが彼女が変わるきっかけなのだろう。そこに自分が含まれていない疎外感や寂しさがあった。


小さな体でどれだけ辛い過去を背負っているのだろうか。彼女の姉が訪ねてきた時、その片鱗を垣間見た。吐き慣れた暴言、受け慣れた嘲笑。

酷く醜いその姿から彼女を貶める言葉を紡がれるのが許せなかった。努力を知らないくせに、彼女といる時間は自分より長かったはずなのに何も知らないのだなと。


そもそも何故妹を虐げた。気に入らなくても犯してはならない一線がある。その責任の重大さを姉はわかっていなかった。


彼女の受けた傷は深い。彼女の苦しみの一部すらもまだ姉に与えられていない。ただ彼女は自分の婚約者としたかった男に怒鳴られ逃げただけ。


彼女の受けた暴力、罵詈雑言、嘲笑は?何一つ知らない。知らないくせに自分は平気でそれらを使う。許せないと感じたと同時に彼女は強くなったと感じた。今まで逆らえなかった姉に初めて逆らった。

それはどれほどの勇気がいるのだろう。わからないが、わかりたいと思った。



どうして、懐かしいことばかり思い出すのだろう。しかも彼女のことばかり。これが走馬灯というものか…と心の何処かでわかっていた。


「少佐、少佐!」


部下達の声も遠く聞こえる。深い水底へ沈んでいくような感覚だった。左胸からはゆらゆらと血が流れている。思い出せ、自分は何故こうなったか。


国境の町で両国の住民同士の衝突があり、それに駐屯していた両国の軍人が介入しそれを鎮圧する為に派遣されたのが庵司率いる部隊で…。そこは戦場と化していて。しかし現状の把握などどうでもよくなっていた。


「庵司さん、庵司さん」


愛しい声が聞こえる。しかしここに彼女はいないのだから幻聴に過ぎない。目の前には純白の花嫁衣裳を身に纏った彼女がいた。


「庵司さん」


薄紅色に染まる柔らかい唇がその名前を紡ぐ。


「最後に貴女の声が聞けてよかった」


愛しい声を響かせながら庵司はゆっくりと目を閉じた。

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