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十九話

その日はいつも通りの日だった。いつも通り、朝食の準備をしていた。だし巻き卵に大根おろしを乗せて、胡瓜の漬物を盛り付ける。鍋の蓋を開ければ豆腐とわかめの味噌汁の香りが台所に広がった。

少しでも見栄えがいいように鮮やかな色合いの皿を使う。華やかに見えるように気を使って。同時に弁当箱にもおかずを詰める。


庵司さんと共に朝食を取ってお弁当を渡しお見送りする。そのあと本邸に向かって美琴さんから淑女教育のやり直しを受けて家に戻る。

乾いた洗濯物を女中さん達と一緒に取り込み、後は部屋で美琴さんに習ったことの復習をしていれば夕食の準備をする時間となる。


今日はいつもより早く、庵司さんが帰ってきた。私は嬉しくてつい顔が緩んでしまったが庵司さんの顔は険しかった。


「庵司さん、おかえりなさい。今日は早かったですね」


上着や帽子を受け取ろうとしたが、庵司さんは一向にそれらを脱ぐ様子がなかった。


「庵司さん?」


そこで庵司さんの様子がいつもと違うことに気がついた。恐る恐ると言った感じに話しかける。


(何かあったのかしら)


「庵司さんどうされたのですか?」


「戦場に行く事になった」


えっ…と言葉が漏れる。私は理解するまで随分時間がかかった。正確には理解できたが受け入れたくなかった。何かの間違いだと言って欲しかった。


庵司さんは軍人なのだからこういう展開も予想しておくべきだった。軍人の妻になる身であるというのに。


「い…行かないで……ください」


震える声で手を伸ばす。まるで捨てられた子供みたいだった。


「それは…出来ない」


苦しげに庵司さんは首を振った。なんで我儘なことを言ったのだろう私は。なんて理解のない婚約者なのだろう私は。戦場…何処へ?庵司さんは何処へ行ってしまうの?


「何処へ行かれるのですか?」


「国境で隣国と衝突があった。それを収めるために向かう。大丈夫だ、前線に出るわけではない」


庵司さんはそれなりに立場のある方。庵司さんの言う通り大丈夫なのかもしれない。でも心配である事に変わりはなかった。


「すぐ戻ってくる」


庵司さんはそう言うとまた車に乗り込んでしまった。帰ってきたわけではなく、顔を見にきただけのよう。私は茫然と立ち尽くし、行かないでと言いかけた言葉を飲み込んだ。


(失望されてしまったかもしれないわ)


どうして私は物分かりが良くないのだろう。さっきの場面は潔く見送るべきだったのに。


「お嬢様、旦那様が帰られたのですか?」


台所から出てきた春海さんが来てくれた。私は玄関に蹲ると泣き出してしまった。やっぱり庵司さんに危険な場所に行って欲しくなくて…でもそれは叶わない。


「お嬢様、どうなされたのですか!?」


私の泣き声を聞いたのか他の女中さん達も出てきた。


「あっ…庵司っさん…がぁっ」


嗚咽混じりの私の言葉を女中さん達は背中をさすりながら聴いてくれた。あの大きな背中が段々と小さくなって見えなくなる。もしかしたら本当にそれっきりになってしまうかも知れない。それが凄く怖かった。

戦場に行ったら亡骸すら帰ってこないという話も聞いたことがある。庵司さんがいなくなってしまったら…私は…私は…どうすればいいのだろうか。


「しっかりしてください、お嬢様!」


ピシャリと春海さんの厳しい声が聞こえた。


「貴女は軍人の妻になる方です。しっかりしてください」


ハッと私は顔を上げる。こんな事では私は一生お義母様に認められるはずはないと。庵司さんからも見捨てられてしまうと。考えれば簡単にわかった。私は軍人の妻になろうとしていたのだ。


「ありがとうございます春海さん。少し気が動転していました」


それなのに覚悟が足りていなかったのだ。私が傍にいたいと望んだ人は国のために命をかける軍人だと。取り乱してはいけない、気をしっかり持たないと。


そこからはいつも以上にいつも通りを心掛けた。庵司さんが欠けた日常は私を空虚にしていく。何かが決定的に足りない、その何かはわかっているが帰っては来ない。


庵司さんの分の食事やお弁当を無意識に作ろうとしてしまう。その度に女中さん達に止められる…の繰り返しだ。


(庵司さん、ご無事なのでしょうか)


庵司さんは指揮官のような立場だと聞いている。指令を下し、後方にいる。危険は少ないように思えるが戦場では何があるかわからない。


手紙は頻繁には来ないが、偶に来る。庵司さん曰く毎日でも出したいそうだが状況が許さないそうだ。その手紙だけが私の心の拠り所だった。今日も届いた手紙を折りたたみ、胸に押し当てる。


「早く帰ってきてください」


そう願っても叶わないのは知っていたが願わずにはいられなかった。本当にあの時、私は庵司さんに失望されてしまったのか答えは聞けないまま戦場に行かれてしまった。


(帰ってきたら素直に送り出せなかったことを謝ろう。軍人の妻となる身として相応しくない行動だったわ)


手紙を仕舞うと私は本邸へと向かう準備を始めた。美琴さんが休みと指定している日以外毎日、私は美琴さんから指導を受けている。

花嫁修業を始めてもうかなり経つが私の態度はまだ自信の無さが付き纏うらしい。


(今、姉や桐ヶ谷さんが来たら私は堂々と対応出来るのかしら)


あの時近くには庵司さんがいた。今はいない。完全なる一人で過去に立ち向かったことが私にはいない。いつも傍に安心できる人達がいた。


本邸に着くと本邸の使用人達に出迎えられる。今日は偶然にも響子さんと出会した。響子さんは多分、わたしが来るのを知って毎回避けている。なので出会したことに少し驚いた。


「こんにちは、お義母様。お邪魔します」


「こんにちは、薫子さん。少しお話ししないかしら。美琴さんには言ってあるから」


尋ねるような尋問するような口調だが有無を言わせない雰囲気があった。響子さんの中で私とお話しするのは決定事項のように扱われているとすぐに感じた。


「分かりました」


いつもと違う廊下を通り、いつもと違う客間に通される。洒落たシャンデリア、壁紙は緻密な花模様、床には深紅の絨毯が敷いてある。


「薫子さん座って」


「失礼します」


前にもこうして向かい合って座ったな…と思い出していた。


「貴女の努力は美琴さんから聞いています。態度も改善されたようね」


「あ…ありがとうございます」


また何か相応しくない理由を挙げられるのかと身構えていた私は響子さんの口から称賛の言葉が出たことに驚いた。


「その努力は認めましょう。でもね」


急に響子さんの目が厳しくなる。まるで初めて庵司さんと会った時のような緊張感に私は固まる。


「女中の真似事をしているのは小鳥遊家の嫁として…どうなのかしら」


「お義母様は私が女中の皆様と共に家事をする事を一切辞めろと仰るのですか?」


「小鳥遊家の嫁として相応しくはないわ」


私は下を向いてしまいそうになった。前と同じように、はいわかりましたと答えてしまいそうになった。その方が傷つかないし楽だ。

姉に暴力を振るわれ、蔑まれる時と同じ。申し訳ありませんと言えば済む。同級生達に虐げられる時と同じ。申し訳ありませんと言えば済む。


だけど


「私は…私は、旦那様の為に料理を作り洗濯をして掃除をします。それが、妻というものだと思っています。それが私なりの相応しい妻だと思っています」


響子の反応を見るのが少し怖くて、すぐに言葉を続けた。


「庵司さんは許してくださっています。だから…私は女中の真似事だと言われても…家事を続けたい…です。たとえ小鳥遊家の嫁として相応しくなくても庵司さんが必要としてくれて…庵司さんの妻として必要なら私は続けます」


最後の方は自分でも何を言っているのかわからなかった。慣れない反論というものをしたからだろう。多分、わたしの言いたいことの半分も伝わってはいないと思う。


「薫子さん…変わったのね」


驚いたように響子さんがポツリと零した。


「前の貴女なら私が言うなら辞めていたように思うわ」


フッ…と響子さんの顔が優しくなった。


「薫子さん、厳しい言葉をかけた私を許してね」


「いえ、お義母様の言うことは正論でした」


私は…響子さんに認められたのだろうか。


「あの…お義母様、私は認められたという事でよろしいのでしょうか」


「ええ、認めましょう」


もうその顔に厳しさなどなかった。そこにはまるで母親のような優しく顔があるだけ。母親を知らない私だが、母親とはこういうものなのかと思った。


「薫子さん…こんな事頼むなんて図々しいとは思うのだけれどね…。料理を教えてくれないかしら。」


恥ずかしそうに響子さんは顔を赤らめる。


「実家でも料理人が料理をしてね…厨房には入れてもらえなかった。女学校でも料理の成績は全然駄目で。貴女の決意を聞いていたら…私も主人に何か料理を作ってみたくなって」


「その…すごく素敵だと思います。私で良ければ是非」


響子さんと急に距離が縮められた気がして私は嬉しかった。本当の母娘みたいで。


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