十七話
「庵司さん…お帰りになっていたのですか!?」
家に帰ればそこに今の時間はいるはずのない人がいたので私は驚いた。軍服姿ではないのでつい先ほど帰ってきたというわけでもなさそうだった。
「早く仕事が終わってな」
「そうでしたか。お出迎え出来ずに…申し訳」
そこで言葉は遮られた。
「謝らなくていい。それに出かけていたのだから出来なくて当然だ。伝えていなかったのが悪いのだから」
そう言って庵司さんは自室に入っていった。すぐ謝る癖も治さなければと思案しながら私は自分の部屋に向かう。部屋の前には女中さん達全員が揃っていた。
「皆さんどうされたのですか」
「私達、お嬢様に早くお見せしたくてうずうずしていたんですよ」
おりんさんがそう言って早く部屋に入るように促す。私は何かしらと思いながら襖を開けた。部屋には純白の世界が広がっていた。私はしばらく何が起こっているのかわからず部屋の前で固まってしまった。
繊細なレースの純白のヴェール、真珠の耳飾りと首飾りに純白の手袋。純白の踵が高い靴。そして純白の艶のあるドレスが置かれていた。部屋に入って震える手をドレスに伸ばす。触れるとそれが上等な絹で出来ていることがわかった。
「これは…花嫁衣裳?」
私はポツリと呟く。まだ喪中であり結婚までの時間はあるはずだ。
「あのっ…これは一体」
「そんな事は後です!さぁ着替えましょう」
そう言って部屋の外で待っていたおけいさん達が化粧道具を持って入ってくる。
「今から着替えるのですか?もしかして今から結婚なのですか!?」
もう少し時間が欲しい。切実に。庵司さんと結婚するのは嫌ではないけれど、心の準備がまだ出来ていないのだ。
「私、まだ心の準備が」
そんな私のことなどお構いなしに女中さん達は私の服を脱がせてドレスを着せてくる。ドレスは私に合わせたかのようにぴったりだった。もしかするとこうやって着付けをしている際にこっそり測られていたのかも知れない。
純白の手袋に手を通し、ヴェールを被る。薄く白粉と紅を引いた顔は少しの緊張と恥ずかしさで紅潮していた。
「もしかして庵司さんが今日早く帰られたのって…」
「はい。作らせていたドレスが届くからですね」
陽子さんがそう言いながらズレたヴェールを直す。
「旦那様、お嬢様の為にこっそり用意されていたんですよ。ただ自分は恥ずかしがって自室に引っ込んじゃいました」
「おりん、旦那様が隠そうとされたこと全部話すのね」
呆れたようにため息をつきながら陽子さんは呟いた。その様子に私はクスッと笑ってしまった。
「あっ、お嬢様が笑った!」
おけいさんが声を上げる。
「確かにお嬢様の笑顔を見るのは案外初めてかも知れませんね」
笑いながら春海さんもそう言った。
「私、そんなに笑わなかったでしょうか」
笑うように楽しいことなど今までなかった。笑えば姉の機嫌を損ね、泣いても機嫌を損ねられた。私に感情を持つ事は許されていなかった。
「そうですね、なんと言いますか作り笑いのようなぎこちなさが残っていました」
春海さんにそう言われ、今までの顔は相当見苦しいものだったのかと不安になる。
「表情と言えば、旦那様も変わられました」
おりんさんが化粧道具をしまいながらそう言った。
「確かに今までの無表情からちょっと変化しましたね」
おけいさんも頷く。
「お嬢様が来られてからですよ」
陽子さんの言葉に私は目を瞬かせた。
「私が来てから…?」
最初はなんてぶっきらぼうで無表情な人だろうと思った。それでもこの人の妻としてやっていくしか道はないのだと思った。不器用な優しさに触れた。この人は私に初めて暖かい優しさをくれた人だった…許されるなら一生ついて行きたいと思った。
「お嬢様が来られてから旦那様は変わられました。きっとお嬢様が良い方向に旦那様を変えられたのですよ」
ドレスの裾がずれていたのを直して春海さんはそう答えた。
「私は…何もしていないです」
庵司さんが変わるような事、何もしていない。何も返せていない。溢れるほど頂いた恩を何一つ私は返せていないのに。
「そんな事ないです、お嬢様は料理や掃除など家事を色々してくださったではありませんか!」
おりんさんがぶんぶんと手を振って否定する。
「この前だって『帯がほつれていたから修繕いたしました』って使用人の私に気を使ってくださったではありませんか」
陽子さんまでそう言った。
「あ…あの時は勝手にしてしまい申し訳ありません」
「私は嬉しかったですよ、お嬢様」
(嬉しい…?)
私の行いが誰かを喜ばせていたなんて信じられなかった。そんなの、私の方がよっぽど与えてもらえた。他でもない貴女達に。
「ああっ!お嬢様、お化粧が崩れちゃうので泣かないでください」
おりんさんがハンカチで私の涙を拭く。それでも涙は溢れてハンカチを大分湿らせ、化粧を直さなくてはならなかった。
「お嬢様、早く旦那様に見せにいってください」
女中さん達に送り出され、私は庵司さんの自室へと向かっていた。廊下に響くコツンコツンという靴の音。家の中で靴を履くなんて抵抗があったが新品の汚れ一つない靴だと床を汚す心配はなかった。
「旦那様、薫子です」
私は襖に手をかける。
「入れ」
いつか見たやり取りが行われる。
「失礼いたします」
「まさか、受け取れないなどというつもり…」
そこから先は庵司さんの言葉が紡がれる事はなかった。文机から視線を上げた庵司さんは私を視界に映してそのまま微動だにしなくなった。
「あの…庵司さん。素敵なドレスを…ありがとうございます。結婚は…まだ先だと思っていたのですが」
庵司さんにまじまじと見られて照れてしまう。顔を赤くしながら私は言葉を途切れ途切れに口にした。
「いや…その…」
庵司さんは口元を手で覆い、先程まで私を見ていた視線を逸らす。
「結婚する際は神前式になるからな…。白無垢はその時見られるとして、ドレスは見られないと思った」
庵司さんはそう言いながら小さな箱を取り出し、私に差し出した。私は何だろうと思いながら箱を開ける。
「……っ!」
言葉につまり声にならない声が口から零れた。中には耳飾りや首飾りと合わせた真珠の指輪が入っていたのだ。
「庵司さん…これは」
「婚約…指輪だ」
私は信じられないと目を見開く。私の手に乗っているのは本当に婚約指輪なのかと。いえ、疑うなんて庵司さんに失礼だ。
「その…強引に婚約してしまったからな。改めて言う」
こほんっと庵司さんは咳払いをした。私も唾を飲み込む。
「改めて結婚して欲しい」
ポロポロと涙が溢れる。せっかく化粧を直して貰ったのにまた崩れてしまう。
「庵司さんが許してくれるならどこまでも傍にいたいです」
照れていたことも忘れて、私は心の内を曝け出した。庵司さんの為ならどんな事でも出来る。私達の道は一つでありたい。
「庵司さん、ありがとうございます。こんな私を選んでくださって」
まだお義母様にも認めてもらえていない未熟者の私が。過去に縛られたままの私が。今もまだ多くの人から蔑まれ憎まれている私が。
こんなにも幸福になっていいんでしょうか。私は許されるのでしょうか。私は庵司さんを愛する資格があるのでしょうか。
「庵司さん、私を婚約者にしてくださって本当にありがとうございます」
私はずっと庵司さんについていくと決めた。たとえ暴力を振るわれようとも、蔑まれようとも、死ねと言われれば死ぬでしょう。
「ああ。傍にいてくれないと困る」
生きろと言われれば生きて、傍にいろと言われればずっと傍にいます。
「離れる気などありません」
庵司さんは貴女の作るコロッケが食べたいと零して笑った。




