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十六話

姉を追い払う勇気を手に入れた私だが、人はすぐには変われないということを痛感していた。あの日から数日はまた姉が来るのではないかと怯えていた。私の部屋の鏡台の前で自分を見つめながら唱える。


「大丈夫、大丈夫」


私には庵司さん達がいる。あの時のように抵抗できない一人だけという事はない。そう言い聞かせても、辛い記憶が蘇って泣きそうになってしまう。

過去の記憶はふとした瞬間に蘇るのでそのたびに身動きが取れなくなる。早く乗り越えなければお義母様に認めてもらえないのに。


(庵司さんは無理しなくていいと仰ってくださったけどやはり過去に縛られたままの婚約者なんて嫌よね)


過去の辛いことを全て打ち明けた時、庵司さんは優しく寄り添ってくれた。辛かったな…とかよく耐えた…とか声をかけてくれた。全てを忘れて…とまでは切り替えれなかったがそれでも随分楽になった。


「お嬢様、薬の時間ですよ」


おりんさんの声で私は振り返り、どうぞと声をかける。薬とは私の身体中にある傷を目立たなくするために塗り始めたものだ。身体中の傷のことを打ち明けた時、庵司さんが薬でどうとでもなると提案してくれたのだ。

「別に傷があろうと気にしない」と庵司さんは言ってくれたが私は少しでも綺麗な婚約者になりたかった。それが自信につながるような気がした。


「おりんさん、よろしくお願いします」


そう言って私は着物を脱ぐ。私の体に綺麗な皮膚と呼べる箇所は存在せず、切り傷跡や痣。火傷の跡がほとんどを占めている。


「痛かったら言ってください」


傷を見せる事は弱さを見せるようで怖い。今でも着物を解く手が震えるのだから。汚い、醜い。それが身体に刻み付けられている。薬独特の臭いが鼻をついた。


「すみません、お見苦しいものをお見せしてしまって。自分で出来ればよかったのですが」


「大丈夫です。背中とか難しいですよね。それに、お嬢様に頼られて私嬉しいです」


目を背けたくなるような酷い傷跡達を軽蔑せず以前と同じように接してくれる。それがありがたく、嬉しかった。


「あの…傷は結婚までに消えるのでしょうか」


「薬を塗り続ければ薄くなりますよ!大丈夫です」


傷は過去を想起させる。内にも外にも負った傷は深い。今でも女学校での事や狐塚家のことを思い出すと恐ろしくて仕方がない。昔の事だと割り切ろうとしても育った環境は常に纏わりついて、思考や行動に影響を与える。


誰もここでは過去を無理矢理暴こうともしない。知っても尚話題には出さない。誰も私の踏み入れられたくない領域に入ろうとはしないのだ。

私の周りには土足で踏み荒らす人しかいなかったから。丁重に扱われるのはもどかしい反面とてもありがたかった。


(私の過去を義両親にも伝えるべき…よね)


自分をさらけ出さなければ認めてもらえないような気がする。こんな私を嫁に貰ってくださる家だからそれくらいは伝えないと誠実ではない。


(大丈夫、拒絶されても私には庵司さんがいる)


庵司さんは言ってくれた。他でもない私から婚約者でいいのだと。庵司さんは私を捨てないでいてくれる。


「塗り終わりましたよ、お嬢様。さぁ、本邸へ行く準備をしましょう」


目を輝かせながらおりんさんは洋服箪笥を開ける。これから本邸に花嫁修業をしに行くのだ。


「洋服…ですか?着物では駄目なのでしょうか」


「いつも着物ですから偶には洋服も着てみたらどうかと思いまして」


そう言っておりんさんはてきぱきと胸元に控えめなフリルがついたブラウスと若芽色のスカート、編み上げブーツを用意した。


「私、洋装はあまりしたことがなくて。少し恥ずかしいのですが」


洋装は社交パーティーの時以来だ。


「似合ってますから大丈夫です」


着替えて玄関へ行くと、出勤しようとしていた庵司さんと出会した。


「あっ、庵司さん。見送りに遅れてしまって…申し訳ありません」


「いや、大丈夫だ。それより…今日は洋服なんだな」


少し恥ずかしく照れてしまう。


「はい。おりんさんが偶には…と」


「そうか、似合っている」


そう言うと庵司さんは逃げるように車に乗り込んでしまった。その耳は少し赤くなっている。


(え?えっ?今…何と……)


沸騰したかのように顔が熱くなる。というか多分私の体の中は沸騰しているに違いない。


(似合っている…と褒められた)


パッと私は顔を手で押さえる。手には頰の熱がよく伝わった。それにしても、庵司さんは狡い。逃げるように言ってしまうなんて。


(よくわからないけど、なんだか狡いわ!)


私が顔に残る熱をどうしようかと悩みながら、でも嬉しいと感じるのだった。



******



「そう…そんなことが」


庭園を一望できるサンルームで紅茶を飲みながら美琴さんはそう呟いた。いつも部屋では息が詰まると美琴さんが言うので今日はサンルームで花嫁修業が行われる事になった。


私は姉が家に来た時に言い返せたことを話していた。過去を話す事で成長できると思ったからだ。


「はじめて言い返すことができました。これも美琴さんのご指導のおかげです」


私がした事は確かに野蛮な事だったかもしれない。美琴さんから教えられた社交界の話術や礼儀は一切使われなかった。でもそれがしっかり姉に言い返すための礎にはなっていた。


「まだ…少し怖いですが」


震える右手を左手で押さえる。


「それでもすごい成長よ。お義母様もきっと認めてくださる」


「ありがとうございます」


そう言われて少し安堵する。


「もう私から教えることなど何もないわ」


「そんな…!」


私は思わず言葉が出ていた。身を乗り出しそうになる衝動を押さえる。


「元々私は薫子さんのように花嫁修業を完璧にこなせた人間ではなかったから。少し薫子さんが羨ましいかも」


「私は…完璧などではありません。私からすれば美琴さんの方が羨ましいです」


誰もが認める美しさを持つ女性。小鳥遊家の未来の女主人として認められた。私はまだ響子さんに庵司さんの隣に立つのを認めてもらえていない。だから認められた美琴さんが羨ましい。


「私なんかが羨むなど…おこがましかったですよね。申し訳ありません」


「薫子さん、お義母様が認めない理由は多分貴女の卑屈さのせいよ。それは美しい謙虚さでは無いわ。醜い卑屈よ。それが貴女の自信のない態度に繋がったのではないかしら」


「卑屈…?」


私は蔑まれ虐げられてきた存在だった。周りの平穏の為に控えめになるのは当然だった。私が生きているだけで周りは不幸になったから。

でも今は違う。私が生きていても誰も不幸だとは感じない恵まれた環境だ。もう私はこんなに周りを気にしなくてもいいのではないか。


「でも私、自信がありません。今まで否定ばかりされてきたので」


「薫子さん、過去と今は違うのよ。もっと周りに目を向けて」



******



帰りの車の中で私は美琴さんの言葉をずっと反芻していた。


(確かにそうだわ。私、周りが見えていなかったのね)


庵司さんがいる。女中さん達がいる。美琴さん達がいる。もう誰も私を虐げる人はいない。安心していいのかも知れない。肩の力を抜いて気を緩めても誰も起こらないのかも知れない。私が自信をつけようと、誰もおこがましいだなんて言わない。


庵司さんが他の誰でもなく私がいいのだと言ってくれた婚約者。庵司さんが選んでくれた婚約者。庵司さんが優しくしてくださる婚約者。


(婚約者…)


その甘美な響きに私は自分で考えておきながら赤面する。本当にわたしでいいのだろうかという不安は常に付き纏う。虐げられてきた女が婚約者だなんてどう考えたって庵司さんに相応しくない。


『もっと周りに目を向けて』


美琴さんの声が蘇る。大丈夫、私は同情で婚約者の座に収まったわけじゃない。誰も私を蔑まない。今の周りには優しい人で溢れている。


(この世にはこんなにも優しい方々が居たのよね)


私はふぅ…と息を吐くと、帰るべき場所にいる優しい人達の顔を思い浮かべた。

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