十五話
「そんな事はない」
庵司さんの即座の否定に私は安堵した。姉を見ても私を捨てないでくれて、この人は何処まで優しいのだろうと思った。
「私が本当の婚約者なんですよ!?」
姉は驚いたように言う。
「違わない。私の婚約者は彼女だけだ」
「嘘よ!そんなわけない。貴方だって私の方がいいに決まってる」
姉が庵司さんの腕にしがみつこうとしていた。私は咄嗟に体が動き姉を突き飛ばす。
「きゃっ…。何するの!」
姉は今まで反撃したことがない私に驚いて声を荒げた。
「あ…庵司さんに…触れないで…」
出た言葉は小さくか細かったが姉への初めての反撃だった。
「こっ…こんな女がいいの!?私を突き飛ばす凶暴な女よ!」
姉は転げなかったが少しよろけていた。
「この女は女狐なのよ!それでもこの女が婚約者だって言うの?ねぇ、庵司さん」
その声で庵司さんの名前を呼ばないで!とは叫べなかったが思ったのは事実だ。自分の中にこんなドス黒い独占欲があるなんて気がつかなかった。
決して女狐の私なんかが庵司さんに抱く気持ちが清らかなものだけではないと感じていたがここまでだったとは。姉に庵司さんを盗られてしまう恐怖が姉自身への恐怖より上回った。
「黙れ」
低く唸るような声が庵司さんから発せられた。私も姉も一瞬動きが止まる。
「彼女の何処を見て女狐と罵った!」
姉は涙目で震えていたが、それでもまた口を開いた。
「全部よ、全部!あんな汚らわしい後妻の娘で男に尻尾振って媚びて誑かす。生きていちゃいけない存在なのよ!」
ビクッと私は震えた。全て姉の口から庵司さんに知られてしまった。私と言う存在を。虐げられ、蔑まれてきた私の汚い部分を。
(庵司さんにはせめて綺麗な部分だけを見て欲しかった)
目に涙がたまる。この家に来た時からだけの比較的綺麗な私だけを知っていて欲しかった。奴隷として生きてきた醜い私なんて知って欲しくなかった。
「彼女は何処も汚らわしくなどない!」
庵司さんの怒声が振動のように伝わった。その声量に最初は驚いたが後から暖かくて優しくて…泣き出しそうなものがこみ上げてくる。
「常に謙虚で女中たちに気を使い自ら率先して仕事をする優しさがある。努力を怠らず花嫁修業に勤しむ直向きな所だってある。」
もう私の目から涙がこぼれ落ちていた。
「それに比べてお前はどうだ。噂は聞いている。妹が父親の借金で苦しんでいるときに、誑し込んだ男の家に転がり込んで自分だけ逃げ出したそうじゃないか」
姉はもう反論できないほど怯えていた。
「人に寄生するしか能がない婚約者など要らない」
冷たく言い放たれた言葉に姉は固まったままだった。
「帰ってください…。帰ってください!」
早く姉に帰って欲しくて。過去を知られてしまったと信じたくなくて。無理矢理私は姉の腕を掴んで門の外まで追い出した。自分の腕からこんなにも強い力が出ることを知らなかった。
門の扉を閉めて背中で押さえる。しばらくは姉の扉を叩く振動と叫び声を背中越しに感じていたがやがて姉は諦めたのか遠ざかっていく足音に私はへなへなとその場に座り込んだ。
「大丈夫…か?」
庵司さんが側に来て手を差し出してくれていた。しかしもう私は庵司さんの顔を真っ直ぐ見れなかった。隠していたかった過去が姉の手によって暴かれてしまった。恥ずかしいような惨めなような。
「大丈夫…ではありません」
以前の私なら大丈夫だと言っていただろう。もう、どう取り繕うともすぐに剥がれてしまうだろう。何重にも化けの皮を被って醜い過去を覆い隠した。でも、もうそれも無意味だ。
「庵司…さん。お話があります」
「ああ。中で聞こう」
庵司さんは私の腕を掴んで起き上がらせると肩を抱き寄せ家に入るまでそうしていてくれた。今まで築き上げてきた何かが過去によって崩されていく感覚がした。
庵司さんは私をどう思ったのだろう。口ではああ言っても心の中では軽蔑したのだろうか。同情したのだろうか。私に対してそんな感情を抱いて見て欲しくないと言うのは我儘だろうか。
居間は静かに畳の匂いが迎えてくれる。初めて入った時はよその家の匂いだったのに今ではもう自分の居場所の匂いだ。
「庵司さん、お話したい事は私の事です」
私は頭を畳につけるように下げた。
「姉の言った事は事実です。私は生きていてはいけない存在です」
「そんな事はない!貴女は私の言葉よりあんな姉の言葉を信じるのか!?」
その言葉で救われた気がした。涙がまた溢れてくる。
「私は…本当の婚約者ではありません。きっと祖父の言った孫は姉のことなのでしょう」
「私は貴女に婚約者でいて欲しい。姉でも他の誰でもなく…貴女に」
もうそこで私の涙腺は崩壊したのだろう。ポツリポツリだった涙が、滝のように溢れて畳に染みを作っていく。
(泣き止みたいのに)
優しい言葉に救われる。他でもない庵司さんだからこそ、私は嬉しい。
「あのっ…今まで通りここに置いていただけますか?」
「勿論だ」
「私のような者が婚約者で…本当によろしいのですか?私は…全身傷だらけです」
「貴女だからいいんだ」
私は子供みたいに泣きじゃくって、過去のことをすっかり庵司さんに打ち明けた。嘘をついていた事や隠していたことを全部。その間ずっと庵司さんは私の背中をさすっていてくれた。
受け入れられた、汚い私が。許された、醜い私が。否定された、私が虐げられるべき存在だったということを。怒ってくれた、私が蔑まれていたことを。謝られた、気付いてあげられなかったと。
どれだけ庵司さんは優しいのだろうか。私には勿体無いくらいの優しさを注いでくれる。この優しさに裏なんてあると信じたくない。裏があるならここまで優しさを貫き通してくれるのだろうか。
「貴女の事情を知らず、酷い言葉を投げかけてしまった。無愛想な態度を取ってしまった。許して欲しい」
不器用な優しさ。
「許すも何も、私は怒ってなどいません。むしろ庵司さんの優しさに感謝しています」
私がどれだけ救われたのか、言葉で伝え切れるだろうか。いっぱい話そう、伝わるまで。時間は沢山あるのだから。
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夢を見た。幼い私が泣いている夢だ。古着とも言えないようなボロボロの布を見に纏い、暗い中泣いている。あれは姉の機嫌を損ね、寒い夜に外に閉め出された時だ。
「ごめんなさい、許してください!お姉様、お姉様、お姉様、入れてください!!」
ドンドンと扉を叩く。涙と声が枯れて手の皮が捲れ血が流れても私は扉を叩き続けていた。冷静に見ればいくら頑張っても開けてもらえるはずがないのに私は諦めずに扉を叩いていた。
「もう、やめて」
気づけば私は幼い私を抱きしめていた。骨と皮だけと言っていい細い体。体温があまりにも低く感じられない。私はずっと誰かに優しくされたかったんだ。だから必死に辛いことに耐えて頑張った。報われないと分かっていながら。
「貴女の努力は報われるのよ」
幼い私は返事を返さない。しかし泣き声は止まっていた。
「私は幸せになれるのよ」
庵司さんという優しい方に出会って。その他にも優しい方々に沢山優しくされて。もう、誰にも殴られないよ。もう、誰にも叩かれないよ。もう、誰にも蹴られないし虐げられない。蔑まれもしない。
「だから安心して。生きていてよかったと思える日が来たの」
人生に絶望していた。希望なんてないと思っていた。死んでも誰も悲しまないし、むしろ喜ばれる存在だと思っていた。それが違うのかわからない。間違っているのかもしれない。
でも、庵司さんはそんなことないと否定してくれた。庵司さんは私が死んだら悲しんでくれるだろうか。悲しんでくれる気がする。とても優しい方だから。




