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十三話

「指先まで気を抜かず、綺麗に。そう!そうです」


小鳥遊家の本邸の空き部屋。美琴さんに礼儀作法の指導をつけてもらっていた。頭の上に本を数冊載せ、まっすぐ歩く。女学校の礼儀作法を彷彿とさせた。


「多少、洗練されていないけれど大体は合っているわ。何故お義母様は薫子さんの態度を気に入らなかったのかしら」


美琴さんに褒められ、私はゴクリと唾を飲み込む。私は特定の相手となると直ぐ奴隷の私に戻ってしまう。そのほかの場面ではちゃんと女学校の教えを体現できるのだが。


「緊張していなかったら出来るんです。落ち着いて冷静にできれば」


「パーティーの場でしかも初めてなら緊張してしまって当たり前よ。ああいうのは場数を踏んだら大丈夫になっていくわ」


そうじゃない…そうじゃないのだ。確かにパーティーは緊張した。それでもそれなりにやれていたと思っている。しかし女学校の同級生に会うと昔の虐げられ続けた記憶が蘇ってどうしても奴隷に徹してしまうのだ。

しかしそれを美琴さんに打ち明ける勇気はなかった。それどころか庵司さんにも誰にも打ち明ける勇気はない。


誰もが私は虐げられて当然だと嘲笑するだろう。誰もが私は蔑まれて当然だと見下すのだろう。それを言われるのを分かっていて…でも少しの希望を持って打ち明けてみてその希望を粉々に砕かれるのが怖いのだ。


「そうですか…」


また躑躅さんに会う機会があるかもしれないということがひどく恐ろしかった。悔しかった。何か言い返したかったのに目の前にすれば足がすくむ。

あの時だって庵司さんが来てくれなかったたらどうなっていたかわからない。ずっと私を嘲笑し続けてもしかしたら昔のように手を上げられたかもしれない。


「薫子さん自信を持って。大丈夫よ」


美琴さんは微笑んで私を励ましてくれたが、私には何が大丈夫なのか全くわからなかった。



******



「お嬢様、顔色が悪いです。ここは私達に任せて、お休みください」


夕食の支度をしている途中、おりんさんからもそう言われてしまった。


「やはり花嫁修業と家事の両立は大変です!何のために私達がいると思っているんですか。家事や雑事を全部する為です」


「花嫁修業は私の我儘で始めた事です。それに居候の身ですから」


そう言って包丁を握ろうとしたとき、パッとそれをおけいさんに取り上げられた。


「そんな状態で包丁を握るのは危険です。それどころか台所にいることすら危険です!」


そう言われて二人から台所から追い出され、陽子さんと春海さんに強制的に部屋に連れて行かれ布団に子供のように寝かしつけられた。


「私は大丈夫ですので」


「病人みたいな顔色ではありませんか!」


起き上がろうとしたがまた寝かせられる。


「眠るまで私が監視していましょうか」


陽子さんが低い声でそう言ったのでもう反論はできないと悟った。


「寝ます、寝ます。だから大丈夫です」


本当に休んでくださいねと念を押され二人は部屋を出た。静かになった部屋を私は寝転びながら見回した。箪笥も洋服箪笥も文机も鏡台も。全て庵司さんが用意してくれたものだ。


(思えば私は庵司さんに貰ったものばかりに包まれているわ)


見れば貰った時の思い出が蘇ってくる。


「庵司さん…早く帰ってこないかなぁ…」


自分は何を呟いたのかとハッと口を塞いだ。


(私、寂しいの?)


そんな我儘を言っていい資格は私にはない。庵司さんは立派に軍人としての務めを果たしていて、この広い屋敷に私一人残しているわけではない。女中の皆も庭師の方もいらっしゃる。昼間に美琴さんの元に通う事を許してくださって私は一人じゃないのに。


でも、そこに庵司さんが居ないのなら…私は寂しさを感じてしまうのかもしれない。私の幸福は庵司さんが居ないと完成しないのだと改めて感じた。


柔らかい布団に包まれて緩やかに眠りへと落ちていく。


「生きていて恥ずかしくないの?」


私の席の周りには桐ヶ谷躑躅をはじめ、数人の女学生が取り囲んでいる。着ている着物や袴は私のものとは比べ物にならないほど良質な生地で細やかな柄が繊細に織り成されている。

それに比べて私はどうだ。女狐に相応しく申し訳程度に飾り刺繍の付いた浅葱色の着物に群青色の袴は狐塚家の名に傷がつかないようにと最低限気の使われた良質…とギリギリ呼べるようなもの。それだけを数着しか持っていない。それ以外の着物はなくずっと古着だ。


最上級の一級品を使い二度と同じ着物を着ない彼女達にとってどれほどみっともなく映るのだろう。


「こんな女狐な妹がいてお姉様の桜子さんがお可愛そう」


「桜子さんに醜く嫉妬して虐げた罰よ。いい気味だわ」


「お前が幸福になど一生なれないのよ」


あの人達は私が死ぬ事を望んだ。私は一生こうして人に虐げられながら死ぬまで生きるのだと思った。

何も悪いことなどしなかったけど、私がいるだけで罪で私が生きているだけでそれは悪なのだと幼い頃からそう植え付けられた。

私の居場所は何処にもない。私は生きていてはいけない存在なのだと、そう思っていた。


私の居場所は……。


後ろ姿が見える。愛しいあの人。


私の居場所は……。


徐々に近づいていく。私は差し出された手を握る。


私の居場所は庵司さんの隣でありたい。だから休んでいる暇などないのだ。早くお義母様に認められないと。私は…。


そこでふと目が覚める。暗くなった部屋にもう庵司さんが帰ってきていてもおかしくない時間帯だと気がついた。


「申し訳ありません。出迎えずに寝てしまって」


居間で夕食を取ろうとしていた庵司さんの前で私は頭を下げた。「起こしてくださったら良かったのに」とこぼせば「眠っている貴女を起こすのは可哀想だと思った」と庵司さんは言った。


「別に怒ってはいない。貴女はいつも謝るんだな」


「申し訳ありません」


謝るのが癖になってしまっている。それが私に許された唯一の行動だったから。謝罪以外相手は求めていなかったから。


「謝罪はするな。誰も怒ってはいない」


「はい」


怒っていないと言っても庵司さんの眉間にはシワが寄っているように見える。


「弁当、美味かった。また作ってくれないか」


怒っているような見えた顔が一瞬緩む。私はその言葉でお弁当を作った事を喜んでくれたと安堵した。


「はい、毎日お作りいたします」


「顔色が悪い。絶対に無理はするな」


心臓が跳ねるのを感じて、やっぱり私はこの人のことが好きなのだと思った。優しさをくれた庵司さんを。


「心配してくださりありがとうございます。でも私が好きでやるのですから、大丈夫です」


言って少し後悔した。まるで告白のようになってしまった。好きというのは庵司さんの為にお弁当を作ることが好きなのであって庵司さんが好きなわけでは…。いや違う。ちゃんと好きだ。どっちにしても好きだと告白してしまったようなものだ。


私は思わず顔を逸らしそうになってしまったが礼儀作法を思い出し赤面したままじっと庵司さんを見つめた。ここで顔を逸らしてしまったら過去に虐げられた人に出会った時冷静でいたいなんて無理な話だ。


じっと見つめていれば先に庵司さんが顔を逸らした。耳が少し赤くなっているのがわかる。やはり伝わってしまったか…と私はもっと顔に熱が集まり、火傷してしまうのではないかと心配になる程だった。


「庵司さん…」


「なんだ」


「さっきの言葉は忘れてください。いえ、やっぱり忘れないでください」


どっちなんだと自分でも言いたくなった。


「私を…忘れないでください」


食卓には気まずい沈黙が流れた。ああ、やっぱり私は寝坊してしまった申し訳なさで変な事を口走ってしまう。変なこと…というか私が内に秘めた欲望を…だけど。

少し涙目になってしまう。「泣くな」という庵司さんの声には同情のこもった優しい声色だった。


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