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十二話

「お帰りなさいませ。庵司さん」


手袋を外しながら息をつく庵司さんに私は声をかけた。


「ああ、ただいま」


庵司さんのその声をずっと聞いていたい…なんて現実逃避しながらも私は「夕食の準備ができています」と言って上着を預かった。


(暑い中、軍服をしっかり着られて…暑く無いのかしら)


庵司さんは汗一つ書いている様子はなかったが、庵司さんより薄着の私でもじんわりと汗ばむ気温だ。


「庵司さん…あの、食後のデザートにアイスクリーマーで作ったアイスクリームを食べませんか?今、おりんさん達が一生懸命作ってくださっています」


元々はおけいさんが食べてみたいと言い出し作り始めたのだがこれがなかなかの重労働で皆で代わる代わるにアイスクリーマーを回していたのだ。


「ああ、そうしよう」


僅かに庵司さんの口角が上がったように見えた。食事の席に着くと私は箸をつける前に畳に頭をつけるように下げた。


「あの…庵司さんにお話しなければならないことがあります」


「な…なんだ」


庵司さんは声の調子から少し驚いたのがわかった。


「花嫁修業を美琴さんから受けることになりました。勝手に決めてしまい申し訳ありません。もし庵司さんが辞めろと仰るなら辞めます」


もし辞めろと言われたら…。私は小鳥遊家に相応しく無いまま追い出されて、また借金を背負うのだろう。私のいなくなった小鳥遊家に借金を肩代わりしてやる義理はない。少し、怖かった。


「謝る必要はない。好きなようにやればいい」


私は頭を上げる。その目にはなみだがたまっていたかもしれない。


「ありがとうございます」


まだ響子さんに認められた訳ではないが、認められる努力をすることを許された。


(私、相応しくないですが頑張ります)


私の生まれて初めての我儘の為に。食後のデザートのアイスクリームは庵司さんが涼んでくれたらいいなと思いながら、私は出来立てのアイスクリームを運んだ。



******



「よろしくお願い致します」


翌日、本邸へと向かった私はとある空き部屋に通された。そこにはかなりの量の教科書の山。そして裁縫道具や茶道や華道が出来る準備がなされていた。


「ええ、よろしくね」


白いブラウスに水色のスカートと言った洋装で美琴さんは現れた。


「薫子さんは女学校に通っていたからここにあるもの全て一通りできると思うけど、一応確認ね」


料理、裁縫、茶道、華道、習字、笛、琴、聞香、和歌。一通り全てこなし終える頃にはもう帰らなければならない時間だった。


「初日はこれくらいにしましょう」


「ありがとうございました」


うーん…と美琴さんは首を傾げる。


「どれも出来ているのにお義母様は何が気に入らなかったのかしら」


虐げられながらも生きる為に必死に食らいついた結果並以上の実力がついていたようだった。あの時は一生奴隷として生きるのだと思っていたが…父の目に止まり私も普通の令嬢のように結婚できると思っていた。

たとえ政略だとしても、あの家から逃げ出せるなら嫁ぎ先でどんな目にあってもいいと思っていた。


「あの…態度だと思います。私、自信がなくていつも下を向いてしまって…」


「なるほど。なら明日からは礼儀作法を中心にしましょうか」


そして私は車に乗って別邸へと戻る。戻るというか、帰るという実感する。もうずっと昔から私はあの家にいたような気がしていた。


(あそこが私の居場所なのね)


やっと見つけた私の居場所。私の帰る場所。庵司さんがいるところが私の場所。庵司さんがいるならどこまででも私はついていくのに。


「お帰りなさいませお嬢様」


私の帰りを女中全員で迎えてくれた。


「ありがとうございます。庵司さんが帰ってこられる前に夕食の準備をしましょう」


花嫁修業は私の我儘で始めたのだ。たとえ疲れていたとしても家事は疎かには出来なかった。


「お嬢様、お疲れでしょうから私達に任せてくださって構わないんですよ」


おけいさんが心配そうに私の顔を見た。


「いえ、わたしがしたいのです」


庵司さんが食べる料理をわたしが作りたい。少しでも庵司さんと関わりを持っていたい。私なんかがこんな願いを抱くのはおこがましいとわかっていても体は勝手に動いてしまう。

葱を切って味噌汁の中に入れながら、少しよろめいてしまった。


「大丈夫ですかお嬢様!」


近くにいた陽子さんが支えてくれた。


「ありがとうございます。でも大丈夫です」


こんなことには慣れている。狐塚家ではろくに睡眠も食事も取れずいつもフラフラだった。ここに来て初めて暖かい食事をとり、ふかふかの布団でゆっくり眠れた。すっかり贅沢な暮らしが身に染みてしまい少し恥ずかしい。

私なんかにこんな生活は似合わない。私なんかには勿体無いくらいの幸福。だからこそ、この幸せが永遠ではないと思ってしまう。


(もし、私がお義母様に認められなかったら…)


豪華な暮らしが無くなることは私にとって苦ではない。ただ昔に戻るだけなのだから。一番耐えられないのは庵司さんの側から離れてしまうこと。


借金が返せなくなってしまうから…生きていけないから…そんな理由は自分の中で些細なことになっていることに気づいた。私はただ純粋に庵司さんの側に居たいと思っていた。側に居られるなら何でもするのに。


「お帰りなさい、庵司さん。夕食が出来ています」



******



その日の朝、朝食以外にもう一つ料理があった。料理というか…弁当が。私の目の前には紅いかまぼこ、梅干し、きんぴらごぼう、こんにゃくと肉の煮付けなどがぎゅうぎゅうに詰められた木の弁当箱がある。


「作ってみたけれど…良かったのかしら。ご迷惑じゃ…ないわよね」


これは庵司さんの為の弁当である。少しでも私を覚えていてもらいたいという私のちょっとした自己主張。少しでも役に立ちたいと思いつき、またもや相談なしに勝手に突っ走ってしまった結果なのだが…。


「軍本部に食堂くらいあるわよね、やっぱり余計な事だったかしら」


冷めた弁当と温かい出来立ての食事。どちらが美味しいかは明白だった。


「美味しそうですねお嬢様。きっと旦那様もお喜びになるはずです」


糠漬けを洗い流していた春海さんが褒めてくれる。しかし依然と不安は残ったままだった。朝食の時間に弁当の事を言い出せず、結局見送りの時間まで引き延ばしてしまった。しかも今日は春海さん以外の女中が皆お休みで各々休日を満喫している。

春海さんは台所で仕事をしていて見送りは私だけなのが余計に不安だった。


(流石に言わなくちゃ)


後ろに隠した弁当箱を前に出す。


「あっ…あの、庵司さん。お弁当を…作りました。もしよろしければ食べて…いえ、いらなかったら捨ててください」


頭を下げて弁当箱を前に差し出す。ふと手から弁当箱の重みが消えた。顔を上げると弁当箱は庵司さんの手に渡っていた。


「捨てることなどしない。ちゃんと食べる」


「そっ…そうですよね。食材が勿体無いですよね。……ありがとうございます…」


受け取ってもらえたことで安堵する。それと同時に無理に受け取らせてしまったのではないかという新たな心配が増えた。


「本当に…お口にあいませんでしたら食べなくても大丈夫ですので」


「大丈夫だ。貴女の食事はいつでも美味い」


顔に熱が篭って庵司さんの顔をまともに見れない。私は頭をまた下げてしまった。その時、私の頭に少しの重量がかかる。不器用で暖かい大きな手が、硝子細工を扱うかのように丁寧に、むしろ不安そうに左右に撫でる。


私が思わず頭を上げてしまうと、直ぐに庵司さんの手は引っ込められた。


「行ってくる」


私にとってはまるで逃げのように庵司さんは車に乗り込んでしまった。顔に熱が残ったままの私は茫然としながら撫でられた頭に自分の手を乗せて、余計に赤面したのだった。

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