第9話 会えるものなら
椅子の脚が、床を小さく擦った。
向かいに座ったセリオンさんは、俺が腰を下ろすのを待ってから自分も席についた。リセリアさんは水の入った器をこちらへ寄せる。
「長い道のりだったでしょう。まずは喉を潤して」
「ありがとうございます」
一口飲んで、ようやく肩の力が抜けた。
研究区画で見た光景が、まだ頭に残っている。けれど今は、目の前の二人のことを考えなければならない。
「ソフィアから、君のことは何度か聞いていたよ」
セリオンさんが言った。
「最初は街で助けてもらったと。次に聞いたときは、二人とも無事では済まなかったそうだね」
「……はい」
「助けてくれたことには、本当に感謝している。ただ、娘が何をされたのかを聞いたときは、正直、肝が冷えた」
隣に立っていたソフィアが顔をしかめる。
「お父さん。その話なら、もうしたでしょう」
「したさ。でも、カイ君本人にはまだ礼を言えていない」
彼は俺の方へ向き直った。
「ありがとう。君まで傷を負うことになったのは、申し訳なく思っている」
「あのときは、俺も必死だったので……」
言葉を探していると、ソフィアが空いている椅子に座った。
「私も必死だったわ。逃げ道を探してたけど、あのときは本当に怖かった」
「そうだろうな。何度聞いても、心配になるよ」
「お父さんったら。今は二人とも、こうしてここにいるでしょう」
「……ああ。それが一番だ」
セリオンさんが頷くと、ソフィアも少しだけ表情を緩めた。
リセリアさんが二人を見て、静かに言った。
「カイさん。今日はまず、あなたがどこから来たのかを聞かせてほしいの。襲撃の詳しいことは、次にソフィアの記録も並べて確かめましょう」
「はい」
「まだ傷が痛むこともあるでしょう。今日は無理をしなくていいわ」
俺は右手を膝の上に置いた。
この手から伸びた刃で、あの男の剣も拘束具も壊れた。周りのものまで傷つけた。助かったという気持ちと、あれがまた起きたらどうなるのかという怖さは、今も消えていない。
「覚えていることなら、話します」
「ありがとう。でも、分からないことは、分からないと言ってくれればいいの」
そう言われて、少しだけ話しやすくなった。
俺は、日本で暮らしていた頃のことから話し始めた。
「日本です。ソフィアにも話しましたけど、こことは違う場所で……俺はそこで生まれて、家族と暮らしていました」
「家族は、向こうにいるんだね」
セリオンさんの問いに、俺は頷く。
「はい。帰りたいんです。ずっと」
口にすると、胸の奥が締めつけられた。
帰り道を探すつもりで領都まで来た。それなのに、ここで過ごすうちに知り合いも増え、ソフィアと一緒に笑うこともあった。
ただ、どれだけ楽しい時間があっても、家族が待つ場所を忘れたわけじゃない。
「日本から、この大陸へ来たと」
リセリアさんは俺の言葉を確かめた。
「はい。でも、どうしてそんなことが起きたのかは、俺にも分かりません」
「こちらで過ごした足取りについては、確認できたことがあります。ラウゼンで保護されてから、領都へ来るまでのこと。それから、街で起きた事件についても」
「調べたんですね」
「あなたを招く前に、確かめられることは確かめておきたかったの」
怒る気にはならなかった。ここは外から見ただけでは分からない研究施設で、俺は身元の分からない人間なのだから。
「でも」と、彼女は続ける。
「日本での暮らしや、こちらへ来た経緯までは、私たちの調査では確かめられません。だから、あなた自身から聞かせてほしいの」
「それは……そうだと思います」
自分だって、どうやって来たのか分からないのだ。
「それでも、聞いてくれるんですか」
「だから、あなたに会いたかったのよ」
リセリアさんは淡々と言ったが、目を逸らさなかった。
「あなたがどんな人か、私たちも自分で話してみたかった。それに、日本という言葉を聞いて、何も思わなかったわけではないから」
その最後の一言に、俺は顔を上げた。
「ソフィアから、家族に日本と関係があるって聞きました。詳しくは、お二人に会ってからだと」
セリオンさんが頷いた。
「そうだね。だがその前に、一つ聞いてもいいかな。君はどうしてヴェルノスへ来たんだい?」
「昔、このあたりに変わった技術者がいたって、ラウゼンで聞いたんです」
その言葉を口にした途端、領都に来たばかりの頃を思い出した。
店を訪ねて話を聞いても、誰もその人の名前を知らなかった。道具の話になると詳しくなる人も、肝心の作り手のことは知らない。手掛かりだと思った話が、別の人からの聞きかじりだったこともある。
「日本から来た人かもしれないと思って。俺のいた場所と同じ知識を持ってるなら、帰る方法も何か知っているかもしれない。それで、探しに来ました」
「名前は?」
「分かりません。どういう道具を作った人なのかも、話す人によって曖昧で」
「そうか」
セリオンさんはすぐに次の質問をしなかった。机の上で指を組み、何かを考えている。
「お父さん」
ソフィアが小さく呼ぶ。
「……ああ」
セリオンさんは短く頷き、リセリアさんと目を合わせた。今までの質問とは違う沈黙だった。
俺は、器に残った水へ目を落とした。期待しすぎるな、と自分に言い聞かせる。噂を探して歩いた何日かで、そういう気持ちには慣れたつもりだった。
「カイ君」
セリオンさんの声がした。
「君の探している人と同じ人物かどうかは、まだ分からない。それは先に言っておくよ」
「はい」
「ただ、私たちの家族に、日本から来た人がいるのは本当だ」
心臓が一度、大きく跳ねた。
「……その人は、今もここに?」
「まず、名前から話そう」
セリオンさんはまっすぐに俺を見た。
「父の名は、一ノ瀬賢治。日本で生まれた物理学者だ」
頭の中で、名前を繰り返した。
一ノ瀬。賢治。
聞き間違えようのない、日本の名前だった。
しかも、物理学者。
何の研究をしていたのかは分からない。それでも、日本で勉強し、暮らしていた人が、俺と同じようにこの世界へ来た。
「……本当に、日本から?」
「ああ。父は日本から来た人だ。私はその息子で、ソフィアは父の孫にあたる」
思わず、ソフィアを見た。
彼女は目を合わせ、静かに頷いた。
「私が話した、家族と日本のつながりよ」
「そういうことだったのか……」
膝の上で、指先が落ち着かなかった。
「その、賢治さんは……」
声が少し上ずった。
聞きたいことが一度に浮かんできて、どれから言えばいいか分からない。
「何か、残してませんか? 日本のことでも、来たときのことでも。帰る方法を調べたりは――」
最後まで言い切れなかった。
セリオンさんが黙っていたからだ。
嫌な予感がして、俺は質問を変えた。
「賢治さんには、会えますか?」
少しの間、部屋は静かだった。
さっきまでの研究区画の物音が、ここまでは届かない。
「今は、会えるとは言えない」
セリオンさんが答えた。
「父は母と一緒に、中央へ向かったんだ。私がまだ子どもだった頃に」
「中央って……」
「ある技術に関わる用件でね。詳しい経緯は、ここで全部を話せるわけじゃない。ただ、二人とも帰ってこなかった」
俺は返す言葉を失った。
「それから、一度も?」
「ああ」
「どこにいるかも……?」
「今は分かっていない。生きているのかどうかも、確かなことは言えないんだ」
セリオンさんの声は落ち着いていた。それが余計に、長く抱えてきた話なのだと感じさせた。
「すみません。何も知らずに、会えますかなんて」
「謝ることじゃないよ。君がそう聞くのは当然だ」
彼は笑おうとして、少しだけ口元を緩めた。
「私だって、会えるものなら会いたいさ」
隣のソフィアは何も言わなかった。ただ、セリオンさんの前に置かれた水の器が空になっているのに気づき、自分の席の近くにあった水差しを寄せた。
彼は礼を言って、それを受け取った。
俺は膝の上の手をほどいた。さっきまで聞きたかったことが、うまく言葉にならない。
名前は分かった。なのに、次はどこを訪ねたらいいのか。
机の木目を見つめたまま、しばらく考えた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「何だい?」
「ラウゼンで聞いた技術者が、賢治さんだった可能性はありますか?」
「あると思う。ただ、父がどんな仕事をどこでしていたか、私にも分からない部分が多い。噂の方も、まだ名前が確かめられていないんだろう?」
「はい」
「なら、同じ人だと決めてしまうのは早いね」
期待した答えではなかった。
でも、俺が今まで聞いて回ってきた曖昧な話を、いきなり確かなものにしないでくれたのはありがたかった。
「……そうですね。俺も、もう少し確かめたいです」
リセリアさんが頷いた。
「彼のことは、残っている記録から調べられるかもしれません。それと、カイさん自身のことも」
彼女の視線が、膝の上の右手に落ちた。
「あの刃を、ここでもう一度出すんでしょうか」
聞いてから、喉が渇いた。
「いいえ。無理に再現することは認めません」
即座に返ってきた言葉に、肩の力が少し抜けた。
「……俺も、あれをもう一度出せるかどうかすら分からないです」
「なら、なおさらね。次はあなたが覚えていることを聞いて、ソフィアが見たことと比べてみたいの」
「私も、あの場で見たことなら話せるわ」
ソフィアが口を開いた。
「カイが倒れたあとのことも、私の分かる範囲なら。でも、どうしてあの刃の形になったのか、力がどこから来たのかまでは、まだ分からない」
「……俺も、そこを知りたい」
怖いからこそ、知らないままで放っておきたくはなかった。
「それと、日本のこともです。賢治さんのことを、もう少し調べたい」
「ええ。ただ、日本から来たことと、あの刃のことは、最初から一つに結び付けずに考えましょう」
俺は頷いた。
セリオンさんが身を乗り出した。
「君が聞いて回った技術者の噂も、無駄にはならないよ。どこで聞いたのか、何を言われたのか。そういうのは後から確かめられるかもしれない」
「書き留めたものが、家にあります」
「それはいい。今度、君が見せてもいいと思う範囲で持ってきてくれるかな」
「はい」
答えてから、ふと気づいた。
今度。
またここへ来て、続きを話せるかもしれないのだ。
リセリアさんが俺に向き直った。
「見せられる記録はこちらで選ぶことになるけれど、それでもよければ次も協力してくれる?」
「はい。俺にできることなら」
「ありがとう。では、詳しい話はそのときに」
「勝手に装置に触ったりもしません」
「今日だって止まったでしょう?」
ソフィアがこちらを見て笑った。
「止まっただろ」
「私が袖を引いた後に、ね」
言い返せなかった。
話を終えて席を立とうとすると、ソフィアが先に立ち上がった。
「お母さん、次は私も観測の記録を整理しておくわ」
リセリアさんは娘を見た。
「ええ。でも、カイさんが話すことについては、本人の意思を確かめてからね」
「分かってる」
ソフィアはすぐに答えた。
それから俺を見る。
「カイ。話したくないことまで、無理に話さなくていいから」
「ありがとう。でも、帰るために確かめたいんだ。俺が知ってることは、ちゃんと伝えるよ」
「ええ」
ソフィアは、今度ははっきり笑った。
セリオンさんが立ち上がる。
「今日は遠くまで来てくれてありがとう。何か思い出したことがあったら、次に会うときに聞かせてほしい」
「はい。こちらこそ、ありがとうございました」
言いながら、俺はさっき聞いた名前をもう一度、頭の中で確かめた。
一ノ瀬賢治。
日本から来た物理学者。セリオンさんの父親で、ソフィアのおじいさん。
その人が今どこにいるのかも、俺が日本へ戻れるのかも、まだ分からない。
でも、家に置いてきた調査の紙には、まだ余白がある。
帰ったら、そこへ書こう。
何度も聞き回って、ずっと埋められなかった名前を。




