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断界アノマリア  作者: 来里 綴


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第10話 帰り道の灯り

 一ノ瀬賢治。


 紙の余白に書いた名前を、指でなぞった。


 昨日まで、そこは空いていた。領都で聞いた噂をいくら書き足しても、肝心の誰なのかが分からなかった場所だ。


 ようやく名前が入ったのに、次の行には何も書けない。


 どこにいるのか。日本に帰る方法を知っているのか。そもそも、俺が探していた技術者と同じ人なのか。


 筆記具を置き、椅子にもたれた。


「……会ってみたかったな」


 顔も知らない人に、そんなことを思うのは妙だった。


 廊下から声がした。


「カイ! まだ起きてる?」


「はい!」


「明日の支度があるなら先に済ませなさいよ。朝から探し物をされても困るんだから」


 ネリサさんだ。そう言えば、次に研究本部へ行くときは、書きためた聞き込みの紙も持っていく約束だった。


「もう少しで終わります!」


 返事をすると、足音が遠ざかった。


 紙を折り、ほかの記録と一緒にまとめる。最後にもう一度、そこに書かれた日本の名前を確かめた。






 次に山裾の本部を訪れたとき、ソフィアは俺を前回とは別の部屋へ連れていった。


 机と椅子が並ぶ、ごく普通の部屋だった。前に見た巨大な円形の研究区画とは違い、目を奪われるようなものは何もない。


「今日はあの壁のところには行かないのか?」


「行きたい?」


「……ちょっと」


「私も見に行きたいけど、今日はこっちが先ね」


 ソフィアは笑いながら紙束を机に置いた。


 リセリアさんからは、前に約束したとおり、聞き取りと記録の比較だけにするよう伝えられている。あの刃を出すようなことはしない。俺にも異論はなかった。


「ここからは、カイに聞かないと埋められないの」


 ソフィアが開いた紙には、俺たちが襲われた日のことが書かれていた。


 男が剣を向けたこと。ソフィアが逃げ道を探したこと。俺の右手から刃のようなものが伸び、周囲の物まで壊したこと。


 見ているうちに、脇腹の古い傷が疼いた気がして、姿勢を変えた。


「つらかったらやめましょう」


「いや、大丈夫。……続けて」


 俺は思い出せるところを話した。


 剣を止めたかったこと。昔見た刃の形が頭に浮かんだこと。けれど、本当にあんなものが出るとは思っていなかったこと。


「自分で出そうとしたわけじゃないんだ」


 俺がそう言うと、ソフィアは少し考え、書いていた文字の一部を消した。


「じゃあ、ここは違うわね」


「そこ、何て書いてた?」


「刃を出した、って」


「間違いではないけど……」


「ええ。でも、そう書くと、出し方を知っていたみたいに読めるわ」


 彼女は書き直した紙を俺に見せた。今度は、俺が何をしたかだけでなく、何をするつもりだったのかも分けてある。


 たった数行なのに、思っていたより時間がかかった。


「次は、刃が消えたところね」


 その言葉に、俺の手が止まった。


「……消えたところは、よく分からない」


「倒れる直前に、形が崩れたように見えたって言ってたでしょう?」


「ああ。でも、あれが本当に消え始めたところだったのかは……。俺はそのあと、何も覚えてないから」


 ソフィアが目を落とす。


「私が見たのは、カイが倒れたあとなの。そのときには、まだ輪郭が残っていたわ」


「俺が見たあとも、残ってたんだな」


「ええ。カイが見たときから弱まり始めていたのかもしれない。でも、いつ消えきったのか、何がきっかけだったのかは分からないわ」


 彼女は、二つの記録の間に小さな隙間を残した。


 俺はその隙間を眺めた。


 あの日、何が起きたのか。何度も思い返したつもりだった。それでも、自分が見ていない時間のことは、どうしても埋められない。


「……ここ、残したままでいいのか?」


「今はね。勝手に書き足すよりは」


 ソフィアは筆記具を置き、少しだけ首を傾げた。


「それより、もう一つ聞いてもいい?」


「何?」


「カイは、あの刃を止めようとしていたとき、私の声、聞こえてた?」


「聞こえてた。動くなって言ってたよな」


「そう。……よかった」


 彼女が息を吐いた。


「必死で呼んだけど、届いていないかもしれないと思ってたから」


「届いてたよ。あのとき動いたら、もっとひどいことになりそうだった」


「私も怖かったの。近づきたくても、すぐには近づけなくて」


「それで人を呼んでくれたんだろ」


 ソフィアは頷いた。


 俺も、そのときのことをしばらく黙って思い出した。


 机の上には、まだ途中までしか書かれていない紙があった。ソフィアはそこへ、俺が声を聞いていたことを付け加える。


 作業が終わる頃には、紙の端にいくつか書き直した跡が残っていた。


「これ、お母さんにも確認してもらうわ。次に何を調べられるかは、そのあとね」


「うん。俺も、まだ話せることがあると思う」


「無理に思い出さないでよ」


「分かってる。……でも、また来てもいいんだよな?」


「そう約束したでしょう?」


 ソフィアが紙を揃えて立ち上がった。


「さ、今日はここまで。私もお腹が空いたわ」


 そこで初めて、自分も朝からろくに食べていないことを思い出した。






 領都に戻る頃には、陽が傾き始めていた。


 馬車を降りると、通りの向こうから焼きたての生地の匂いが流れてきた。人の声も、荷車の音も、初めてこの街に来た日とあまり変わらない。


「何か食べていく?」


 ソフィアが聞いた。


「食べたいけど、うちで夕飯があるからな」


「じゃあ、少しだけ」


「今の、どっちが食べたいんだ?」


「私よ」


 即答されて笑ってしまった。


 通りの店で、焼きたての生地を小さく切り分けてもらった。片方をソフィアに渡すと、彼女は熱さを確かめるように少しずつかじった。


「……おいしい」


「熱いの苦手?」


「苦手じゃないわ。熱いものは熱いでしょう」


「それはそうだ」


 歩きながら食べていると、通りの片側で小さな青白い光が瞬いた。


 見覚えのある灯具だった。


「あ」


「どうしたの?」


「ちょっと、あそこの店に寄ってもいい?」


 ソフィアは俺の視線を追い、笑った。


「また何か見つけたのね」


 店先では、男が工具を片手に灯具を覗き込んでいた。俺が近づくと、男は顔を上げた。


「おお、前に鼻先まで近づいてきた兄ちゃんか」


「その覚え方ですか」


「ほかに何がある?」


 笑いながら、男は灯具を台に戻した。


「そういえば、あのとき直してたのって、どうなったんですか?」


「とっくに直したよ。持ち主が持って帰った。今日は別のが調子悪くてな」


「そっか……。直ったところ、見たかったな」


「じゃあ、こいつが直るまで待つか?」


 男が目の前の灯具を持ち上げた。


 さっきよりも光が弱くなり、すぐに消えた。


「……どのくらいで?」


「さあな。まだ原因が分からん」


「ですよね」


 思わず笑った。


 隣でソフィアが灯具の金属枠を見ていた。


「その留め具、片方だけ新しいんですね」


「お、よく見てるな。そっちは交換したんだが、ほかにもおかしいところがあってな」


 男が別の部品を取り出すと、ソフィアは身を乗り出した。


「それ、見てもいいですか?」


「もちろん。触るなら、こっちの冷えてる方な」


 俺は彼女の横顔を見た。


「……ソフィアも、こういうの好きなんだな」


「知らなかったの?」


「いや、研究してるところは見たけど」


「街のものに興味を持っちゃいけない理由はないでしょう?」


 それもそうか。


 しばらく二人で職人の手元を眺めていたが、灯具はなかなか光らなかった。


 通りの音が少し変わった。店じまいの支度をする声が増え、夕飯の匂いがあちこちから流れてくる。


「そろそろ行こうか」


 俺が言うと、ソフィアは少し名残惜しそうに顔を上げた。


「そうね。今日はもう暗くなるもの」


 職人に礼を言って、店を離れた。


「あの人、初めて領都に来た日に話したんだ」


 歩きながらソフィアに話す。


「灯具の仕組みが気になってさ。道の真ん中で立ち止まりすぎて、荷車にひかれそうになった」


「……カイらしいわね」


「そんなに?」


「今日も同じようなことをしてたでしょう」


「今日は道の端だったぞ」


「そこを自慢するところ?」


 二人で笑った。


 あの日は、この先で何が起きるか分からなかった。噂を追う以外に当てもなく、道を教えてくれる人がいるだけでありがたかった。


 今も帰り方は分からない。


 けれど、研究の話を終えたあとに、こんなふうに寄り道をしている。


 道の端でまた灯具が灯った。今度は別の店の入口を照らしている。青白い光の下を、買い物袋を持った人が通り過ぎていった。


 日本にいる家族にも、いつかこの街のことを話せるだろうか。


 栞にこの灯具を見せたら、どんな顔をするだろう。そんなことを考えていたら、少しだけ口元が緩んだ。


「何か面白いものでもあった?」


 ソフィアが聞く。


「いや。妹にも見せてやりたいなって」


「そうね」


 彼女はそれ以上は聞かなかった。


 少し歩いてから、ソフィアが通りの先を指さす。


「今度は、あっちの店にも行ってみない? 面白いものがあるの」


「研究がない日でも?」


「もちろん。……カイはその方がいい?」


「どっちもいいよ」


「じゃあ、決まりね」


 いつの間にか、ネリサさんたちの家へ続く通りまで来ていた。


 ソフィアはそこで足を止めた。


「私はこっちに行くわ。またね、カイ」


「ああ。また」


 彼女が角を曲がるのを見送ってから、俺も家へ向かった。


 玄関の前まで来ると、台所から鍋の蓋が鳴る音が聞こえた。窓には灯りがついている。


 戸を開けた途端、オルヴェンさんが奥から顔を出した。


「おっ、カイ。ちょうどいいところに帰ってきたな」


「何か手伝いますか?」


「その前に手を洗ってきなさい!」


 ネリサさんの声が飛んできた。


「はい!」


 荷物を置き、もう一度二人の方を見る。


「ただいま」

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