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断界アノマリア  作者: 来里 綴


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8/10

第8話 山の奥の扉

「こっちの上着にしなさい。山の方は冷えるでしょうから」


 ネリサさんが差し出したのは、俺が手に取ったものより少し厚い上着だった。


「そこまで寒いんですか?」


「知らないわよ。だから持っていくの」


「なるほど……」


 素直に着替えると、ネリサさんは満足したように頷いた。


 あの騒ぎからしばらく経ち、左手首はほとんど痛まなくなった。脇腹の傷も胸の打撲も、普通に歩くぶんには問題ない。ただ、身体を急にひねったときだけ、治りきっていないことを思い知らされる。


 今日は、ようやくソフィアの両親に会う日だった。


「帰りが遅くなるなら知らせてくれよ」


 奥から顔を出したオルヴェンさんが言った。


「はい。あの、今日も世話になります」


「何を今さら。それより、行き先で無理して働かされそうになったら断れよ」


「別に働きに行くわけじゃないですって」


「そうか? お前、気になるものがあるとつい首を突っ込むからな」


 否定しかけて、やめた。


 玄関の外にソフィアが立っていた。いつもの街歩きとは違い、丈夫そうな靴を履いている。


「準備できた?」


「ああ。お待たせ」


「まだ約束の時間には余裕があるわ」


 俺はネリサさんとオルヴェンさんに頭を下げた。振り返ると、二人ともまだ戸口に立っている。


 ここに帰る場所がある。寝込んでいた間、何度もありがたく思ったことだった。


 けれど、帰りたい場所はもう一つある。


 今度こそ、その手掛かりに近づけるかもしれない。






 馬車が領都を離れると、窓の外の建物が低くなり、やがて畑と林ばかりになった。


「ご両親の仕事場って、そんなに遠いのか?」


「山裾まで行くから、もう少しかかるわ」


「研究をしてるとは聞いたけど、どんな場所なんだ?」


 ソフィアはすぐには答えず、向かい側の窓を少しだけ閉めた。風で俺の髪が乱れているのに気づいたらしい。


「着いてから見てもらう方が早いと思う。それに、外で話せないこともあるから」


「……そういう場所なのか」


「怖がらせたいわけじゃないの。今日は入れるところが決まっている、というだけ」


 前にソフィアの家族が日本と何か関係しているらしいと聞いたときから、気になっていた。もしかすると、俺の知らないことを知っている人たちなのかもしれない。


 ただ、二度も襲われたあとで、すべてを気軽に教えてもらえるとは思っていない。


「ソフィアは、そこによく行くのか?」


「ええ。最近は街の用事が続いていたけれど、研究の記録を見に行くこともあるし、自分で観測を手伝うこともあるわ」


「手伝う、って……見学するだけじゃなくて?」


「私だって調べたいことくらいあるのよ」


 少しだけ不満そうな声だった。


「いや、そういう意味じゃないって。なんか、すごいなと思って」


「何が?」


「同い年なのに、もう研究してるんだなって」


「年齢だけで分けられるものでもないでしょう。できないこともたくさんあるけど、観測した結果を記録したり、前の記録と比べたりするのは私にもできるわ」


 言い終えてから、ソフィアは少し笑った。


「そういう地味な作業ばかりだと知ったら、がっかりするかもしれないわね」


「逆だよ。むしろ、何を調べてるのか気になる」


「それなら、今日は退屈しないと思う」


 いつもより少し楽しそうだった。


 馬車が石を踏んで大きく揺れた。俺が脇腹に手を当てると、ソフィアはすぐに表情を変える。


「痛んだ?」


「ちょっとだけ。平気」


「無理なら引き返すわよ」


「ようやくここまで来たんだ。会えるうちに、ご両親と話したい」


「……分かった。でも、痛いときは隠さないで」


 俺は頷いた。


 窓の外では、山の斜面が少しずつ近づいていた。






 馬車を降りて、拍子抜けした。


 目の前にあるのは、どう見ても工房だった。


 屋根の下では職人が金属を打ち、別の場所では石材を荷車に積んでいる。人の往来も盛んで、秘密の研究施設というより、街で見た大きな作業場に近い。


「……ここ?」


「ここ」


「もっと、こう……入った瞬間にすごい建物があるのかと」


「外からすごいと分かってしまったら、困るでしょう?」


 そう言われれば、その通りだった。


 ソフィアは慣れた足取りで建物の端へ向かった。途中ですれ違った作業服の女性が彼女に声をかける。


「ソフィアさん、久しぶりね」


「こんにちは。今日は父と母に会いに来たの。記録の続きは、また今度見せてください」


「分かったわ。そちらは?」


「今日の面会に招かれた友達よ」


 俺が会釈すると、女性も軽く頷いて仕事へ戻った。


 研究室の場所はまだ知らない。それでも、今のやり取りだけで、ソフィアがここの人たちと日頃から関わっていることは分かった。


 工房の奥の資材置場に入ると、彼女は声を落とした。


「ここから先は、本部の中よ」


 扉の横にいた係の人が帳面を開き、ソフィアの告げた名前と俺の名前を確認した。少し待ってから通行を認められる。


 開いた扉の向こうには、岩の中へ下りていく通路があった。


 ひんやりした空気が頬に触れる。背後で扉が閉じると、槌の音が遠のいた。


「ソフィア。ここ、初めて来た人が迷ったら大変そうだな」


「迷うようなところまで歩かせないわよ。私についてきて」


「頼もしいな」


「そう言って、気になるものを見つけて勝手に曲がらないでね」


 見抜かれている。


 下り坂の途中で、俺は古い壁に目を留めた。表面には工具で削ったような跡がない。新しくつけ足された支柱だけが、そこから浮いて見えた。


 地上の工房は、この下にあるものを隠すために造られたのだろうか。


 角を曲がると、通路の先から低い車輪の音が聞こえてきた。


 床に埋められた二本の金属の上を、荷台がゆっくり進んでいる。木箱と長い金属部品が積まれ、作業員たちが声をかけ合いながら別の区画へ運んでいた。


 線路みたいだ。


 思わず立ち止まった俺の視線を追い、ソフィアが言った。


「古代の搬送設備を、使えるところだけ直しているの。大型の試験装置や部品を運ぶのに必要だから」


「これも古代のものなのか」


「ええ。今の工房で作り直した部分も多いけれど」


 足元に目をやると、黒ずんだ金属と新しい部材とが継ぎ合わされていた。古いものをそのまま飾っているのではない。今も仕事に使われているのだ。


 少し進むと、休憩中らしい人々の声が聞こえた。奥には寝泊まりする区画もあるという。地下にいる人の数は想像していたより多い。


 ただ、ソフィアはそこを詳しく案内しようとはしなかった。


「まだ見せたい場所があるの。こっち」


 通路を折れ、さらに下へ向かう。


 それまでの石壁が途切れた。継ぎ目の分からない、滑らかな壁が続いていた。


 何で造られたのだろう。石にも金属にも見える。新しい灯りが取り付けられているが、壁そのものはもっと古い。


 俺が指を伸ばしかけると、ソフィアが軽く袖を引いた。


「触らない方がいいわ。表面が残っているだけで、何が内側を通っていたか分からないところもあるから」


 慌てて手を戻した。


「……先に言ってくれよ」


「今、言ったでしょう?」


 涼しい顔をしている。


 少し悔しいが、反論できない。






 次の通路へ出たとき、俺は言葉を失った。


 先ほどまでとは、空間そのものが違っていた。


 広い円形の床が、周囲の通路より一段低い場所に設けられている。その中心を囲むように幾重もの線が刻まれ、壁には黒い板が等間隔に並んでいた。天井は高く、見上げた先まで同じ材質が続いている。


 円の外側には古い台のようなものが並び、その一部に新しい計測器が据えられていた。


 目を引いたのは、古代の設備を囲む人々の落ち着いた動きだった。


 古びた設備の前で紙をめくる人。新しい器具の位置を調整する人。離れた場所で記録を読み上げる人。誰もこの光景を珍しがっていない。


 廃墟ではなかった。


 ここは、今も研究をする場所なのだ。


「カイ?」


 ソフィアが少し先で振り返る。


「……こんな場所が、残ってるのか」


 言いながら、まだ周囲を見ていた。


「古代の研究区画よ。観測と試験に使われていたと考えられているの。この一帯は、比較的形が残っているから」


 ソフィアの声には、さっきまでと違う熱があった。


「あの壁の板、何か映すものなのか?」


「記録や状態を示す設備だった可能性は高いわ。ただ、今は読み取れる部分が限られているの」


 彼女は通路沿いの一角を示した。


「ちょうど、そこを調べているところ」


 研究者の一人が顔を上げた。


「ソフィアじゃないか。今日は来ないと思っていたよ」


「父と母に会う前に寄ったの。前の観測はどうなった?」


「まだ揃わない。位置を変えると、同じ操作でも表示が出たり消えたりする」


「記録は?」


「ここに。昨日の分もある」


 差し出された紙をソフィアが受け取った。


 俺は目を丸くした。二人は俺の知らない話を、当たり前のように続けている。


「前に私が見たときは、左端だけが反応していたでしょう?」


「ああ。今日は中央寄りにも一度だけ出た」


「取り付けた器具は同じ?」


「同じものだ。少なくとも、こちらの記録ではね」


 ソフィアは紙と壁の板を見比べた。


「だったら、結果が変わった理由は器具の位置だけじゃないかもしれない。別の区画の状態も確認した方がいいと思う」


「そうだな。まずそこを揃えて、もう一度試そう」


 研究者が頷き、机に戻った。


 ソフィアはそこでようやく俺の方を見た。


「ごめんなさい。つい」


「いや……今の、普通に研究の相談だったよな」


「そうよ。何だと思ったの?」


「いや、なんというか、俺が知らないソフィアを見た気がした」


 彼女は一瞬きょとんとし、次に小さく笑った。


「街で一緒に歩いているときだけが、私の全部じゃないもの」


「そうだな」


 当たり前なのに、何だか新鮮だった。


「今の実験、ここから見てもいい?」


「通路からなら大丈夫。触れられる場所には入らないでね」


 ソフィアは研究者へ短く声をかけ、俺と並んで立った。


 壁の板の前では、器具が慎重に動かされている。


 しばらく、何も起こらなかった。


 研究者が記録を読み直す。もう一人が位置を測り、僅かに器具をずらした。


 その瞬間だった。


 黒い板の端に、細い光が走った。


 一本の線が現れ、すぐ隣に小さな点が灯る。


 消えた。


「……今の!」


 思わず声が出た。


 周囲の研究者たちも、一斉に板へ顔を向けていた。


「記録して。線と点、両方出た」


「時間は?」


「短い。前よりも短かったと思う」


 次の操作では、何も現れなかった。


 さっきまでのざわめきが静まり、紙をめくる音だけが響く。


 俺は目を離せなかった。


「ソフィア、さっきの、初めてなのか?」


「線だけなら何度か見ているわ。点が続いたのは……私は初めて見た」


 彼女も少し興奮していた。それでも、すぐに結論は口にしない。


「表示が増えたからといって、分かったことが増えたとは限らないの。古代の人が何を示そうとしたのか、まだ読めないから」


「でも、動いてるんだよな。何年も前のものが」


「ええ。それは確かよ」


 その返事が、妙に嬉しかった。


 見上げれば、円形の床も、壁の板も、誰かが何かを確かめるために造ったものだったのだろう。


 昔ここで何が行われていたのかは分からない。実験は成功したのか。記録を残した人たちは、何を知りたかったのか。


 全部、気になる。


 そのうえ、今の人たちは残った設備を調べ、何度も失敗しながら少しずつ手掛かりを集めている。


「こういうの、ずっと見てられそうだな」


「私も最初はそうだったわ」


「最初は?」


「実際は、記録を整理している時間の方が長いこともあるって、後で思い知ったの」


 得意げだった顔が少しだけ苦いものになった。


 俺は笑った。


「そっちは大変そうだ」


「大変よ。でも、前の記録に何もなかった場所で新しい反応が出ると、続けていてよかったと思う」


 言いながら、ソフィアはもう一度、黒い板を見た。その横顔は、さっきの小さな光よりも強く印象に残った。


 不意に、俺は右手を握っていることに気づいた。あの日、俺から伸びた刃も、エーテルの何らかの作用だった。


 自分で出したはずなのに、どうして形になったのかも、なぜ止まらなかったのかも知らない。目の前の設備とは違うけれど、分からないものを調べるという点では同じなのかもしれない。


 もう一度あの刃を出してみたい、とは思わなかった。


 それでも、知らないままでいいとは思えない。


「カイ」


 気づくと、ソフィアがこちらを見ていた。


「怖くなった?」


「少し。でも、それだけじゃない」


 俺は目を研究区画へ戻した。


「俺も、いつかちゃんと調べられるのかな。あのとき、何が起きたのか」


「それを決めるためにも、まず話を聞きたいんだと思う。お母さんたちは」


 俺は少し息を吐いた。何が起きたのか、覚えていることなら話せる。


 奥の方には、さらに厚い隔壁があった。こちらの区画とは違い、扉の前に立つ人影が見える。


「あっちは?」


「制限されている区画よ。危険な試験や未解析のものを扱う場所があるの。私も、入れるところは限られてる」


「ここだけでも十分すごいのに、まだ先があるのか……」


 ソフィアは肯定も否定もせず、少しだけ肩をすくめた。


「今日はここまで。そろそろ時間よ」


「あと五分……って言っても駄目か?」


「私ももう少し見たいけど、両親を待たせる方が困るでしょう」


 それは確かに困る。


 未練を残したまま、研究区画を離れた。






 廊下に出ると、急に静かになった。


 さっきまでの光景が頭から離れない。研究者たちの声、壁の板に現れた線と点、記録を見つめるソフィアの真剣な顔。


 馬車の中では、どんな場所へ連れていかれるのかと考えていた。


 今は、もう一度あの場所を見られるだろうかと考えている。


「カイ、こちらよ」


 ソフィアが一つの扉の前で止まった。


 ここまでの通路と比べると、何でもない部屋の入口に見える。


「……ご両親、怖い人じゃないよな?」


「怖い人だったら、私が連れてこないわ」


「そりゃそうか」


「でも、聞かれたことには自分の言葉で答えてね。私が代わりに話すわけにはいかないから」


「ああ。そのつもりだよ」


 ソフィアが扉を叩いた。


 中から返事があり、扉が開く。


 机を挟んで立っていた二人が、こちらに顔を向けた。


「お父さん、お母さん。カイを連れてきたわ」


 男性の方が先に歩み寄り、俺の前で足を止めた。思っていたよりも気さくな笑顔だった。


「君がカイか。セリオン・イチノセだ。会えてよかった」


「霜鳥櫂です。今日はお時間をいただいて、ありがとうございます」


「こちらこそ。身体はもう大丈夫なのかい?」


「はい。まだ少し痛むことはありますけど、普通に動けます」


 女性が静かに立ち上がった。


「リセリア・イチノセです。遠いところまで来てくれてありがとう。まずは座って、少し休んで」


 彼女が勧める椅子に向かいながら、俺は廊下の方を一度だけ振り返った。壁の奥には、昔の人が残した実験の場所がある。


 そして目の前には、今そこで何かを確かめようとしている人たちがいる。俺は椅子を引いた。


 帰る方法を探しに来たこの世界で、ようやく会いたかった人たちと向き合う。

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