第7話 何も起きなかった
目を開けると、いつもの木目が見えた。
見知った天井だった。窓の脇に置いた自分の荷物も、そのままの場所にある。ここはネリサさんとオルヴェンさんの家で、俺が借りている部屋だ。
それが分かっても、すぐには身体を起こせなかった。
胸の下が鈍く痛む。息を深く吸おうとすると、左の脇腹まで引きつれるようだった。布団から出ている右手を動かし、指を一本ずつ握ってみる。
何も起きない。
もう一度、手を開いた。掌には傷らしい傷もなく、いつもと同じ五本の指がある。
あの剣は。
俺の手の先から荷置き場の棚へ伸びていた細長い光がよみがえった。鋼の折れる音、裂ける板、呼びかけるソフィアの声。そこから先は、思い出そうとしても何も出てこない。
俺はどれくらい眠っていたんだろう。
扉の向こうで足音が止まった。
「カイ?」
返事をするより先に、ネリサさんが顔をのぞかせた。手にしていた布を棚へ置くと、こちらへ歩いてくる。
「起きたのね。気分はどう?」
「……まだ、ちょっと」
声を出すと喉が乾いているのに気づいた。
「水、飲める?」
「お願いできますか」
ネリサさんは枕元の器を取り、俺が上体を起こそうとするのを見て、その手を止めた。
「待って。そのままだと傷に響くわ。背中、支えるから」
手を貸してもらい、ようやく枕に寄りかかる。水を一口飲んだだけで、自分が思っていた以上に疲れていることが分かった。
脇腹には新しい布が巻かれていた。上着も着替えさせてもらったらしい。
「ここへ、どうやって戻ったんですか」
「通りにいた人たちが運ぶのを手伝ってくれたの。いったん傷を見てもらって、それからここへ。昨日のことよ」
昨日。
気を失ってから、もう一晩が過ぎていた。
そう聞いて最初に浮かんだのは、自分の傷のことではなかった。
「ソフィアは?」
「無事よ。あなたを運ぶときもそばにいたし、昨日は何度も様子を聞いてきたわ」
胸が緩んだ途端、打たれたところに痛みが走った。
俺が顔をしかめると、ネリサさんは器を受け取って枕元へ戻した。
「傷が痛むなら、無理に話さなくていいの。でも、一つだけ聞かせて。あの通りで、何があったの?」
答えようとして口を開いた。
ソフィアを連れていこうとした男がいた。剣を抜かれた。逃げようとしたけれど、風に足を取られた。
そこまでは説明できる。
その先をどう話せばいいのか、分からなかった。
「俺も、全部は……。あの男が剣を持ってて、ソフィアを捕まえようとして。それを止めようとしたんですけど」
「それで?」
「途中から、何が起きたのか自分でも分からなくなって」
右手に目を落とす。
「俺の手の前に、剣みたいなものが出たんです。あいつの剣が折れて……それから、木の棚が壊れて。止めたかったんですけど、止まらなくて」
ネリサさんは途中で口を挟まなかった。
最後まで聞くと、布団の端を整えながら言った。
「そこまでは、あの子からも聞いてる。あなたがどうしたつもりだったかは、初めて聞いたわ」
叱られると思ったわけじゃない。それでも、言葉が出なかった。
「店まで知らせが来たとき、剣を持った男がいるとしか分からなかったの。あなたが運ばれてきて、顔を見てもなかなか目を開けないから……」
ネリサさんはそこで話を切り、俺の方へ視線を戻した。
「今、目を覚ましてくれてよかった。それはちゃんと伝えておきたい」
「心配かけて、すみません」
「心配はしたわ。そこは謝られたら終わり、というものでもないのよ」
責める声ではなかった。
そのとき、廊下からオルヴェンさんが顔を出した。
「起きたって?」
「今、水を飲んだところ。まだ痛むみたい」
「そりゃそうだろうな」
オルヴェンさんはベッドの脇に来て、何か言おうとして口を閉じた。代わりに布団の端へ視線を落とす。
「……おかえり、カイ」
普段ならもっと大きな声で言いそうな人だった。
「ただいま、でいいんですかね」
「ここに帰ってきたんだから、いいだろ」
それだけ言ってから、オルヴェンさんは少し表情を緩めた。
「食べられそうなら、あとで何か持ってくる。無理なら無理で言ってくれ。今日はどっちにしろ、起きて仕事をする日じゃない」
「仕事するつもりは……ないです」
「昨日までのお前なら、そう言いながら外に出る心配があったんだよ」
その言い方に、ようやく少し笑えた。笑うと脇腹が痛んで、すぐ顔をしかめることになったけれど。
オルヴェンさんが眉を寄せる。
「ほら、そうなる。しゃべるのもほどほどにしろ」
「さっきから、そっちの方がしゃべってるでしょ」
ネリサさんが言うと、オルヴェンさんは返す言葉を探すように口を開き、結局、部屋を出ていった。
廊下を歩く音が遠ざかる。
ネリサさんも器を手に立ち上がったが、扉のところで振り返った。
「ソフィアが来たら、話せるかどうか聞いてから通すわ。会いたくなければ、今日は断っていいから」
「会いたいです。俺も、確かめたいことがあるので」
ネリサさんは頷き、扉を静かに閉めた。
部屋が静かになると、思った以上に耳が落ち着かなかった。街の通りから聞こえる荷車の音。隣の部屋で誰かが物を置く音。どれも、昨日までは気にも留めなかったものだ。
俺はもう一度右手を持ち上げた。
何もない。
何も出てこない。
それを見て安心したはずなのに、次にあの力が出たときも、何もできないままだったらどうしようと考えてしまった。
しばらくして、窓の外の明るさが少し変わった頃、扉が控えめに叩かれた。
「カイ、入ってもいい?」
ソフィアだった。
「どうぞ」
彼女はいつもの外出着のまま、扉から顔をのぞかせた。手には何も持っていない。俺を見ると足を速めかけたが、寝台のそばで立ち止まった。
「目を覚ましたって聞いて……本当によかった」
そう言って笑おうとした顔は、すぐに元へ戻った。眠れていないのか、目元に少し疲れが見える。
「心配かけたな」
「ええ。かなり」
はっきり言われ、返事に詰まった。
「でも、意識が戻って本当によかったわ」
ソフィアは椅子を引いた。座ってからも、しばらく俺の顔を見ていた。
「傷は?」
「脇腹と胸が痛い。左手首もまだ治ってないけど、そこは前からだし」
「そう。あまり動かさない方がよさそうね」
俺は頷いてから、聞きたかったことを口にした。
「あのあと、何があった?」
「どこまで覚えているの?」
「男が逃げたのは見た。棚がまだ壊れてて、俺は止めようとしたけど、動けなくなって……そこまで」
ソフィアは両手を膝の上で重ねた。
「あなたが倒れたあと、あの刃の輪郭が崩れていったの。棚が割れる音も、少しして止まったわ」
俺は息を止めかけた。
「止まったのか」
「ええ。ただ、すぐには近づけなかった。壊れた棚は熱を持っていたし、破片も散っていたから。あなたのそばまで行けると確かめてから、人を呼んだの」
「ほかの人、巻き込まれなかった?」
「私が見た範囲では、あの場所にいた人たちは通路の入口で止まってくれた。大きな怪我をした人がいるとは聞いていない。でも、現場を全部確かめられたわけじゃないわ」
言葉を選んでいるのが分かった。
無事だと断言してほしかった。けれど、ソフィアが見ていないことまで知っているふりをしないのは、俺にも分かる。
「壊れた棚は、そのまま?」
「傷んだ木を誰かが触って怪我をしないように、近づかないでほしいとは伝えたわ。現場の人が確認することになってる」
昨日、俺が壊したものは、まだそこにある。
それを思うと、胸の下とは違う場所が重くなった。
「俺、あんなことをするつもりじゃなかったんだ」
「分かってる。あなた、ずっと止めようとしてたもの」
「でも、結果は変わらないだろ。剣だけじゃなくて、棚まで壊した。誰かが通りかかってたら……」
続きを言えずにいると、ソフィアが俺の右手を見た。
「私も怖かったわ」
顔を上げる。
「帯が外れて、もう逃げられると思ったのに、あなたの方を見ると剣が迫っていて。あの光が出たときも、駆け寄りたかった。でも、足が動かなかったの」
彼女は膝の上で指を握りしめた。
「だから、通りの人に近づかないでって叫んだ。ほかに何をすればいいのか、分からなかった」
「それで助かったよ。誰かが近づいてたら、どうなってたか……」
「あなたが倒れたときだって、すぐそばへ行けなかったのよ」
そこでソフィアは言葉を止めた。何か言おうとして唇を開いたが、いったん閉じる。
「……あの男に連れていかれずに済んだのは、カイが何度も止めようとしてくれたからよ。それは忘れないわ」
「でも、壊したのは俺だ」
「壊れたもののことは、これから確かめないと。でも、あなた一人が、全部を引き受けたことにしないで」
返す言葉が見つからなかった。
助けようとしたことは、間違いじゃなかったと思う。
それでも、あの刃のことを考えると、そう簡単には胸を張れない。自分の手から出たものなのに、壊れていく棚を見ているしかなかった。
言葉を探しているうちに呼吸が浅くなった。胸の下が痛み、身体を起こしかけたまま動けなくなる。
「カイ、もう休みましょう」
「……少しだけ。まだ聞きたいことがある」
俺が枕へ背中を戻すと、ソフィアは座り直した。何度かゆっくり息を吐いてから、話を続ける。
「なあ、あれが何だったか分かる?」
「エーテルが作用していたのは分かったわ。あなたが止めようとしても、あの刃から周囲へ力が伝わり続けていたことも。でも、どうしてあんな形になったのか、どこから力が供給されていたのかまでは……私にも分からない」
「俺も、どうやって出したのか分からない」
そう口にすると、改めて気味が悪かった。
「小さい頃に見た剣を思い出したんだ。似た形のものがあって……。あんなふうに誰かを守れたらって、ずっと思ってた」
ソフィアは黙って聞いていた。
「でも、見た目が似てるだけで、全然違った。あのときは、俺の前にいた人が使いこなしてた。俺は、出すことすら知らなかったのに、止めることもできなかった」
「その人に、何か教わっていたの?」
「身の守り方を少し。立ち方とか、足の動かし方とか。剣の出し方なんて、教わってないよ」
「そうなのね」
それ以上は尋ねられなかった。
俺も、説明できることが少なすぎた。誰かに話せばあの現象の正体が分かるんじゃないかという期待が、どこかにあった。でも、ソフィアの話を聞いても、分からないことが増えただけだった。
窓の外で人の声がした。
ソフィアはそちらへ目を向け、すぐに戻した。
「両親には、私から昨日のことを伝えたわ。二人とも、あなたの怪我を心配していた」
「……面会の話は?」
「覚えてたのね」
「忘れるようなことじゃないだろ。俺の方から頼んだんだから」
ソフィアの口元が、少し緩んだ。
「もともと日本の話を聞きたがっていたし、今回のことも直接確かめたいみたい。ただ、今すぐ来てほしいとは言っていないわ。まずは治してほしいって」
俺は包帯の巻かれた脇腹を見た。立ち上がることさえできないのに、会って何を話せるだろう。
けれど、あの男のことも、この手の先で起きたことも、知らないままでいいとは思えなかった。
「会えるようになったら、俺から話したい。ソフィアが見たことと、俺が覚えてることは違うだろうし」
「ええ。私も、分からなかったことは分からないって話すわ」
それを聞いて、少し安心した。
ソフィアが立ち上がる。
「今日はここまでにしましょう。ネリサさんに、長く話しすぎないように言われていたの」
「そっちも、ちゃんと休めよ。疲れてるだろ」
「カイほどじゃないわ」
「比べることじゃないって」
彼女は小さく笑った。
扉を開けかけてから、こちらを振り返る。
「また来てもいい?」
「もちろん。話してくれて助かった」
「それなら、また」
扉が閉まり、部屋には静けさが戻った。俺は右手を布団の上へ置いた。
昨日、あの手を伸ばしていなければ、ソフィアは連れていかれていたかもしれない。だが、伸ばした先に何が現れるのか、今も分からない。
帰る方法を探してこの街へ来たはずなのに、自分自身について確かめなければならないことが増えてしまった。
机の上には、途中まで書き込んだ調査の紙が置かれている。着替えのとき、懐から出して置いてくれたらしい。まだ訪ねていない店の名に印をつけたままになっていた。
あの続きを調べるのも、傷が治ってからだ。
俺はもう一度、掌を開いてみた。
何も起きなかった。
今は、それでよかった。




