↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
断界アノマリア  作者: 来里 綴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/9

第6話 手を伸ばした先

 男の肩が動いた。


 剣先がまっすぐ胸へ伸びてくる。避けようとしたが、右足が石畳に縫いつけられたように動かなかった。脇腹の傷をかばって肩を引く。それだけで精いっぱいだった。


 刃が上着の胸元を裂き、耳のすぐ横で板壁が割れた。俺の脇を抜けた剣が、壁に突き立っている。


 ほんの少し、肩を引くのが遅れていたら。


 喉の奥から息が漏れた。吸い直そうとしても、胸を打たれたところが痛む。壁のささくれが頬に触れているのに、顔を背けることさえできなかった。


 男が剣を引き抜くと、細かな木片が足元へ散った。先ほどから何度も逃げ道を探していた。もう、そのどれも通用しないと分かっている。


「まだ退かねえのか」


 答えられなかった。目の前の剣から視線を外すと、次は本当に斬られる気がした。


 男は片手で剣を戻し、もう片方の手で帯を引いた。ソフィアの肩が引っ張られ、彼女が短く息をのむ。


 それでもソフィアは抵抗して踏ん張るのではなく、男の方へ半歩寄った。帯のかかった腕を身体に引きつけ、肩を低くする。


 何をしているんだ。逃げるなら離れなければならないのに。


 だが、引かれる力を受け止めなくなった分、帯が少し緩んでいた。ソフィアは上腕を下げ、肩から背中へ回っている布を指で押さえて、服との間に隙間を作ろうとしている。


 男が帯を引き直すと、彼女の身体がぐらついた。


「大人しくしろ」


 ソフィアは答えず、引かれた方向へもう一歩出た。男の帯を持つ腕が曲がる。その瞬間に肩を落とし、輪の内側から腕を抜こうとした。


 布がずれた。


「おい!」


 男が帯を握ったまま、ソフィアの上腕をつかもうとする。伸びてきた指が袖にかかり、布を引っ張った。


「放して!」


 ソフィアは身体をひねり、肩をさらに下げた。帯がずり落ち、袖も男の指から抜ける。


 彼女は積み荷の方へ身を投げ出し、木箱の陰に膝をついた。そのまま箱に手をつき、男から距離を取ろうと横へ移る。


 ようやく、息が少し戻った。


「ソフィア!」


「大丈夫。カイ、あなたも――」


 声が途切れた。男が俺へ剣を向け直したからだ。


 帯はもうソフィアの身体から外れている。男が握る端だけが残り、長い布が剣を持つ腕の下へ垂れ下がっていた。


 木箱の陰まで逃れたソフィアを目で追おうとして、胸の前の剣先に視線を戻された。男は彼女の方へ身体を斜めに向けたまま、それでも剣を握る腕だけは俺に突きつけている。


 ソフィアを追いかけるにも、俺がここから逃げるにも、あの剣が邪魔だった。市場から人の声が近づいているが、誰かが間に入ってくれるまで持ちこたえられるか分からない。


 男の向こうには荷置き場の古い木棚が見える。あそこまで走り抜けられれば別の通りへ出られるかもしれないが、男の横を通り抜けられるはずがなかった。


「いい加減にしろ。次は外さねえぞ」


 剣先が持ち上がる。


 さっきの突きだって、外してくれたわけじゃない。俺が必死に息を整える間にも、相手はソフィアの動きまで見ている。足をずらすだけでこちらの進路を消し、剣を引けばもう次の攻撃に移れる。


 助けは呼んだ。向こうの通りから声も返ってきた。それでも、誰かが駆けつけるまで持ちこたえられるかは分からない。


 俺は右手を上げた。素手で剣を止められるはずがない。ただ、身体と刃のあいだに何かを置きたかった。


 脇腹から血がにじみ、胸は息をするたびに痛む。左手首にも力が入らない。ソフィアを助けるどころか、今は自分の身体を支えるのがやっとだった。


 男はまだ踏み込んでこない。剣先を胸に合わせたまま、俺がどちらへ動くかを見ている。下がることも、脇を抜けることもできない。次に切っ先がどこへ来るかは分かる。けれど、分かることと避けられることは違う。


 差し出した右手を見たとき、不意に、幼い頃の光景がよみがえった。


 神社の石段。そこにいたのは朱奏だった。


 小さな頃から何をするにも一緒だった朱奏が、見知らぬ大人に捕まっていた。俺は彼女の腕を両手で引き、何とか連れて逃げようとしていた。


 確か、一瞬だけ拘束が緩んだ。どうしてそうなったのかは、今でも分からない。それでも俺たちは逃げ切れず、もう一度押さえ込まれた。


 朱奏の手を離したくなかった。けれど、子供の力ではどうにもならなかった。


 そのとき駆けつけてくれたのは、俺たちの寄り道にも笑って付き合い、神社の古い話を一緒に面白がってくれた、あの人だった。


 いつもなら真っ先に何か言って笑いそうな人が、何も言わずに俺たちの前へ出た。


 片足を斜めに引く。その立ち方は、後になって教わった姿勢と同じだった。俺と朱奏を背中にかばい、相手から目を離さず、静かに片手を上げる。


 何もないはずの場所に、細い剣が現れた。


 最初は剣だと分からなかった。向こうの石段が透けて見えるのに、細い刀身の輪郭だけははっきりしている。陽の当たり方で淡く揺らいでも、切っ先がぶれることはなかった。


 あの人は大きく振り回したりしなかった。一歩横へ動けば相手の進路が塞がり、俺たちの前へ出れば、そこに逃げ道ができる。その背中を見て初めて、俺は朱奏の手を引いて動くことができた。


 助かったあとも、あの剣を忘れられなかった。何度も足の置き方をまねしたし、どうしてあんなものが手の先に現れるのかと、繰り返し尋ねた覚えがある。


 結局、俺には作れなかった。今だって、作り方なんて知らない。


 それでも、あのとき目の前にあった刃の形だけは覚えている。記憶の中の細い剣が、迫ってくる鋼と重なった。


 あのときは、あの人が間に入ってくれた。


 今は、誰もいない。


 石畳を蹴る音がして、記憶が途切れた。


 男が踏み込んでくる。剣先が胸へ迫るのとほとんど同時に、俺は右手を突き出した。


 間に合え。


 握った指の中には何もなかった。それなのに、掌の奥を無理やり引っ張られるような感覚が走り、身体の芯がひやりと冷えた。


「……っ!」


 次の瞬間には、焼けつくような熱が腕を駆け上がっていた。指を開こうとしても力が入らず、伸ばした手の前で空気が大きくゆがむ。


 刃が届くまでのほんの一瞬が、奇妙に長く感じられた。


 細い筋が一本浮かび、すぐに消えた。別の筋が現れると、今度はその周囲へ何本もの筋が押し寄せた。互いにぶつかって弾け、散ったかと思えば、また同じ場所へ集まってくる。


 耳の奥で、ひどく高い音が鳴った。金属の響きとは違う、歯を食いしばっても頭の中へ入り込んでくるような音だった。


 目の前に細長い輪郭ができた。


 剣だ。


 あのとき見たものと、形は似ている。けれど、記憶の刃は静かだった。


 今、俺の手の前にあるものは、何かが無理にその形へ押し込められているようだった。縁が波打ち、先端が裂ける。そこへ新しい光の筋が流れ込み、乱暴につながり直した。細くなった部分が一瞬で膨らみ、また削れるように細くなる。


 刃の形をしているのに、その内側では何かが絶えず流れ、暴れていた。


 俺は何もしていない。


 いや、何かをしている。身体の奥からその刃へ引きずり出されていくような感覚があった。


 止めようとしたが、止まらない。


 男の剣が目前に迫った。


 俺の前の刃が鋼に触れた瞬間、凄まじい音が弾け、剣身の手元に近い部分が横へ押し戻された。男の握る手が跳ね上がり、腕が無理な方向へ引かれる。


「がっ……!」


 男が声を漏らした直後、鋼が途中から折れた。破片が石畳を跳ね、男は傷めた手を押さえてよろめく。握っていた柄には、根元近くの短い剣身しか残っていなかった。


 折ったのか、俺が。


 右手を引こうとする。肘は曲がったが、前方へ伸びた輪郭は消えず、腕の動きから遅れるようにゆがんでは、元の方向へ押し戻される。


 男の手元から垂れていた帯が、その揺らぎに触れた。


 布が縮み、たちまち黒く変わる。帯は途中から切れて石畳へ落ちた。


 狙ったわけじゃない。俺はただ、手を引っ込めたかっただけだ。


 しかし刃の先は、まだ伸びていた。男が折れた剣をかばって横へよろめき、その向こうの荷置き場へ細い揺らぎが突き抜けていく。ソフィアが隠れた木箱とは反対側だ。


 人の姿が見えない古い棚の横板に、白い傷が走ったかと思うと、木がはじけ飛んだ。乾いた音がいくつも重なり、破片が棚の奥へ散る。焦げた匂いが鼻を刺し、続けて奥の板囲いまで裂けた。


「……やめろ!」


 思わず叫んだ。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 指を閉じて、開く。腕を下げようとしても、手の先のものは収まらない。それどころか、乱れた縁から筋が飛び出し、刃の幅がふいに膨らんだ。奥の横板がもう一本、音を立てて折れる。


 震えているのは俺の腕なのか、それとも目の前の刃なのか。胸の奥に重いものがのしかかり、身体中の力が少しずつ抜けていくのに、そこへ流れ込む何かの勢いだけは弱まらなかった。


 剣が折れた瞬間は助かったと思った。今は、誰かがあの棚の方へ来てしまうことが怖い。


 俺は、何を作ってしまったんだ。


「カイ!」


 ソフィアが箱の陰から身を起こしかけ、俺の手元を見て足を止めた。壊れた棚と刃とを見比べ、目を凝らしている。


「まだ続いてる……! カイ、そこから動かないで!」


「止めたいんだ……! でも、どうやって……!」


 言い終える前に輪郭が大きく波打ち、空気が押し出されるような音がした。棚に残った板が軋む。


 ソフィアは俺へ駆け寄ろうとした足を引き、通路の入口へ向けて声を張り上げた。


「入ってこないで! まだ危ないわ!」


 近づいていた足音が止まった。


 男も後ずさっていた。剣を持っていた手を反対の手で押さえ、赤く腫れた指を動かそうとして顔をしかめる。


 折れた剣、使い物にならなくなった帯。それから木箱の陰にいるソフィアへと、男の視線が動いた。


 彼女の腕には、もう何もかかっていない。


 男は一歩そちらへ出かけたが、すぐに足を止めた。俺の前ではまだ、剣とも光ともつかないものが荒れ狂っている。


 向こうの通りから、何人もの声が近づいてきた。


「何があった!」


「剣を持った男がいる!」


 男は俺とソフィアを見比べた。初めて会ったときから崩れなかった落ち着いた目つきは、もう消えていた。


「……ちっ」


 傷めた手をかばいながら後退すると、男は反対側の通りへ駆け出した。


 追うことなど考えられなかった。ソフィアが捕まらずに済んだと分かり、ようやく身体の力が抜けかけた。


 だが、まだ終わっていない。


 男が去ったあとも、棚の木が割れた。破片が空の荷置き場へ散り、焦げた匂いが強くなる。


 もし誰かが入ってきたら。これが別の方へ向いたら。


「カイ、あの人はもういないわ! だから、もう無理しないで!」


「無理なんか……してない……!」


 言い終えて口を閉じると、声を出しただけで息が切れていた。踏ん張っているはずの足も、小さく震えている。


 右手を握りしめ、手首を返す。何もつかんでいない掌には、離すものさえないのに、刃の形は消えてくれなかった。腕を動かすたびに先端が揺れ、板囲いの傷が広がる。


 動かすのが怖くなった。


 俺は腕を伸ばしたまま、固まった。


 胸が痛み、脇腹が熱を持っている。足の裏から感覚が少しずつ遠のき、視界の端が暗くなってきた。


 止め方も分からないまま、これを止めなければと思い続けていた。


 膝が折れた。背中が板壁を擦り、身体がずるずると下がる。それでも、右手だけは前へ伸ばしていた。


 ソフィアが何かを叫んでいる。


 顔を上げようとすると、目の前で刃の輪郭が裂け、またつながった。


 幼い頃に見た、まっすぐで静かな細い剣。同じ形を思い出したはずなのに、こんなにも違う。


 指先の感覚が消え、腕が落ちた。


 目の前の輪郭が、ふっとほどけたように見える。けれど、本当に消えたのか確かめることはできなかった。


 ソフィアが俺の名前を呼ぶ。


 返事をしようとして――何も見えなくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。