第6話 手を伸ばした先
男の肩が動いた。
剣先がまっすぐ胸へ伸びてくる。避けようとしたが、右足が石畳に縫いつけられたように動かなかった。脇腹の傷をかばって肩を引く。それだけで精いっぱいだった。
刃が上着の胸元を裂き、耳のすぐ横で板壁が割れた。俺の脇を抜けた剣が、壁に突き立っている。
ほんの少し、肩を引くのが遅れていたら。
喉の奥から息が漏れた。吸い直そうとしても、胸を打たれたところが痛む。壁のささくれが頬に触れているのに、顔を背けることさえできなかった。
男が剣を引き抜くと、細かな木片が足元へ散った。先ほどから何度も逃げ道を探していた。もう、そのどれも通用しないと分かっている。
「まだ退かねえのか」
答えられなかった。目の前の剣から視線を外すと、次は本当に斬られる気がした。
男は片手で剣を戻し、もう片方の手で帯を引いた。ソフィアの肩が引っ張られ、彼女が短く息をのむ。
それでもソフィアは抵抗して踏ん張るのではなく、男の方へ半歩寄った。帯のかかった腕を身体に引きつけ、肩を低くする。
何をしているんだ。逃げるなら離れなければならないのに。
だが、引かれる力を受け止めなくなった分、帯が少し緩んでいた。ソフィアは上腕を下げ、肩から背中へ回っている布を指で押さえて、服との間に隙間を作ろうとしている。
男が帯を引き直すと、彼女の身体がぐらついた。
「大人しくしろ」
ソフィアは答えず、引かれた方向へもう一歩出た。男の帯を持つ腕が曲がる。その瞬間に肩を落とし、輪の内側から腕を抜こうとした。
布がずれた。
「おい!」
男が帯を握ったまま、ソフィアの上腕をつかもうとする。伸びてきた指が袖にかかり、布を引っ張った。
「放して!」
ソフィアは身体をひねり、肩をさらに下げた。帯がずり落ち、袖も男の指から抜ける。
彼女は積み荷の方へ身を投げ出し、木箱の陰に膝をついた。そのまま箱に手をつき、男から距離を取ろうと横へ移る。
ようやく、息が少し戻った。
「ソフィア!」
「大丈夫。カイ、あなたも――」
声が途切れた。男が俺へ剣を向け直したからだ。
帯はもうソフィアの身体から外れている。男が握る端だけが残り、長い布が剣を持つ腕の下へ垂れ下がっていた。
木箱の陰まで逃れたソフィアを目で追おうとして、胸の前の剣先に視線を戻された。男は彼女の方へ身体を斜めに向けたまま、それでも剣を握る腕だけは俺に突きつけている。
ソフィアを追いかけるにも、俺がここから逃げるにも、あの剣が邪魔だった。市場から人の声が近づいているが、誰かが間に入ってくれるまで持ちこたえられるか分からない。
男の向こうには荷置き場の古い木棚が見える。あそこまで走り抜けられれば別の通りへ出られるかもしれないが、男の横を通り抜けられるはずがなかった。
「いい加減にしろ。次は外さねえぞ」
剣先が持ち上がる。
さっきの突きだって、外してくれたわけじゃない。俺が必死に息を整える間にも、相手はソフィアの動きまで見ている。足をずらすだけでこちらの進路を消し、剣を引けばもう次の攻撃に移れる。
助けは呼んだ。向こうの通りから声も返ってきた。それでも、誰かが駆けつけるまで持ちこたえられるかは分からない。
俺は右手を上げた。素手で剣を止められるはずがない。ただ、身体と刃のあいだに何かを置きたかった。
脇腹から血がにじみ、胸は息をするたびに痛む。左手首にも力が入らない。ソフィアを助けるどころか、今は自分の身体を支えるのがやっとだった。
男はまだ踏み込んでこない。剣先を胸に合わせたまま、俺がどちらへ動くかを見ている。下がることも、脇を抜けることもできない。次に切っ先がどこへ来るかは分かる。けれど、分かることと避けられることは違う。
差し出した右手を見たとき、不意に、幼い頃の光景がよみがえった。
神社の石段。そこにいたのは朱奏だった。
小さな頃から何をするにも一緒だった朱奏が、見知らぬ大人に捕まっていた。俺は彼女の腕を両手で引き、何とか連れて逃げようとしていた。
確か、一瞬だけ拘束が緩んだ。どうしてそうなったのかは、今でも分からない。それでも俺たちは逃げ切れず、もう一度押さえ込まれた。
朱奏の手を離したくなかった。けれど、子供の力ではどうにもならなかった。
そのとき駆けつけてくれたのは、俺たちの寄り道にも笑って付き合い、神社の古い話を一緒に面白がってくれた、あの人だった。
いつもなら真っ先に何か言って笑いそうな人が、何も言わずに俺たちの前へ出た。
片足を斜めに引く。その立ち方は、後になって教わった姿勢と同じだった。俺と朱奏を背中にかばい、相手から目を離さず、静かに片手を上げる。
何もないはずの場所に、細い剣が現れた。
最初は剣だと分からなかった。向こうの石段が透けて見えるのに、細い刀身の輪郭だけははっきりしている。陽の当たり方で淡く揺らいでも、切っ先がぶれることはなかった。
あの人は大きく振り回したりしなかった。一歩横へ動けば相手の進路が塞がり、俺たちの前へ出れば、そこに逃げ道ができる。その背中を見て初めて、俺は朱奏の手を引いて動くことができた。
助かったあとも、あの剣を忘れられなかった。何度も足の置き方をまねしたし、どうしてあんなものが手の先に現れるのかと、繰り返し尋ねた覚えがある。
結局、俺には作れなかった。今だって、作り方なんて知らない。
それでも、あのとき目の前にあった刃の形だけは覚えている。記憶の中の細い剣が、迫ってくる鋼と重なった。
あのときは、あの人が間に入ってくれた。
今は、誰もいない。
石畳を蹴る音がして、記憶が途切れた。
男が踏み込んでくる。剣先が胸へ迫るのとほとんど同時に、俺は右手を突き出した。
間に合え。
握った指の中には何もなかった。それなのに、掌の奥を無理やり引っ張られるような感覚が走り、身体の芯がひやりと冷えた。
「……っ!」
次の瞬間には、焼けつくような熱が腕を駆け上がっていた。指を開こうとしても力が入らず、伸ばした手の前で空気が大きくゆがむ。
刃が届くまでのほんの一瞬が、奇妙に長く感じられた。
細い筋が一本浮かび、すぐに消えた。別の筋が現れると、今度はその周囲へ何本もの筋が押し寄せた。互いにぶつかって弾け、散ったかと思えば、また同じ場所へ集まってくる。
耳の奥で、ひどく高い音が鳴った。金属の響きとは違う、歯を食いしばっても頭の中へ入り込んでくるような音だった。
目の前に細長い輪郭ができた。
剣だ。
あのとき見たものと、形は似ている。けれど、記憶の刃は静かだった。
今、俺の手の前にあるものは、何かが無理にその形へ押し込められているようだった。縁が波打ち、先端が裂ける。そこへ新しい光の筋が流れ込み、乱暴につながり直した。細くなった部分が一瞬で膨らみ、また削れるように細くなる。
刃の形をしているのに、その内側では何かが絶えず流れ、暴れていた。
俺は何もしていない。
いや、何かをしている。身体の奥からその刃へ引きずり出されていくような感覚があった。
止めようとしたが、止まらない。
男の剣が目前に迫った。
俺の前の刃が鋼に触れた瞬間、凄まじい音が弾け、剣身の手元に近い部分が横へ押し戻された。男の握る手が跳ね上がり、腕が無理な方向へ引かれる。
「がっ……!」
男が声を漏らした直後、鋼が途中から折れた。破片が石畳を跳ね、男は傷めた手を押さえてよろめく。握っていた柄には、根元近くの短い剣身しか残っていなかった。
折ったのか、俺が。
右手を引こうとする。肘は曲がったが、前方へ伸びた輪郭は消えず、腕の動きから遅れるようにゆがんでは、元の方向へ押し戻される。
男の手元から垂れていた帯が、その揺らぎに触れた。
布が縮み、たちまち黒く変わる。帯は途中から切れて石畳へ落ちた。
狙ったわけじゃない。俺はただ、手を引っ込めたかっただけだ。
しかし刃の先は、まだ伸びていた。男が折れた剣をかばって横へよろめき、その向こうの荷置き場へ細い揺らぎが突き抜けていく。ソフィアが隠れた木箱とは反対側だ。
人の姿が見えない古い棚の横板に、白い傷が走ったかと思うと、木がはじけ飛んだ。乾いた音がいくつも重なり、破片が棚の奥へ散る。焦げた匂いが鼻を刺し、続けて奥の板囲いまで裂けた。
「……やめろ!」
思わず叫んだ。誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
指を閉じて、開く。腕を下げようとしても、手の先のものは収まらない。それどころか、乱れた縁から筋が飛び出し、刃の幅がふいに膨らんだ。奥の横板がもう一本、音を立てて折れる。
震えているのは俺の腕なのか、それとも目の前の刃なのか。胸の奥に重いものがのしかかり、身体中の力が少しずつ抜けていくのに、そこへ流れ込む何かの勢いだけは弱まらなかった。
剣が折れた瞬間は助かったと思った。今は、誰かがあの棚の方へ来てしまうことが怖い。
俺は、何を作ってしまったんだ。
「カイ!」
ソフィアが箱の陰から身を起こしかけ、俺の手元を見て足を止めた。壊れた棚と刃とを見比べ、目を凝らしている。
「まだ続いてる……! カイ、そこから動かないで!」
「止めたいんだ……! でも、どうやって……!」
言い終える前に輪郭が大きく波打ち、空気が押し出されるような音がした。棚に残った板が軋む。
ソフィアは俺へ駆け寄ろうとした足を引き、通路の入口へ向けて声を張り上げた。
「入ってこないで! まだ危ないわ!」
近づいていた足音が止まった。
男も後ずさっていた。剣を持っていた手を反対の手で押さえ、赤く腫れた指を動かそうとして顔をしかめる。
折れた剣、使い物にならなくなった帯。それから木箱の陰にいるソフィアへと、男の視線が動いた。
彼女の腕には、もう何もかかっていない。
男は一歩そちらへ出かけたが、すぐに足を止めた。俺の前ではまだ、剣とも光ともつかないものが荒れ狂っている。
向こうの通りから、何人もの声が近づいてきた。
「何があった!」
「剣を持った男がいる!」
男は俺とソフィアを見比べた。初めて会ったときから崩れなかった落ち着いた目つきは、もう消えていた。
「……ちっ」
傷めた手をかばいながら後退すると、男は反対側の通りへ駆け出した。
追うことなど考えられなかった。ソフィアが捕まらずに済んだと分かり、ようやく身体の力が抜けかけた。
だが、まだ終わっていない。
男が去ったあとも、棚の木が割れた。破片が空の荷置き場へ散り、焦げた匂いが強くなる。
もし誰かが入ってきたら。これが別の方へ向いたら。
「カイ、あの人はもういないわ! だから、もう無理しないで!」
「無理なんか……してない……!」
言い終えて口を閉じると、声を出しただけで息が切れていた。踏ん張っているはずの足も、小さく震えている。
右手を握りしめ、手首を返す。何もつかんでいない掌には、離すものさえないのに、刃の形は消えてくれなかった。腕を動かすたびに先端が揺れ、板囲いの傷が広がる。
動かすのが怖くなった。
俺は腕を伸ばしたまま、固まった。
胸が痛み、脇腹が熱を持っている。足の裏から感覚が少しずつ遠のき、視界の端が暗くなってきた。
止め方も分からないまま、これを止めなければと思い続けていた。
膝が折れた。背中が板壁を擦り、身体がずるずると下がる。それでも、右手だけは前へ伸ばしていた。
ソフィアが何かを叫んでいる。
顔を上げようとすると、目の前で刃の輪郭が裂け、またつながった。
幼い頃に見た、まっすぐで静かな細い剣。同じ形を思い出したはずなのに、こんなにも違う。
指先の感覚が消え、腕が落ちた。
目の前の輪郭が、ふっとほどけたように見える。けれど、本当に消えたのか確かめることはできなかった。
ソフィアが俺の名前を呼ぶ。
返事をしようとして――何も見えなくなった。




