第5話 通りを塞ぐ男
店を出た途端、荷車の車輪が石畳を踏む音に迎えられた。
昼を過ぎても、ヴェルノスの市場は落ち着く気配がない。通りの両側から呼び込みの声が飛び、軒先に下がった布が風を受けて揺れている。焼きたての生地の匂いに、どこかで荷を積み替えているらしい木の匂いが混じっていた。
俺は道の端に寄り、折り畳んだ紙を取り出した。
そこには、金物屋の主人から聞いたことと、今日訪ねた店の名前が並んでいる。
昔、変わったものを作る技術者がこの街にいたらしい。
分かっているのは、まだその程度だ。
どんなものを作っていたのか。誰が実物を見たのか。それさえ確かめようとすると、話は途端に曖昧になる。
今日も最初の店では「昔聞いたことがあったかも」と言われ、次の店では「その話なら向かいじゃないか」と教えられた。向かいへ行くと、そこは何年も前に持ち主が変わっていた。
間違いだと言い切れる材料もない。かといって、手掛かりが増えたわけでもない。
紙の端に小さく印をつけ、懐へしまう。
あと一軒だけ回ろう。
ソフィアと市場を歩いてから三日。彼女の両親との面会については、まだ連絡がない。
あの日、何か知っているかもしれない人に会えると思ったときは、正直、かなり期待した。でも、返事を待つあいだに何もしなければ、その分だけ時間が過ぎてしまう。
日本へ帰る方法を探しに、この街まで来たのだから。
そう思って顔を上げると、前方の荷車が止まった。
車輪が石の継ぎ目に引っかかったのか、男たちが声を掛け合って荷を押し直している。道を渡ろうとしていた人まで足を止め、荷車の横に細い人の列ができた。
俺も回り道を探そうとした、そのときだった。
「カイ?」
聞き慣れ始めた声に振り返る。
少し離れた店先で、ソフィアが手を上げていた。もう片方の腕には、小さな紙包みを抱えている。
「ソフィア。こんなところで会うとは思わなかった」
「私も。さっきから同じところに立っていたから、声をかけようか迷ってたの」
「そんなに長いこと?」
「少なくとも、あの荷車が止まる前からね」
言われてみれば、かなり考え込んでいたらしい。
「……周り、見えてなかったな」
「何か見つかったの?」
「いや、むしろ振り出しに戻ったところ。人に聞けば聞くほど、別の店を紹介される」
「それなら、少しずつでも話の出どころに近づいているんじゃない?」
「そう思いたいけどね。今日は建物の場所ばかり詳しくなったよ」
ソフィアの視線が一度、俺の懐へ向いた。さっきの紙に気づいていたのかもしれないが、何も尋ねずに視線を戻した。
その遠慮が少し意外だった。気になることがあればすぐ聞いてくる人だと思っていたから。
……いや、全部聞いていいわけじゃないことくらい、彼女の方がよく分かっているのかもしれない。
「そっちは買い物?」
「家の用事で、頼まれたものを受け取りに来たの。もう帰るところ」
抱えた包みを示す。中身は聞かなかった。軽そうに見えるが、紙の折り目が一か所だけ少し膨らんでいた。
荷車の方から、また大きな声が響いた。
「先に奥を持ち上げろ!」
男たちが車体の後ろへ集まり、道を空けようとしている。
その様子を眺めていると、ソフィアが少し言いにくそうに口を開いた。
「……両親に会ってもらう話、まだ日取りが決まっていないの。待たせてしまって、ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ。急に頼んで、すぐ会えるような話でもないだろうし」
「私は、もう少し早く決まると思ってた」
彼女は包みの角を指で押さえ直した。
「こっちも、何を聞くか考えておく時間ができたよ。会えたとしても、俺がうまく説明できなかったら意味がないから」
「カイが話せることからでいいと思う。父と母も、いきなり全部分かるとは思っていないはずよ」
「そうだと助かる」
少しだけ、胸のあたりが軽くなった。
会えたら、まず日本について誰から話を聞いたのかを尋ねたい。それから、昔この街にいたという技術者に心当たりがあるかも聞いてみよう。
質問を二つに絞ると、次にすべきことが少し見えた気がした。
「日取りが決まったら、伝えるわ」
「ありがとう。助かるよ」
そう答えたところで、荷車の向こうから大勢の人が流れてきた。
人の波が途切れた一瞬、腰に剣を提げた男が足を止め、こちらを見た。誰かを探しているのかと思ったが、男はすぐに荷置き場の方へ歩いていった。
道を開けるために寄っていた人が、今度は一斉に動き出したらしい。俺たちは店先に押し寄せる人の流れを避け、壁に沿って横へ移った。
「向こうへ行くなら、こっちから回れるけど」
ソフィアが指した先には、二つの建物と荷置き場に挟まれた短い通路があった。少し先に、別の広い通りが見える。
途中に木箱が積まれ、横からの見通しはよくない。ただ、人の声は届くし、荷運びの人も通っているらしい。
「まだ調べたい店が向こうにあるんだ。途中まで一緒に行こうか」
「ええ。荷車にぶつからないようにしましょう」
俺たちは人の列を離れ、通路へ入った。
市場の呼び声が背後に遠ざかり、代わりに靴底と石畳の擦れる音が聞こえた。頭上の軒から垂れた布がぱたぱたと鳴る。
ソフィアの紙包みが、歩くたびに小さく揺れている。
その包みを避けるように歩幅をずらしたとき、彼女が不意に足を緩めた。
前方の木箱のそばに、男が立っていた。
作業の途中で休んでいるのかと思った。だが、その男は荷物を持っていないし、誰かを待つように周囲を見回してもいない。
こちらを見ている。
いや、ソフィアを。
男は俺たちの進む方へ一歩出た。
腰の剣に見覚えがあった。さっき荷車の向こうでこちらを見ていた男だ。
「ソフィア・イチノセだな」
彼女の背筋が伸びた。
「そうですが。どちらさまですか?」
「迎えに来た。少し付き合ってもらいたい」
「どなたの使いですか」
男は答えず、こちらへ目を向けた。
「お前は?」
初対面の相手に名前を聞かれた。それだけなら不自然じゃない。
でも、男の手は腰の剣の近くにあった。聞いているのに、こちらの返事へ興味があるようには見えない。
「彼女の知り合いです。用件を先に聞いてもいいですか」
「用があるのはそっちじゃない」
「なら、なおさら説明してください。本人が困ってます」
男が短く鼻を鳴らした。
「やれやれ。面倒なのがついてるな」
ソフィアが俺の袖に触れた。
引っ張るというより、合図に近かった。
「カイ、戻りましょう」
彼女は声を落としていた。
俺は小さく頷き、男から目を離さないまま来た道へ向き直った。
背後で靴が石を踏む音がした。
直後、横から砂が舞い上がった。
突風だった。通路の奥からでも市場側からでもない。木箱の陰から、まるで狙いをつけたように風がぶつかってきた。
足が横へ滑る。
「っ……!」
壁に右手をつき、かろうじて倒れずに済んだ。ソフィアも踏み直していたが、抱えていた包みを落とした。乾いた音が足元で弾む。
風はすぐに弱まった。
おかしい。
布はさっきまで別の方向へ揺れていた。それに、風が当たったのは俺たちが向きを変えた直後だ。
男を見る。
いつの間にか、さっきより近い。
ソフィアが包みを拾うのを諦め、一歩下がった。
「走れる?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
二人で市場へ向かって踏み出す。
男が剣を抜いた。
鞘と金属の擦れる音が、通路に思ったより大きく響いた。
足を止めたのは俺の方だった。
刃が胸の高さにある。相手は腕を大きく振り上げてもいないのに、進む先へちょうど剣先が入っていた。
「そこを動くな」
「……何をするつもりだ」
「お前が退いてりゃ、余計なことはしない」
男は剣を俺に向けたまま、ソフィアへ視線を移した。
「こっちへ来い。騒ぎにするな」
「嫌です。あなたの名前も、用件も聞いていません」
「話が通じねえな」
苛立った声だった。
ソフィアが俺の斜め後ろへ移る。
俺たちの背後には市場がある。人の声も、荷車の軋む音も、すぐそこから聞こえている。
あそこへ戻れればいい。
「誰か! 助けてください!」
俺は振り返らずに叫んだ。
「人が剣を抜いてます!」
市場側で、誰かの話し声が途切れた。
続いて、男の荒い舌打ちが聞こえた。
「おい、黙れ」
刃先がわずかに上がる。
俺は引き下がった。ソフィアが俺の肩越しに通路の向こうを見ている。
「カイ、右側を――」
言い終える前に、男の足が動いた。
俺と市場の間に、男の剣が割り込む。
今なら横へ回れる。そう思って身体を右へ振った。
剣先がついてきた。
いや、ついてきたというより、俺が踏み出すはずの位置に先に置かれていた。
背中が冷える。
間合いを取る。刃だけを見るな。相手の足の向きも確かめる。
子供の頃に教わったことが、頭の中で急に形になった。
だが、目の前の男は動きが小さすぎる。
肩が動いたと思えば剣先は別のところにあり、足を見た頃には、もう次の一歩を置かれている。
俺が遅いのか。
いや、それだけじゃない。
こちらが逃げたい方向を、あいつは最初から塞ぎ続けている。
「ソフィア、先に通りへ!」
彼女は木箱と壁のあいだを抜けようとした。
男の視線がそちらへ走る。
その隙に、俺も踏み込んだ。
再び足元を風が払った。
踏ん張った靴が滑り、積まれた箱へ左手を伸ばす。指が角にかかった瞬間、治りかけの手首に痛みが走った。
力が入らない。
手を離したところへ、男が踏み込んでくる。
剣が光った。
避けたつもりだった。
上着の左脇が裂ける音がした。
次いで、脇腹に焼けるような痛みが走る。
反射的にそこを押さえた。指先が湿る。
血だ。
どこまで斬られた?
確かめたいのに、目を落とすことができなかった。男はもう剣を引いている。俺が傷を見る一瞬を与える気もないらしい。
「最初に下がってりゃよかったものを」
その声に、思わず歯を食いしばった。
俺が邪魔だから斬った。男の口調は、まるでそれだけの話だ。
市場の方から、人を呼ぶ声がした。
「何だ、今の!」
「誰か呼んでこい!」
助けは来るかもしれない。
けれど、目の前の男は剣を下ろさない。むしろ、周りが騒ぎ始めたことに腹を立てているようだった。
時間がない。
ソフィアは荷の積まれた場所を回り込み、通りへ向かおうとしていた。あのまま抜けられればいい。
男の身体が動く。
そちらへ行かせるわけにはいかない。
俺は脇腹を押さえていた手を離し、進路へ飛び込んだ。
刃を避けるつもりで上体を低くした。
次の瞬間、硬いものが胸の下へ突き込まれた。
剣の柄だ、と分かったのは、背中から木箱にぶつかってからだった。
息ができない。
口を開いても、喉の奥で空気が引っかかる。胸を押さえて身体を折ると、今度は脇腹の傷が痛んだ。
すぐに立て。
頭ではそう命じた。
足が言うことを聞かない。
男は俺を追い込まず、ソフィアへ向き直った。
腰のあたりから、細く巻いた帯を引き出す。
「おとなしくしてりゃ済む話なんだがな」
彼女の腕へ伸びた帯が、空を切った。
ソフィアは身体を低くしてかわし、男の外側へ抜けようとする。
もう一度、帯が回る。
今度はソフィアの上腕に引っかかり、身をかわした拍子に脇の下を通って背中側へ回った。
「離して!」
男が帯の端を引く。肩と腕の間に食い込み、彼女の足が止まった。身体が男の方へ傾く。
「ソフィア……!」
やっと声が出た。
膝をついたまま、木箱に手をかける。左手首にはまだ力が戻らない。右手で身体を押し上げると、胸がひどく痛んだ。
それでも立ち上がった。
男はちらりとこちらを見ただけだった。
剣を持つ方の腕が、俺の前へ伸びる。
もう片方の手は、ソフィアへかかった帯を握っている。
無造作に見えて、どちらにも隙がない。
ソフィアが帯をつかんだ。引き返そうとするのではなく、男の方へ半歩寄る。
男の顔に、初めて小さな苛立ちが浮かんだ。
「……おい、何してる」
彼女は答えず、身体を横へひねった。
張っていた帯が少し緩む。
すぐには抜けない。だが、肩をずらす余地ができた。
その間にも、男の剣先は俺から外れなかった。
何かしなければ。
ソフィアが自分で逃げ道を作っている。俺だけが動けないままでは、彼女を連れていかれる。
通路の向こうで、誰かの足音がした。
来るなら、早く来てくれ。
そう思った瞬間、男が剣を少し引いた。
俺の背中には、荷を置くための板壁があった。
右へ動こうとする。風に足を戻された。
左には積まれた箱。脇腹が痛み、身体をひねる余裕もない。
「そこを動くなって言っただろ」
近い。
刃先が胸の前へ来た。
ソフィアが顔を上げる。
「カイ、下がって!」
下がる場所がない。
男の肩が動いた。
あの剣が伸びてくる。
そう分かったとき、俺はまだ壁に背をつけたままだった。




