第3話 今度は名前を呼んで
「……何から話せばいいんだろうな」
家の前まで来て、三度目のため息が出た。
右手には根菜の袋。頼まれた分はちゃんと入っている。金物屋には結局行けなかったけれど、場所だけは分かった。
問題は、左手首の方だ。
じんと残る痛みを確かめてから、扉へ手を伸ばす。昨日まで普通に動いていた手をかばっていたら、きっとすぐに気づかれる。
奥からネリサさんの声がした。
「おかえり、カイ。市場はどうだった?」
「ただいまです。ええと……野菜、買ってきました」
「ありがとう。置いてくれたら――」
台所から出てきたネリサさんが、俺の手元を見て言葉を切った。
「どうしたの、その手」
「ちょっと、つかまれまして」
「誰に?」
もう少しマシな入り方があった気がする。
「市場で、女の子が男の人たちに囲まれてて。助けを呼ぼうとしたら、こっちにも来たんです」
ネリサさんは袋を受け取らず、俺の顔を見た。
「座って。続きは聞くから、先に手を見せて」
「そんなにひどくは――」
「それを今から確かめるの」
有無を言わせない言い方だった。
机の上に根菜を置き、言われるまま椅子に腰を下ろす。ネリサさんは左手首をそっと支え、赤くなったところを見た。痛む場所と、指が動くかどうかを確かめられる。
「ここは?」
「少し痛いです」
「こっちは」
「あ、それは平気」
「なら、今日は重いものを持たないで。痛みが強くなるなら、そのままにしないこと」
頷くと、ネリサさんは向かいの椅子を引いた。
「それで、何があったの?」
今度は順を追って話した。
路地で少女が道を塞がれていたこと。人を呼ぼうとして男に手首をつかまれたこと。少女も自分で逃げ、最後は周りの店の人たちが声を上げてくれたこと。
「男たちは、どうなったの?」
「人が集まったら、路地の奥へ行きました。追いかけたりはしてないです」
「それでよかったわ」
ネリサさんは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「……怖かったでしょう」
叱られると思っていたので、返事が一拍遅れた。
「はい。正直、かなり」
「相手の女の子は?」
「怪我はなさそうでした。帰るときには話もできて……ソフィアっていうんです」
「ソフィア。そう」
名前を繰り返してから、ネリサさんは息を吐いた。
「人を呼んだのはいい判断よ。でも、相手があなたへ向かってきたら、逃げることも考えてね。うちに来たばかりで、帰ってこなくなったら困るわ」
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃないの。帰ってきてくれてよかったって言ってるのよ」
言い返せなくなった。日本へ戻る手掛かりを探すために、この家へ世話になりに来た。なのに、二日目でもう心配をかけている。
「明日は少し休もうと思います」
「それは賛成よ。外へ出るなとは言わないけど、まず手を休ませなさい」
「分かりました」
根菜の袋を見て、ネリサさんが少しだけ笑った。
「それでも買い物は忘れなかったのね」
「一回、忘れかけました。取りに戻るのも、店の人に見ててもらって」
「そこは一人で戻らなくて正解よ」
そっちも報告しておいてよかった。
「……で、野菜を取りに行って、もう一度つかまれたりはしなかったんだな?」
帰ってきたオルヴェンさんに話すと、まずそこを確かめられた。
「はい。人に見ててもらいました」
「ならいい。いや、よくはないけどな」
オルヴェンさんは俺の左手首を見て、何か言いかける。それから、机に載せた根菜を一本手に取った。
「こいつは頼んだとおりだ」
「見つかってよかったです」
「でも、次からは野菜より先に自分を持って帰ってこい」
まじめな顔で言われて、思わず黙った。
「……はい」
「よし。しばらく皿洗いも休みだな」
「えっ、それくらいは」
「手が痛い奴に洗わせて、皿まで割られたらかなわん」
「俺が割る前提なんですか?」
「じゃあ、割らない自信があるか?」
左手首を見下ろす。
「……今日はありません」
「だろ?」
オルヴェンさんが笑った。俺まで少し笑ってしまう。
その夜は、二人が仕事や買い物の話をするのを聞きながら、早めに部屋へ戻った。布団に入ると、路地で男の手が伸びてきた瞬間を思い出した。
あれが少し違う場所だったら。店の人が気づかなかったら。
考えても答えは出ない。
それでも、ソフィアが俺の上着を引いてくれた感触は覚えている。あの子が呼んでくれなかったら、俺はまだ男たちと向き合っていたかもしれない。
今度会うことがあったら、もう少し落ち着いて話せるといい。
翌日は家の中で過ごした。
じっとしていろと言われたわけではない。頼めることがあるならやるつもりだったけれど、重いものは持たせてもらえない。ネリサさんに渡された布を畳んだり、買い物のメモを整理したりしているうちに一日が終わった。
手首の赤みは薄くなった。ただ、力を入れるとまだ少し痛い。
次の朝、外へ行く支度をしていると、ネリサさんに呼び止められた。
「どこへ行くつもり?」
「この前教えてもらった金物屋です。市場の、広い方の通りから行こうと思って」
「手は?」
「昨日よりずっといいです。無理はしません」
「……分かった。帰りが遅くなるなら、家へ知らせてね」
「はい」
言ってから、少し考えた。
「一人で行って大丈夫ですかね」
ネリサさんが目を瞬いた。
「自分でそれを聞けるなら、少しは安心ね。人通りのある道を使って、嫌なことがあったら引き返しなさい」
俺も頷いた。
市場であんな目に遭う前なら、行ってみてから考えればいいと思ったかもしれない。あの路地のあとでは、そうも言っていられなかった。
市場は今日も騒がしかった。買い物客が店先に集まり、荷を運ぶ人が声をかけ合っている。通りの角にある木箱が目に入るたびに足が鈍りそうになったが、目指す金物屋はもっと広い道沿いにあった。
店先には錠前や金具、小さな道具が並んでいた。古そうなものも新しそうなものもあって、俺には何に使うのか分からないものばかりだ。
前に部品屋で聞いた言葉を思い出す。工房の噂なら、材料を卸していた人が覚えているかもしれない。
今度は名前も時期も分からないまま、同じ質問を繰り返すつもりはなかった。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですけど」
奥から出てきた店の男性が、手を布で拭きながら応じた。
「何を探してる?」
「昔、この街にいた技術者のことを調べてるんです。名前はまだ分からないんですけど……この店は古くから材料を扱ってるって聞いて。昔の工房や、その人たちの仕事について、何か残ってたりしませんか?」
「工房の仕事?」
「はい。材料を買いに来た人の話とか、変わった物を作ってた人のこととか」
男性は少し考え、店先の金具を指さした。
「こういう物なら、何に使うかは分かる。けど、誰が何を作るために買ったのか、全部覚えてるわけじゃないな」
「やっぱり、そうですか……」
「そもそも、どんな物を作ってた人なんだ?」
「それも、まだ分からなくて。村で聞いた噂では、珍しい物を作ってたらしいんです」
「珍しい、だけじゃ難しいな」
予想はしていた。それでも実際に言われると、ちょっとがっかりする。
男性は棚から、形の違う二つの金具を取った。
「こっちは同じように見えても、使う場所が違う。作った物そのものが分かれば、使った部品から工房をたどれることもあるだろう。でも、人の噂だけじゃな」
一つは平たく、もう一つは端が曲がっていた。俺には、何に使うのか聞かなければ見当もつかない。
「じゃあ、作った物がどんな形だったかでも、分かれば違いますか?」
「見た奴がいるならな。どんな物で、何が変わってたのか。そこを聞いてから来てくれれば、こっちも考えようがある」
最初の部品屋では、噂の出所をたどれと言われた。ここでは、その噂に出てくる品物が分からなければ、材料の話に結びつかない。
「分かりました。今度は、そっちを確かめてみます」
「悪いな、すぐ答えが出せなくて」
「いえ。聞き方を変えなきゃって分かったので」
礼を言って店を出た。
持ってきた紙を広げ、前に書いた覚え書きの下へ付け足す。
誰が見た? 何を作った? 何が普通と違った?
全部、まだ答えはない。でも、村の人にもう一度尋ねるなら、前より具体的に聞けそうだ。聞いた人と、実際に見た人も、同じとは限らない。
紙を畳んで歩き出す。広い通りを戻ろうとしたところで、店先から軽い木の音が聞こえてきた。
こん、こん、と小気味よい音だった。
布屋の軒先に、小さな織り機が置かれていた。店の人が糸の間へ細長い道具を通すたび、少しずつ布が伸びていく。
気になって足を止めた。
「……あれ、どうやって模様ができてるんだ?」
「糸の並べ方だけじゃないと思うわ」
横から声がして、振り向いた。
「ソフィア?」
見覚えのある淡い金髪が揺れた。少女は織り機を見ていた目をこちらへ向け、驚いたように笑った。
「カイ。こんなところで会うなんて」
「いや、それ、こっちの台詞」
「私、ここの布を見に来たの。今日は外で織ってるって聞いたから」
「俺は金物屋の帰り。ほら、この前行きそびれたところ」
「ああ、あの金物屋?」
「そう。ちゃんと行けたよ。手掛かりは、まだ全然だけど」
「それで、何か聞けた?」
「うん。昔の人を探すなら、その人が何を作ったのか、もっとちゃんと聞かないと駄目だって」
「作った物から調べるのね」
「そう。俺、噂を聞いたとき、そこまで考えてなかった」
「じゃあ、次に聞くことは決まったのね」
「……それは、そうかな」
少し気が楽になった。
そのとき、織り機の前で店の人が顔を上げた。
「見てるだけじゃ分かりにくいだろ。こっちの見本、並べて見てみるか?」
「いいんですか?」
「触るときは、手をきれいにしてな」
店の人が、小さな布の見本を二枚、台に並べた。同じような色の糸を使っているのに、一方は縞がはっきり見えて、もう一方は少し離れると模様が目立たない。
「糸の重なり方を変えてあるんだ。近くで見ると、こっちもちゃんと柄になってるだろ」
「本当だ。遠くからだと、無地かと思った」
近づくと、細い線が浮かんで見えた。店の人が見本を少し傾けると、線の見え方まで変わる。
「私は、こっちの方が面白いわ」
ソフィアが指さしたのは、さっきまで模様の目立たなかった方だ。
「えっ、そう? 俺はこっちかな。遠くからでも分かりやすいし」
「でも、近づくと見えるのも楽しくない?」
「……あ、本当だ。こっちにも細い線がある」
「そうでしょう? さっきは気づかなかったの」
「でも、俺は向こうの縞が好きかな。遠くからでも分かるし」
「それもいいわね」
店の人が織り機へ戻り、再びこん、こん、と音を立て始めた。少しのあいだ、二人で出来上がっていく布を眺めた。あの路地の騒ぎが、ずいぶん遠くのことのように感じられた。
「そうだ、手首」
ソフィアが俺の左手を見た。
「どう? まだ痛い?」
「力を入れると少し。家の人にも見てもらった」
「ちゃんと話したのね」
「話さない方が難しかったかな。袋を持つのにも困ってたし」
「よかった」
ほっとした表情になったあと、ソフィアも自分の手元へ目を落とした。
「私も、あのことは家で話したわ。すごく心配された」
「そりゃそうだよな……」
「ええ。私だって怖かったもの。だから、次は気をつけるって話した」
それ以上、家庭の話を詳しく聞くのはやめた。
店の人が別の客に声をかけられ、俺たちは軒先から少し離れた。
「ねえ、カイ。一つ聞いてもいい?」
「何?」
「前に話してくれた、日本のこと。家族に、あなたが日本から来たって伝えてもいいかしら」
思っていなかった質問だった。
「ソフィアの家族に?」
「ええ。家で聞いたことがあるって言ったでしょう。私だけで思い出そうとするより、確かめられるかもしれないから。でも、あなたが帰る方法を探しているのも、勝手に広める話じゃないと思って」
会って間もないのに、そこまで考えてくれたのか。
俺は少し考えた。
日本から来たことは隠したいわけじゃない。でも、山で目を覚ました話や朱奏のことまで、まだ会ったことのない人に全部伝わるのは、少し落ち着かない。
「日本から来たってことと、帰る方法を探してるってことなら、話してもらって大丈夫。でも、それ以上は……俺が直接話す機会があれば、そのときにしたい」
「分かった。その範囲だけにするわ」
「ありがとう」
ソフィアは頷いて、少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ、私も家で確かめてみる。何も思い出せないままかもしれないけど」
「それでも助かるよ」
「それと……」
「うん?」
「今日、また会えてよかった。あのときは、ちゃんと話せたようで、落ち着かなかったから」
こちらも同じだった。
「俺も。今日はあんな三人組に囲まれなくてよかったよ」
「三人どころか、一人でも嫌よ」
「それはそうだ」
二人で笑った。
布屋の奥から、また織り機の音がした。ソフィアはちらりと振り返り、名残惜しそうに目を細める。
「ねえ、今度、ほかの場所も一緒に歩いてみない? 面白そうな仕事を見られるところ、まだあるの」
「いいね。いつにする?」
「明後日はどう? 昼過ぎに、市場の広い入口で」
「うん。俺は大丈夫だと思う。家の人にも話しておくよ」
「私も家の人に伝えておくわ。待ち合わせの場所、間違えないでね」
「了解。でも、今度は先に名前を呼んでくれよ」
「どうして?」
「さっき、急に横から声がしたから、ちょっとびっくりした」
ソフィアは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「それはごめんなさい。次は気をつけるわ」
別れてから、俺は市場の入口を通って帰った。初めて来た日は、この辺りの道さえよく分からなかった。今日も探していた技術者のことは、ほとんど分からないままだ。
けれど、入口の広さと、その脇に立つ店の並びはもう覚えている。
明後日、もしまた会えるなら、ここで待てばいい。




