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断界アノマリア  作者: 来里 綴


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3/6

第3話 今度は名前を呼んで

「……何から話せばいいんだろうな」


 家の前まで来て、三度目のため息が出た。


 右手には根菜の袋。頼まれた分はちゃんと入っている。金物屋には結局行けなかったけれど、場所だけは分かった。


 問題は、左手首の方だ。


 じんと残る痛みを確かめてから、扉へ手を伸ばす。昨日まで普通に動いていた手をかばっていたら、きっとすぐに気づかれる。


 奥からネリサさんの声がした。


「おかえり、カイ。市場はどうだった?」


「ただいまです。ええと……野菜、買ってきました」


「ありがとう。置いてくれたら――」


 台所から出てきたネリサさんが、俺の手元を見て言葉を切った。


「どうしたの、その手」


「ちょっと、つかまれまして」


「誰に?」


 もう少しマシな入り方があった気がする。


「市場で、女の子が男の人たちに囲まれてて。助けを呼ぼうとしたら、こっちにも来たんです」


 ネリサさんは袋を受け取らず、俺の顔を見た。


「座って。続きは聞くから、先に手を見せて」


「そんなにひどくは――」


「それを今から確かめるの」


 有無を言わせない言い方だった。


 机の上に根菜を置き、言われるまま椅子に腰を下ろす。ネリサさんは左手首をそっと支え、赤くなったところを見た。痛む場所と、指が動くかどうかを確かめられる。


「ここは?」


「少し痛いです」


「こっちは」


「あ、それは平気」


「なら、今日は重いものを持たないで。痛みが強くなるなら、そのままにしないこと」


 頷くと、ネリサさんは向かいの椅子を引いた。


「それで、何があったの?」


 今度は順を追って話した。


 路地で少女が道を塞がれていたこと。人を呼ぼうとして男に手首をつかまれたこと。少女も自分で逃げ、最後は周りの店の人たちが声を上げてくれたこと。


「男たちは、どうなったの?」


「人が集まったら、路地の奥へ行きました。追いかけたりはしてないです」


「それでよかったわ」


 ネリサさんは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。


「……怖かったでしょう」


 叱られると思っていたので、返事が一拍遅れた。


「はい。正直、かなり」


「相手の女の子は?」


「怪我はなさそうでした。帰るときには話もできて……ソフィアっていうんです」


「ソフィア。そう」


 名前を繰り返してから、ネリサさんは息を吐いた。


「人を呼んだのはいい判断よ。でも、相手があなたへ向かってきたら、逃げることも考えてね。うちに来たばかりで、帰ってこなくなったら困るわ」


「……すみません」


「謝ってほしいわけじゃないの。帰ってきてくれてよかったって言ってるのよ」


 言い返せなくなった。日本へ戻る手掛かりを探すために、この家へ世話になりに来た。なのに、二日目でもう心配をかけている。


「明日は少し休もうと思います」


「それは賛成よ。外へ出るなとは言わないけど、まず手を休ませなさい」


「分かりました」


 根菜の袋を見て、ネリサさんが少しだけ笑った。


「それでも買い物は忘れなかったのね」


「一回、忘れかけました。取りに戻るのも、店の人に見ててもらって」


「そこは一人で戻らなくて正解よ」


 そっちも報告しておいてよかった。






「……で、野菜を取りに行って、もう一度つかまれたりはしなかったんだな?」


 帰ってきたオルヴェンさんに話すと、まずそこを確かめられた。


「はい。人に見ててもらいました」


「ならいい。いや、よくはないけどな」


 オルヴェンさんは俺の左手首を見て、何か言いかける。それから、机に載せた根菜を一本手に取った。


「こいつは頼んだとおりだ」


「見つかってよかったです」


「でも、次からは野菜より先に自分を持って帰ってこい」


 まじめな顔で言われて、思わず黙った。


「……はい」


「よし。しばらく皿洗いも休みだな」


「えっ、それくらいは」


「手が痛い奴に洗わせて、皿まで割られたらかなわん」


「俺が割る前提なんですか?」


「じゃあ、割らない自信があるか?」


 左手首を見下ろす。


「……今日はありません」


「だろ?」


 オルヴェンさんが笑った。俺まで少し笑ってしまう。


 その夜は、二人が仕事や買い物の話をするのを聞きながら、早めに部屋へ戻った。布団に入ると、路地で男の手が伸びてきた瞬間を思い出した。


 あれが少し違う場所だったら。店の人が気づかなかったら。


 考えても答えは出ない。


 それでも、ソフィアが俺の上着を引いてくれた感触は覚えている。あの子が呼んでくれなかったら、俺はまだ男たちと向き合っていたかもしれない。


 今度会うことがあったら、もう少し落ち着いて話せるといい。






 翌日は家の中で過ごした。


 じっとしていろと言われたわけではない。頼めることがあるならやるつもりだったけれど、重いものは持たせてもらえない。ネリサさんに渡された布を畳んだり、買い物のメモを整理したりしているうちに一日が終わった。


 手首の赤みは薄くなった。ただ、力を入れるとまだ少し痛い。


 次の朝、外へ行く支度をしていると、ネリサさんに呼び止められた。


「どこへ行くつもり?」


「この前教えてもらった金物屋です。市場の、広い方の通りから行こうと思って」


「手は?」


「昨日よりずっといいです。無理はしません」


「……分かった。帰りが遅くなるなら、家へ知らせてね」


「はい」


 言ってから、少し考えた。


「一人で行って大丈夫ですかね」


 ネリサさんが目を瞬いた。


「自分でそれを聞けるなら、少しは安心ね。人通りのある道を使って、嫌なことがあったら引き返しなさい」


 俺も頷いた。


 市場であんな目に遭う前なら、行ってみてから考えればいいと思ったかもしれない。あの路地のあとでは、そうも言っていられなかった。


 市場は今日も騒がしかった。買い物客が店先に集まり、荷を運ぶ人が声をかけ合っている。通りの角にある木箱が目に入るたびに足が鈍りそうになったが、目指す金物屋はもっと広い道沿いにあった。


 店先には錠前や金具、小さな道具が並んでいた。古そうなものも新しそうなものもあって、俺には何に使うのか分からないものばかりだ。


 前に部品屋で聞いた言葉を思い出す。工房の噂なら、材料を卸していた人が覚えているかもしれない。


 今度は名前も時期も分からないまま、同じ質問を繰り返すつもりはなかった。


「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですけど」


 奥から出てきた店の男性が、手を布で拭きながら応じた。


「何を探してる?」


「昔、この街にいた技術者のことを調べてるんです。名前はまだ分からないんですけど……この店は古くから材料を扱ってるって聞いて。昔の工房や、その人たちの仕事について、何か残ってたりしませんか?」


「工房の仕事?」


「はい。材料を買いに来た人の話とか、変わった物を作ってた人のこととか」


 男性は少し考え、店先の金具を指さした。


「こういう物なら、何に使うかは分かる。けど、誰が何を作るために買ったのか、全部覚えてるわけじゃないな」


「やっぱり、そうですか……」


「そもそも、どんな物を作ってた人なんだ?」


「それも、まだ分からなくて。村で聞いた噂では、珍しい物を作ってたらしいんです」


「珍しい、だけじゃ難しいな」


 予想はしていた。それでも実際に言われると、ちょっとがっかりする。


 男性は棚から、形の違う二つの金具を取った。


「こっちは同じように見えても、使う場所が違う。作った物そのものが分かれば、使った部品から工房をたどれることもあるだろう。でも、人の噂だけじゃな」


 一つは平たく、もう一つは端が曲がっていた。俺には、何に使うのか聞かなければ見当もつかない。


「じゃあ、作った物がどんな形だったかでも、分かれば違いますか?」


「見た奴がいるならな。どんな物で、何が変わってたのか。そこを聞いてから来てくれれば、こっちも考えようがある」


 最初の部品屋では、噂の出所をたどれと言われた。ここでは、その噂に出てくる品物が分からなければ、材料の話に結びつかない。


「分かりました。今度は、そっちを確かめてみます」


「悪いな、すぐ答えが出せなくて」


「いえ。聞き方を変えなきゃって分かったので」


 礼を言って店を出た。


 持ってきた紙を広げ、前に書いた覚え書きの下へ付け足す。


 誰が見た? 何を作った? 何が普通と違った?


 全部、まだ答えはない。でも、村の人にもう一度尋ねるなら、前より具体的に聞けそうだ。聞いた人と、実際に見た人も、同じとは限らない。


 紙を畳んで歩き出す。広い通りを戻ろうとしたところで、店先から軽い木の音が聞こえてきた。


 こん、こん、と小気味よい音だった。


 布屋の軒先に、小さな織り機が置かれていた。店の人が糸の間へ細長い道具を通すたび、少しずつ布が伸びていく。


 気になって足を止めた。


「……あれ、どうやって模様ができてるんだ?」


「糸の並べ方だけじゃないと思うわ」


 横から声がして、振り向いた。


「ソフィア?」


 見覚えのある淡い金髪が揺れた。少女は織り機を見ていた目をこちらへ向け、驚いたように笑った。


「カイ。こんなところで会うなんて」


「いや、それ、こっちの台詞」


「私、ここの布を見に来たの。今日は外で織ってるって聞いたから」


「俺は金物屋の帰り。ほら、この前行きそびれたところ」


「ああ、あの金物屋?」


「そう。ちゃんと行けたよ。手掛かりは、まだ全然だけど」


「それで、何か聞けた?」


「うん。昔の人を探すなら、その人が何を作ったのか、もっとちゃんと聞かないと駄目だって」


「作った物から調べるのね」


「そう。俺、噂を聞いたとき、そこまで考えてなかった」


「じゃあ、次に聞くことは決まったのね」


「……それは、そうかな」


 少し気が楽になった。


 そのとき、織り機の前で店の人が顔を上げた。


「見てるだけじゃ分かりにくいだろ。こっちの見本、並べて見てみるか?」


「いいんですか?」


「触るときは、手をきれいにしてな」


 店の人が、小さな布の見本を二枚、台に並べた。同じような色の糸を使っているのに、一方は縞がはっきり見えて、もう一方は少し離れると模様が目立たない。


「糸の重なり方を変えてあるんだ。近くで見ると、こっちもちゃんと柄になってるだろ」


「本当だ。遠くからだと、無地かと思った」


 近づくと、細い線が浮かんで見えた。店の人が見本を少し傾けると、線の見え方まで変わる。


「私は、こっちの方が面白いわ」


 ソフィアが指さしたのは、さっきまで模様の目立たなかった方だ。


「えっ、そう? 俺はこっちかな。遠くからでも分かりやすいし」


「でも、近づくと見えるのも楽しくない?」


「……あ、本当だ。こっちにも細い線がある」


「そうでしょう? さっきは気づかなかったの」


「でも、俺は向こうの縞が好きかな。遠くからでも分かるし」


「それもいいわね」


 店の人が織り機へ戻り、再びこん、こん、と音を立て始めた。少しのあいだ、二人で出来上がっていく布を眺めた。あの路地の騒ぎが、ずいぶん遠くのことのように感じられた。


「そうだ、手首」


 ソフィアが俺の左手を見た。


「どう? まだ痛い?」


「力を入れると少し。家の人にも見てもらった」


「ちゃんと話したのね」


「話さない方が難しかったかな。袋を持つのにも困ってたし」


「よかった」


 ほっとした表情になったあと、ソフィアも自分の手元へ目を落とした。


「私も、あのことは家で話したわ。すごく心配された」


「そりゃそうだよな……」


「ええ。私だって怖かったもの。だから、次は気をつけるって話した」


 それ以上、家庭の話を詳しく聞くのはやめた。


 店の人が別の客に声をかけられ、俺たちは軒先から少し離れた。


「ねえ、カイ。一つ聞いてもいい?」


「何?」


「前に話してくれた、日本のこと。家族に、あなたが日本から来たって伝えてもいいかしら」


 思っていなかった質問だった。


「ソフィアの家族に?」


「ええ。家で聞いたことがあるって言ったでしょう。私だけで思い出そうとするより、確かめられるかもしれないから。でも、あなたが帰る方法を探しているのも、勝手に広める話じゃないと思って」


 会って間もないのに、そこまで考えてくれたのか。


 俺は少し考えた。


 日本から来たことは隠したいわけじゃない。でも、山で目を覚ました話や朱奏のことまで、まだ会ったことのない人に全部伝わるのは、少し落ち着かない。


「日本から来たってことと、帰る方法を探してるってことなら、話してもらって大丈夫。でも、それ以上は……俺が直接話す機会があれば、そのときにしたい」


「分かった。その範囲だけにするわ」


「ありがとう」


 ソフィアは頷いて、少しだけ表情を緩めた。


「じゃあ、私も家で確かめてみる。何も思い出せないままかもしれないけど」


「それでも助かるよ」


「それと……」


「うん?」


「今日、また会えてよかった。あのときは、ちゃんと話せたようで、落ち着かなかったから」


 こちらも同じだった。


「俺も。今日はあんな三人組に囲まれなくてよかったよ」


「三人どころか、一人でも嫌よ」


「それはそうだ」


 二人で笑った。


 布屋の奥から、また織り機の音がした。ソフィアはちらりと振り返り、名残惜しそうに目を細める。


「ねえ、今度、ほかの場所も一緒に歩いてみない? 面白そうな仕事を見られるところ、まだあるの」


「いいね。いつにする?」


「明後日はどう? 昼過ぎに、市場の広い入口で」


「うん。俺は大丈夫だと思う。家の人にも話しておくよ」


「私も家の人に伝えておくわ。待ち合わせの場所、間違えないでね」


「了解。でも、今度は先に名前を呼んでくれよ」


「どうして?」


「さっき、急に横から声がしたから、ちょっとびっくりした」


 ソフィアは少し驚いた顔をして、それから笑った。


「それはごめんなさい。次は気をつけるわ」


 別れてから、俺は市場の入口を通って帰った。初めて来た日は、この辺りの道さえよく分からなかった。今日も探していた技術者のことは、ほとんど分からないままだ。


 けれど、入口の広さと、その脇に立つ店の並びはもう覚えている。


 明後日、もしまた会えるなら、ここで待てばいい。

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