↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
断界アノマリア  作者: 来里 綴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/6

第2話 日本って、国の名前?

「おい、お前。余計なことすんな」


 男は足を止めるなり、俺の胸元へ手を伸ばした。


「嫌がってるだろ! そこ、通してやれよ!」


 言いながら、半歩だけ斜めに下がる。男の手が上着のすぐ前を通り過ぎた。


「関係ねえだろ!」


「そんなの、放っとけないだろ!」


 なるべく大きな声を出した。市場の呼び込みに負けそうで、もう一度息を吸う。


「誰か! 女の子が三人に囲まれて――」


「黙れ!」


 男が踏み込んできた。


 今度は腕をつかまれる。そう思った瞬間、身体が先に動いていた。正面から退くのではなく、伸びてきた手の外へ足を運ぶ。男の指は俺の袖をかすめ、そのまま木箱の縁を叩いた。


 ガタン、と大きな音がした。


「っ、この野郎!」


 男は箱に片手をつき、振り返った。


 ……よし。まだ動ける。


 昔、教わった足の運びが役に立った。殴り返す必要はない。あの子が出てくるまで、こっちに引きつけておけばいい。


「おい! 荷を倒す気か!」


 通りから別の声が飛んできた。


 木箱の持ち主らしい露店の男が、積み荷の向こうから顔を出す。


「すみません! 路地で女の子が囲まれてるんです! 見てください!」


「はあ?」


 露店の男は、俺と目の前の男を見比べた。それから木箱を回り込み、路地の奥を覗こうとした。


「騒ぎやがって……」


 男が舌打ちする。


 俺を捕まえようと、もう一度腕を伸ばしてきた。避けきれず、左の手首を握られる。


「痛っ!」


 力任せに引くと、かえって食い込む。俺は足を踏み替え、握られた腕の側へ身体を寄せた。男が体勢を崩し、木箱の方へ一歩退く。その隙に手首を引き抜いた。


「何なんだよ、お前!」


「助けを呼んで何が悪いんだよ!」


 勢いで言い返してから、ちょっと後悔した。男の顔が一段と険しくなる。やばい。もう一回つかまれたら、同じように抜けられるとは限らない。


 そのとき、路地の奥で金髪が揺れた。


 少女が動いている。小さな包みを左腕に抱え、空いた右手を前へ出して、出口に残った男を牽制していた。


「そこを通して!」


「勝手に行くなよ」


 男が進路を塞ぎ直す。少女は壁の方へ踏み出しかけ、すぐ反対へ身体を返した。男がそちらへ動いた瞬間、彼の脇にできた隙間へ滑り込む。


 おっ、抜けられるか。


 そう思った途端、奥の壁際にいた三人目が少女へ近づいた。背後から肩へ手を伸ばす。


『後ろ!』


 思わず日本語が飛び出した。


 少女は一瞬、俺を見た。言葉は伝わらなかったらしい。けれど俺の目線を追い、背後から来た手に気づいて身をかがめた。指先が金髪の端をかすめる。


「ちょこまかと!」


 少女は返事をせず、通りへ向き直る。出口を塞いでいた男が、また行く手に立った。


「もう、どいてって言ってるでしょう!」


 その男の手が伸びる。少女は包みを抱え直し、空いた手で相手の腕を外へ押しながら、その脇を抜けようとした。もう路地の入口まで、あと数歩だ。


 男が少女の袖をつまんだ。少女の足が一瞬止まる。


「おい、離せよ!」


 木箱のそばにいた男が、少女の方を振り向いた。俺はその横を抜け、路地の入口へ一歩踏み込む。少女の袖をつかんでいる男の腕を横へ払った。


「何だ、お前まで!」


 少女がすぐに腕を引く。布が男の指から抜けた。


「今だ、こっち!」


「分かってる!」


 言い返す勢いで、少女が俺の横を通り抜けた。


 よかった。これで――。


「逃がすか!」


 最初の男が俺の前へ回り込んでくる。路地の奥の二人も、こっちに向かってきた。


 あ、まずい。三人まとめて来られたら、さすがに無理だ。


「こっち、早く!」


 少女が振り返り、俺の上着を引いた。包みを抱えたまま、通りの方へ俺を促す。


「ああ、行こう!」


 俺は男から目を離さず、少女と一緒に木箱の外側へ下がった。


「誰か、助けて! この人たちに道を塞がれたの!」


 少女が市場へ向かって声を張り上げる。


「おい、何してる!」


 今度は露店の男の声だった。積み荷の前へ出て、こちらを指さしている。


「嫌がってるだろ! 放っといてやれ!」


 隣の店からも人が顔を出した。近くの通行人が足を止め、別の人が少女に向かって手招きをする。


「こっちへ! 早く!」


 最初の男が俺の方へ伸ばしかけた手を止めた。


「……ちっ。面倒くせえ」


 俺もその隙に通りへ出る。少女が上着を離すと、二人揃って店の前へ駆け込んだ。


 路地の奥に残った男たちは、こちらを睨んでいた。けれど、もう目を向けているのは俺たちだけじゃない。


「行くぞ」


「おい、まだ――」


「見られてんだよ!」


 三人は路地の奥へ引っ込んだ。木箱の陰で姿が見えなくなっても、俺はしばらくそこから目を離せなかった。


「……走れる?」


 少女が小声で聞いた。


「ああ」


「じゃあ、もう少し離れましょう」


 俺たちが歩き出しかけたところで、露店の男に呼び止められた。


 荷車の車輪が石畳を鳴らし、すぐそばでは値段を言い合う声がしていた。さっきまでうるさいと思っていた市場の音が、ようやくまともに耳に入ってくる。


「お前ら、怪我はないか? あいつら、知ってる奴か?」


「知りません。道を通ろうとしただけなんです」


 少女が答えた。しっかりした口調だったが、最後だけ声が揺れた。


「そうか……まったく。こんな人通りのある所で何やってんだ」


「助けていただいて、ありがとうございます」


「礼はいい。しばらく路地へ戻るなよ。誰かと一緒に行け」


 俺も頭を下げた。左手首に指の跡が赤く残っていた。


「お前、そっちは?」


「ちょっと手首をつかまれましたけど、大丈夫です」


「だったら、無理はするなよ」


 少女も俺の左腕を見ていた。


「痛むの?」


「少し。でも動くから、大丈夫だと思う」


「そういうときに無理するの、やめた方がいいと思う」


「はい……」


 思わず返事をしたら、彼女は少しだけ笑った。けれどすぐに、まだ人のいない路地の方へ目を向けた。


 大丈夫だろうか。さっきの連中が戻ってきたら困る。俺たちは、露店の男にもう一度礼を言って、人通りの多い方へ移った。


「……怖かった」


 少女が息を吐いた。


「俺も」


 動けたのはよかった。でも、まだ心臓が速いし、左の手首はじんじんする。あと一人来ていたら、どうなっていたか分からない。


「でも、あなたがあの人を引きつけてくれなかったら、逃げられなかったと思う」


「いや、そっちが助けを呼んでくれたからだよ。俺一人じゃ危なかったし」


「当然でしょう。あなたも、私を放っておかなかったんだから」


 そう言ったあと、彼女は包みを持ち直した。布の端が少しずれていたのに気づいて、慌てて直している。


「あ、それ。大丈夫?」


「ええ、たぶん。中身は無事みたい」


「よかった」


「あなたの荷物は?」


「……あ」


 背中が冷たくなった。


「野菜!」


「野菜?」


「買い物袋、置いてきた!」


 通りから路地の入口を見ると、木箱の脇に袋が残っていた。ちょうど箱のこちら側で、人のいる場所から手が届きそうな距離だ。


「取りに行くつもり?」


「できれば。人に頼まれたやつで……」


 彼女は一瞬、呆れたような顔をした。


「また一人で近づいたら、さっきと同じよ」


「だよなあ」


 結局、さっきの露店の男にもう一度声をかけ、見ていてもらいながら袋を拾った。路地の中へは戻らずに済んだ。


 中を覗くと、根の先が赤い細長い野菜が、買ったときのまま入っていた。急に力が抜ける。


「助かった。これまでなくしたら、帰って何て言えばいいか……」


「あなた、自分がつかまりそうだったのよ?」


「分かってる、分かってるけど、それとこれとは別っていうか」


 少女が吹き出した。


「ごめんなさい。でも、変わった人ね」


「えっ、もう変わった人扱い?」


「だって……ねえ?」


「……いや、否定できないけどさ」


 笑われているうちに、肩から少しだけ力が抜けた。


 彼女は目尻を指で押さえ、ふと何かを思い出したように言った。


「そういえば、さっきの言葉」


「言葉?」


「私の後ろに男が来たとき、あなたが叫んだでしょう。あの響き、どこかで聞いた気がするの。でも意味は分からなくて……何語なの?」


 ああ、あれか。


「日本語だよ。俺がいた国の言葉」


「ニホンゴ……。さっきは何て言ったの?」


「『後ろ』って。危ないから、後ろ見てって意味」


「そうだったのね。言葉は分からなかったけど、あなたがこっちを見て叫んだから。振り返ったら、手が伸びてきてた」


「間に合ってよかった」


「本当に」


 彼女は少し黙ってから、こちらを見た。


「……私たち、まだ名前も知らないのよね」


「そういえば!」


 あんなことがあったのに、そっちはすっかり抜けていた。


「俺はカイ。霜鳥櫂っていう。カイでいいよ」


「カイ……。私はソフィア。よろしくね」


「よろしく、ソフィア」


 足元に袋を置いて右手を差し出すと、ソフィアも小さな包みを抱え直して握り返してくれた。


「左腕は、まだ痛い?」


「うん、ちょっとだけ。右は平気」


「ならよかった」


 ソフィアは俺の手を離すと、少し首を傾げた。


 足元の袋を拾い直す。


「ねえ。『日本』って、国の名前?」


「そう。俺、そこから来たんだ」


「……やっぱり」


「え?」


「名前だけなら、家で聞いたことがあるの。日本っていう場所のこと」


 思わず声が大きくなった。


「えっ、ほんとに?」


「ええ。でも、そんなに詳しくないのよ。家族に何か縁があるらしい、っていうくらいで」


「そっか……」


 この街に来てから、初めて聞く反応だった。今までは日本という名前を口にしても、知らないという顔をされることばかりだったから。


「ごめんなさい。もっと分かればいいんだけど」


「いや、全然! 『日本』って言って通じただけでも、俺にはすごいことなんだよ」


「そんなに?」


「うん。実は、日本に帰る方法を探してるんだ」


 ソフィアが目を丸くした。


「帰る方法? 日本って、そんなに遠いの?」


「遠いっていうか……俺も、どうやってここに来たのか分かんなくてさ。気づいたら知らない山の麓にいたんだ」


「気づいたらって……」


「うん。普通に道をたどって帰れる気がしなくて。村で、昔この街に変わった技術者がいたって聞いたから、今はその人のことを調べてるんだ」


「その人が日本と関係してるかもしれないの?」


「そうだったらいいな、って。まだ名前も知らないんだけど」


「それは……探すのが大変そう」


「自分でもそう思う」


 笑ってみせたが、ちょっと苦かった。


 ソフィアはしばらく考えるように黙っていた。


「私も、家で何を聞いたか、すぐには思い出せないけど……」


「うん」


「思い出したら、また会って話してもいい?」


「もちろん! 俺も聞きたいし」


 言ってから、さっきのことを思い出して付け加えた。


「次は、あんな路地じゃないところでね」


「それは私も賛成」


 二人で笑った。


 でも、ソフィアの肩はまだ固い。俺だって、あの路地の方を見るのは嫌だった。少し歩いて、市場の賑やかな方へ戻ることにした。


 空いている腰掛けのある店先で、軽く食べられるものを買った。焼きたての小さなパンをひと口かじる。さっきまで胃がきゅっと縮んでいたのに、飲み込むと途端に腹が減ってきた。


「お腹、すいてたんだ」


「今、気づいた」


「私も」


 ソフィアが自分のパンを見て、少し笑う。


「あなた、領都には来たばかりなの?」


「昨日、村から。まだ店も道も全然分かんない」


「それなら今日は、ずいぶん大変な街歩きになっちゃったわね」


「ほんとに。金物屋を一軒探しに来ただけだったのに」


「金物屋?」


「さっき話した技術者の噂。材料を扱ってる古い店なら、何か知ってるかもって教えてもらって」


「へえ。そこまで聞いたのに、まだ行けてないの?」


「うん。途中で誰かさんが大変なことになってたから」


「……それは、お騒がせしました」


「いや、ごめん! 責めたわけじゃない!」


 慌てて手を振ると、ソフィアがようやく声を立てて笑った。


「分かってる。ちょっと言ってみただけ」


「びっくりした……」


 こっちは本気で焦ったのに。俺は残りのパンをかじって、笑いを誤魔化した。


 食べ終える頃、ソフィアが包みを膝の上へ載せた。


「そろそろ行かないと。今日は別の用事もあるし、家に帰ったらさっきのことをちゃんと話さなきゃ」


「俺も、家の人に言わないとなあ……」


「心配される?」


「たぶん。昨日から泊めてもらってるんだけど、すごくよくしてくれる人たちなんだ」


「だったら、余計にね」


「だよね……」


 俺は袋を持ち直した。左手首がまだ少し痛むので、右手に持ち替える。金物屋へ行くつもりだったが、今日は無理しない方がよさそうだ。野菜を頼んでくれたオルヴェンさんにも、早く届けたかった。


「カイ」


「ん?」


「日本の話、また聞かせてくれる?」


「もちろん。ソフィアの家で聞いた話も、気になるけど」


「思い出せることがあったら話すわ」


「ありがと。でも、それだけじゃなくて」


「それだけじゃなくて?」


「……また普通に話したいなって。今度は、最初から」


 言ってから、なんだか照れくさくなった。


 ソフィアは一瞬目を丸くした。それから、ほっとしたように笑う。


「私も。じゃあ、次はお互い、もっと平和な日にしましょう」


「頼むよ、ほんと!」


「それ、私に言われても困るわ」


 今度は俺が笑った。


 別れ際、ソフィアは通りを見回してから、こちらへ手を振った。


「気をつけて帰ってね、カイ」


「ソフィアも。今日はほんと、助かった」


「こちらこそ」


 人の流れに入っていく彼女を見送った。


 金物屋は、また来ればいい。少なくとも、店の場所は教えてもらっている。


 それより、家に帰って何て説明しよう。ネリサさんには心配させたくないし、オルヴェンさんには、野菜を買いに行って腕を痛めた理由を聞かれるだろう。


 左手首をそっと回してみる。


「……痛てて」


 誤魔化せる気が、まったくしなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。