第2話 日本って、国の名前?
「おい、お前。余計なことすんな」
男は足を止めるなり、俺の胸元へ手を伸ばした。
「嫌がってるだろ! そこ、通してやれよ!」
言いながら、半歩だけ斜めに下がる。男の手が上着のすぐ前を通り過ぎた。
「関係ねえだろ!」
「そんなの、放っとけないだろ!」
なるべく大きな声を出した。市場の呼び込みに負けそうで、もう一度息を吸う。
「誰か! 女の子が三人に囲まれて――」
「黙れ!」
男が踏み込んできた。
今度は腕をつかまれる。そう思った瞬間、身体が先に動いていた。正面から退くのではなく、伸びてきた手の外へ足を運ぶ。男の指は俺の袖をかすめ、そのまま木箱の縁を叩いた。
ガタン、と大きな音がした。
「っ、この野郎!」
男は箱に片手をつき、振り返った。
……よし。まだ動ける。
昔、教わった足の運びが役に立った。殴り返す必要はない。あの子が出てくるまで、こっちに引きつけておけばいい。
「おい! 荷を倒す気か!」
通りから別の声が飛んできた。
木箱の持ち主らしい露店の男が、積み荷の向こうから顔を出す。
「すみません! 路地で女の子が囲まれてるんです! 見てください!」
「はあ?」
露店の男は、俺と目の前の男を見比べた。それから木箱を回り込み、路地の奥を覗こうとした。
「騒ぎやがって……」
男が舌打ちする。
俺を捕まえようと、もう一度腕を伸ばしてきた。避けきれず、左の手首を握られる。
「痛っ!」
力任せに引くと、かえって食い込む。俺は足を踏み替え、握られた腕の側へ身体を寄せた。男が体勢を崩し、木箱の方へ一歩退く。その隙に手首を引き抜いた。
「何なんだよ、お前!」
「助けを呼んで何が悪いんだよ!」
勢いで言い返してから、ちょっと後悔した。男の顔が一段と険しくなる。やばい。もう一回つかまれたら、同じように抜けられるとは限らない。
そのとき、路地の奥で金髪が揺れた。
少女が動いている。小さな包みを左腕に抱え、空いた右手を前へ出して、出口に残った男を牽制していた。
「そこを通して!」
「勝手に行くなよ」
男が進路を塞ぎ直す。少女は壁の方へ踏み出しかけ、すぐ反対へ身体を返した。男がそちらへ動いた瞬間、彼の脇にできた隙間へ滑り込む。
おっ、抜けられるか。
そう思った途端、奥の壁際にいた三人目が少女へ近づいた。背後から肩へ手を伸ばす。
『後ろ!』
思わず日本語が飛び出した。
少女は一瞬、俺を見た。言葉は伝わらなかったらしい。けれど俺の目線を追い、背後から来た手に気づいて身をかがめた。指先が金髪の端をかすめる。
「ちょこまかと!」
少女は返事をせず、通りへ向き直る。出口を塞いでいた男が、また行く手に立った。
「もう、どいてって言ってるでしょう!」
その男の手が伸びる。少女は包みを抱え直し、空いた手で相手の腕を外へ押しながら、その脇を抜けようとした。もう路地の入口まで、あと数歩だ。
男が少女の袖をつまんだ。少女の足が一瞬止まる。
「おい、離せよ!」
木箱のそばにいた男が、少女の方を振り向いた。俺はその横を抜け、路地の入口へ一歩踏み込む。少女の袖をつかんでいる男の腕を横へ払った。
「何だ、お前まで!」
少女がすぐに腕を引く。布が男の指から抜けた。
「今だ、こっち!」
「分かってる!」
言い返す勢いで、少女が俺の横を通り抜けた。
よかった。これで――。
「逃がすか!」
最初の男が俺の前へ回り込んでくる。路地の奥の二人も、こっちに向かってきた。
あ、まずい。三人まとめて来られたら、さすがに無理だ。
「こっち、早く!」
少女が振り返り、俺の上着を引いた。包みを抱えたまま、通りの方へ俺を促す。
「ああ、行こう!」
俺は男から目を離さず、少女と一緒に木箱の外側へ下がった。
「誰か、助けて! この人たちに道を塞がれたの!」
少女が市場へ向かって声を張り上げる。
「おい、何してる!」
今度は露店の男の声だった。積み荷の前へ出て、こちらを指さしている。
「嫌がってるだろ! 放っといてやれ!」
隣の店からも人が顔を出した。近くの通行人が足を止め、別の人が少女に向かって手招きをする。
「こっちへ! 早く!」
最初の男が俺の方へ伸ばしかけた手を止めた。
「……ちっ。面倒くせえ」
俺もその隙に通りへ出る。少女が上着を離すと、二人揃って店の前へ駆け込んだ。
路地の奥に残った男たちは、こちらを睨んでいた。けれど、もう目を向けているのは俺たちだけじゃない。
「行くぞ」
「おい、まだ――」
「見られてんだよ!」
三人は路地の奥へ引っ込んだ。木箱の陰で姿が見えなくなっても、俺はしばらくそこから目を離せなかった。
「……走れる?」
少女が小声で聞いた。
「ああ」
「じゃあ、もう少し離れましょう」
俺たちが歩き出しかけたところで、露店の男に呼び止められた。
荷車の車輪が石畳を鳴らし、すぐそばでは値段を言い合う声がしていた。さっきまでうるさいと思っていた市場の音が、ようやくまともに耳に入ってくる。
「お前ら、怪我はないか? あいつら、知ってる奴か?」
「知りません。道を通ろうとしただけなんです」
少女が答えた。しっかりした口調だったが、最後だけ声が揺れた。
「そうか……まったく。こんな人通りのある所で何やってんだ」
「助けていただいて、ありがとうございます」
「礼はいい。しばらく路地へ戻るなよ。誰かと一緒に行け」
俺も頭を下げた。左手首に指の跡が赤く残っていた。
「お前、そっちは?」
「ちょっと手首をつかまれましたけど、大丈夫です」
「だったら、無理はするなよ」
少女も俺の左腕を見ていた。
「痛むの?」
「少し。でも動くから、大丈夫だと思う」
「そういうときに無理するの、やめた方がいいと思う」
「はい……」
思わず返事をしたら、彼女は少しだけ笑った。けれどすぐに、まだ人のいない路地の方へ目を向けた。
大丈夫だろうか。さっきの連中が戻ってきたら困る。俺たちは、露店の男にもう一度礼を言って、人通りの多い方へ移った。
「……怖かった」
少女が息を吐いた。
「俺も」
動けたのはよかった。でも、まだ心臓が速いし、左の手首はじんじんする。あと一人来ていたら、どうなっていたか分からない。
「でも、あなたがあの人を引きつけてくれなかったら、逃げられなかったと思う」
「いや、そっちが助けを呼んでくれたからだよ。俺一人じゃ危なかったし」
「当然でしょう。あなたも、私を放っておかなかったんだから」
そう言ったあと、彼女は包みを持ち直した。布の端が少しずれていたのに気づいて、慌てて直している。
「あ、それ。大丈夫?」
「ええ、たぶん。中身は無事みたい」
「よかった」
「あなたの荷物は?」
「……あ」
背中が冷たくなった。
「野菜!」
「野菜?」
「買い物袋、置いてきた!」
通りから路地の入口を見ると、木箱の脇に袋が残っていた。ちょうど箱のこちら側で、人のいる場所から手が届きそうな距離だ。
「取りに行くつもり?」
「できれば。人に頼まれたやつで……」
彼女は一瞬、呆れたような顔をした。
「また一人で近づいたら、さっきと同じよ」
「だよなあ」
結局、さっきの露店の男にもう一度声をかけ、見ていてもらいながら袋を拾った。路地の中へは戻らずに済んだ。
中を覗くと、根の先が赤い細長い野菜が、買ったときのまま入っていた。急に力が抜ける。
「助かった。これまでなくしたら、帰って何て言えばいいか……」
「あなた、自分がつかまりそうだったのよ?」
「分かってる、分かってるけど、それとこれとは別っていうか」
少女が吹き出した。
「ごめんなさい。でも、変わった人ね」
「えっ、もう変わった人扱い?」
「だって……ねえ?」
「……いや、否定できないけどさ」
笑われているうちに、肩から少しだけ力が抜けた。
彼女は目尻を指で押さえ、ふと何かを思い出したように言った。
「そういえば、さっきの言葉」
「言葉?」
「私の後ろに男が来たとき、あなたが叫んだでしょう。あの響き、どこかで聞いた気がするの。でも意味は分からなくて……何語なの?」
ああ、あれか。
「日本語だよ。俺がいた国の言葉」
「ニホンゴ……。さっきは何て言ったの?」
「『後ろ』って。危ないから、後ろ見てって意味」
「そうだったのね。言葉は分からなかったけど、あなたがこっちを見て叫んだから。振り返ったら、手が伸びてきてた」
「間に合ってよかった」
「本当に」
彼女は少し黙ってから、こちらを見た。
「……私たち、まだ名前も知らないのよね」
「そういえば!」
あんなことがあったのに、そっちはすっかり抜けていた。
「俺はカイ。霜鳥櫂っていう。カイでいいよ」
「カイ……。私はソフィア。よろしくね」
「よろしく、ソフィア」
足元に袋を置いて右手を差し出すと、ソフィアも小さな包みを抱え直して握り返してくれた。
「左腕は、まだ痛い?」
「うん、ちょっとだけ。右は平気」
「ならよかった」
ソフィアは俺の手を離すと、少し首を傾げた。
足元の袋を拾い直す。
「ねえ。『日本』って、国の名前?」
「そう。俺、そこから来たんだ」
「……やっぱり」
「え?」
「名前だけなら、家で聞いたことがあるの。日本っていう場所のこと」
思わず声が大きくなった。
「えっ、ほんとに?」
「ええ。でも、そんなに詳しくないのよ。家族に何か縁があるらしい、っていうくらいで」
「そっか……」
この街に来てから、初めて聞く反応だった。今までは日本という名前を口にしても、知らないという顔をされることばかりだったから。
「ごめんなさい。もっと分かればいいんだけど」
「いや、全然! 『日本』って言って通じただけでも、俺にはすごいことなんだよ」
「そんなに?」
「うん。実は、日本に帰る方法を探してるんだ」
ソフィアが目を丸くした。
「帰る方法? 日本って、そんなに遠いの?」
「遠いっていうか……俺も、どうやってここに来たのか分かんなくてさ。気づいたら知らない山の麓にいたんだ」
「気づいたらって……」
「うん。普通に道をたどって帰れる気がしなくて。村で、昔この街に変わった技術者がいたって聞いたから、今はその人のことを調べてるんだ」
「その人が日本と関係してるかもしれないの?」
「そうだったらいいな、って。まだ名前も知らないんだけど」
「それは……探すのが大変そう」
「自分でもそう思う」
笑ってみせたが、ちょっと苦かった。
ソフィアはしばらく考えるように黙っていた。
「私も、家で何を聞いたか、すぐには思い出せないけど……」
「うん」
「思い出したら、また会って話してもいい?」
「もちろん! 俺も聞きたいし」
言ってから、さっきのことを思い出して付け加えた。
「次は、あんな路地じゃないところでね」
「それは私も賛成」
二人で笑った。
でも、ソフィアの肩はまだ固い。俺だって、あの路地の方を見るのは嫌だった。少し歩いて、市場の賑やかな方へ戻ることにした。
空いている腰掛けのある店先で、軽く食べられるものを買った。焼きたての小さなパンをひと口かじる。さっきまで胃がきゅっと縮んでいたのに、飲み込むと途端に腹が減ってきた。
「お腹、すいてたんだ」
「今、気づいた」
「私も」
ソフィアが自分のパンを見て、少し笑う。
「あなた、領都には来たばかりなの?」
「昨日、村から。まだ店も道も全然分かんない」
「それなら今日は、ずいぶん大変な街歩きになっちゃったわね」
「ほんとに。金物屋を一軒探しに来ただけだったのに」
「金物屋?」
「さっき話した技術者の噂。材料を扱ってる古い店なら、何か知ってるかもって教えてもらって」
「へえ。そこまで聞いたのに、まだ行けてないの?」
「うん。途中で誰かさんが大変なことになってたから」
「……それは、お騒がせしました」
「いや、ごめん! 責めたわけじゃない!」
慌てて手を振ると、ソフィアがようやく声を立てて笑った。
「分かってる。ちょっと言ってみただけ」
「びっくりした……」
こっちは本気で焦ったのに。俺は残りのパンをかじって、笑いを誤魔化した。
食べ終える頃、ソフィアが包みを膝の上へ載せた。
「そろそろ行かないと。今日は別の用事もあるし、家に帰ったらさっきのことをちゃんと話さなきゃ」
「俺も、家の人に言わないとなあ……」
「心配される?」
「たぶん。昨日から泊めてもらってるんだけど、すごくよくしてくれる人たちなんだ」
「だったら、余計にね」
「だよね……」
俺は袋を持ち直した。左手首がまだ少し痛むので、右手に持ち替える。金物屋へ行くつもりだったが、今日は無理しない方がよさそうだ。野菜を頼んでくれたオルヴェンさんにも、早く届けたかった。
「カイ」
「ん?」
「日本の話、また聞かせてくれる?」
「もちろん。ソフィアの家で聞いた話も、気になるけど」
「思い出せることがあったら話すわ」
「ありがと。でも、それだけじゃなくて」
「それだけじゃなくて?」
「……また普通に話したいなって。今度は、最初から」
言ってから、なんだか照れくさくなった。
ソフィアは一瞬目を丸くした。それから、ほっとしたように笑う。
「私も。じゃあ、次はお互い、もっと平和な日にしましょう」
「頼むよ、ほんと!」
「それ、私に言われても困るわ」
今度は俺が笑った。
別れ際、ソフィアは通りを見回してから、こちらへ手を振った。
「気をつけて帰ってね、カイ」
「ソフィアも。今日はほんと、助かった」
「こちらこそ」
人の流れに入っていく彼女を見送った。
金物屋は、また来ればいい。少なくとも、店の場所は教えてもらっている。
それより、家に帰って何て説明しよう。ネリサさんには心配させたくないし、オルヴェンさんには、野菜を買いに行って腕を痛めた理由を聞かれるだろう。
左手首をそっと回してみる。
「……痛てて」
誤魔化せる気が、まったくしなかった。




