第9話|グリューワインとシジミ問答
いまだ体調の戻らないヒナタに暖を取らせるため、大事に残しておいたワインを開けた。
とっておきのはずだったが、コルクがわずかに崩れていたせいだろう。
注いだ酒は飲めなくはないものの、熟れすぎた林檎のような鼻につく酸味を帯びていた。
ヒナタに出会う前であれば、ダンジョンに残された酒としては十分に美味いと思えただろう。
小さく肩を落とせば、熾火が小さく鼻を鳴らした。
何かと思い目をやれば、咥えていた、今やヒナタの愛読書と化した備忘録を、オレに向かってグイと差し出す。
パラパラとページを捲るうち、オレにも出来そうな一つのレシピが目に入った。
跋扈する魔物を打ち払いながら、ダンジョンの奥地を探索する。
やっとの思いで見つけた、金塊に似た果実――『金晶果』を懐に仕舞い、急いで礼拝堂へ戻った。
鍋にワインを入れて火にかけた。
火加減は熾火に一任し、同じく懐から、白く透き通った琥珀糖のようなものを取り出す。
『霜積』と呼ばれるそれは、シナモンに似た香りを持つ樹液が、ダンジョンの奥地で長い年月をかけて堆積し、結晶化したものだと言われている。
霜積を薄く削り、くるりと丸めて器の底へそっと重ね入れる。
そうして、その上から熱いワインを注ぎ入れれば、半透明の結晶が溶けながら広がり、やがて杯の中で白薔薇のように咲いた。
仕上げに、八角にも似た甘く刺激的な香りを持つ金晶果を削り、金粉のように散らせば地上であれば王族であっても容易には口に出来ぬであろう、贅を尽くした一杯が完成した。
物音を立てぬよう、ゆっくりと寝室のドアを開ければ、ヒナタはまだ眠っていた。
心細い思いをさせずに済んだことにホッと胸をなでおろしながら、再びその小さな手を握れば、ゆっくりとショコラ色の瞳が開いた。
オレを見とめた途端、その瞳が安心したようにふっと細められる。
それを目にした瞬間、またオレの仮面が、ほんの少しだけ瓦解したのが自分でも分かった。
ヒナタが体を起こしたのを見て、
「飲めるか?」
そう言って、アルコールを飛ばしたワインを手渡せば、
「きれい……」
ヒナタはそう呟き、しばらくの間カップの中身に目をキラキラと輝かせていた。
そして、コクリと一口飲み込むなり、
「美味しい」
と、大きく目を見開いた後、オレに向かってまた実に無邪気に笑ってみせた。
ヒナタがまた眠った後で、空になったカップを前に、一人ボンヤリと物思いに耽る。
ヒナタから返されたカップは文字通り空だった。
本来、霜積は、ワインに移った風味とグラス越しにその見た目を楽しむもので、食すものではない。
しかし、ヒナタは
『なるほど、アルセルさんはお味噌汁に入ってるシジミには口をつけないタイプですね。ちなみに、私はシジミの身も毎度美味しくいただく派です』
そう言って、カップに残った霜積の一片を指でつまみ口に入れた。
そうして驚くオレに向かい、事もあろうに、別の一片をオレの口元に差し出して見せたのだ。
しばしの葛藤の末、促されるままそれを口にして
『確かに美味いな』
そう言えば、またヒナタが嬉しそうに笑うから。
良識ある年長者として彼女の行儀の悪さを諫めなければと思うのに、また悪い癖が出て、そうする事がどうにも出来なくなってしまったのだった。
「また、か……」
思わずそんなことを呟いた瞬間、以前、甘やかしてばかりだった少女のことを思い出す。
彼女は、オレのことを『兄様』と呼んだ。
とはいえ、実の妹ではない。
伯爵家次男であるオレにとって、彼女は母の遠縁――侯爵家の一人娘だった。
*
彼女に初めて会ったのは、オレが二十三の時だった。
十六でデビュタントを迎えた彼女の、エスコート役を務めることになったのだ。
エスコート役は、レディの名誉を守るため、時に決闘さえ引き受ける。
家を継ぐ責務を負わず、近衛として剣ばかり磨いてきたオレは、その『番犬』にはちょうど良かったのだろう。
そして、番犬を必要とするだけのことはあり、その場に集ったどの令嬢よりも彼女は幼げで……そして、誰よりも眩しく、美しかった。
家庭教師以外と踊るのは、初めてだったのだろう。
形式通りにダンスを申し込むと、彼女はひどく緊張した様子で小さく頷いた。
どうにかこうにか、大きな失敗もなく一曲を踊り終える。
俯く彼女に、
『気にするな。筋は悪くない』
と、社交辞令そのものの慰めの言葉をかけようとした、その時だった。
彼女が、こらえきれないといった様子で、突然笑い出した。
驚いて理由を問えば、散々足を踏まれながら、それをおくびにも出さず澄ましているオレの顔がおかしくてたまらなかったのだと彼女は言った。
言うに事欠いて、それか?
デビュタントのダンスで、失敗は許されない。
だからこそ、とんでもない方向へ踏み出そうとする彼女を必死にリードし、足を踏まれても涼しい顔を保ち、二人揃って倒れぬよう渾身の力で踏みとどまったというのに……。
喉元過ぎれば、実にいい気なものだ。
それでも――
その眩しいばかりに明るい笑い声を聞くうち、怒る気もすっかり失せてしまった。
周囲への紹介は諦め、実の妹にするように、しばし他愛もない話を振る。
政治や経済はからきしのくせに、流行りの芝居やドレスのことなら、年相応に無邪気な言葉が次々と返ってきた。
侯爵家で、子煩悩な両親や使用人達に甘やかされて育ったのがよく分かる受け答えだ。
実妹が十四の頃の方が、よほどしっかりしていただろう。
会話を続けるうちに、思い至った。
このエスコート役は、おそらくオレとの見合いも兼ねた引き合わせなのだろう、と。
侯爵がそんな気を回すのも無理はないと思える程、この甘ったれのお嬢さんが貴族社会で独り立ちできるとはオレにも到底思えなかった。
ましてや、王太子の伴侶など務まるはずがない。
彼女は王太子妃となるに申し分のない生まれと、誰もが目を奪われるほどの美貌を持ってはいても、中身はまだまだ『ねんね』なのだ。
侯爵は、さぞ口惜しく思っていることだろう。
そう思う一方で、王太子妃には不向きなその天真爛漫さを、オレはむしろ、愛らしく好ましく思ったのだった。




