第5話|香炉の影とローブの記憶
翌日――
もしかして、更に人間らしい生活を取り戻していけば、アルセルさんの素顔がもっと見えるようになるのでは?!
そう思った私は、アルセルさんが眠る礼拝堂の掃除を申し出たのですが……。
「必要ない」
そう素っ気なく拒まれてしまいました。
その代わり――
「……そこにあるものは今後も好きに使え」
とのお許しを得たので、浴室を掃除して、お風呂に入ることとしました。
仮面の下の素顔を見たい気持ちに嘘はありませんが、変な病気にかからないためにも、体を清潔に保つことは大事ですからね。
物置部屋にあったタワシで、石造りの浴槽から浴室の壁、そして床まで磨き上げること、体感にして約三時間。
カビというより埃まみれだった浴室は、見違えるほど綺麗になりました。
その後、井戸と円形の小さな浴槽の間を、重い水の入った木桶を持って往復すること十五回。
ようやく粗方水がたまったので、熾火を呼び、また鍋で湯を沸かしてもらい、それを浴槽に加えることにしました。
お湯が沸くのを待つ間に、明かり取りのため、浴槽の四隅に小さな青く光る結晶を沈めます。
すると、ギラギラしていた水がまた一変して、月明かりを受けて煌めく川面のような美しい色に染まりました。
一度目のお湯を注ぎ、立ち昇る湯気を眺めながら、まるで日本にあった川沿いの温泉のようだと思った時です。
また、良いことを思いつきました!
いくつもある礼拝に使われていたと思しき香炉の中に、オレンジ色に光る結晶を入れます。
それを浴室のいろんな所に置いたり吊るしたりすれば、あらまぁ、何と言うことでしょう☆
香炉の透かし彫りから美しい光と影が漏れる、素敵ななんちゃって行燈の完成です。
キラキラと煌めく水面に行燈の明かりが温かく揺れ、香炉に残っていた香りが湯気に乗って淡く漂います。
「ダンジョンの奥で、まさかこんな贅沢なバスタイムを過ごせるとは思わなかったな~」
そんな独り言をこぼしながら、鼻歌まじりにぽかぽかになるまで温まります。
これなら、今夜は熾火なしでも寒い思いをすることはないでしょう。
バスローブ代わりに洗濯しておいた白い女性もののゆったりとしたローブを羽織り、熾火の尻尾の隣に陣取って髪を乾かしていた時でした。
カチャッと、外から鍵が開く音がしました。
サッと立ち上がった熾火が、ドアの側に行ったかと思えば、何か小さな葉っぱの束を咥え戻ってきました。
「熾火のオヤツ?」
熾火にそう尋ねれば、また違うとばかりにジト目を向けた後、少し湿った鼻先で私の手首に触れます。
鼻先が触れたそこをよく見れば、枷の形に薄く痣が残っていました。
「……もしかして、薬草? 湿布みたいに使う、のかな??」
声に出して呟けば、そうだと言わんばかりに、熾火がパサリとそれを私の膝の上に落としました。
自分でも気づいていなかったのに。
こんな些細なことまで気にかけ、気遣ってもらえたことが、どうしようもなく嬉しくて。
それをわざわざとってきてくれたのであろうアルセルさんに直接お礼を言いたいと、勢いよくドアを開けた時でした。
「***?」
ローブ姿の私を見るなり、アルセルさんが、私の知らない誰かの名前を小さく呟きました。
そして次の瞬間、再びその腕の中にまたギュッと強く抱き込まれました。
きっと、アルセルさんにとって大切な人と間違えられたのでしょう。
ドキドキするよりも先に、なぜか胸の奥が小さく痛んだ時でした。
グッと、息が詰まるほどに、私をその広い胸の中に閉じ込める腕に力が込められたアルセルさんが
「***、どうして……どうしてオレを裏切った」
私の旋毛に向かい、そんな物騒な言葉を零しました。
◆◆◆◆◆◆
忘れたはずの記憶を、最も鮮烈に呼び覚ますのは香りだと、そう言ったのは誰だっただろうか。
聖女が式典で祈る際に纏う真っ白なローブと、その時に焚かれる香の匂いに誘われるように、
「***」
我知らず、誰かの名前と思しき音の羅列が口から零れた。
「どうして……どうしてオレを裏切った」
続いて零れたそんな恨み言を自分自身の耳で聞いた瞬間、重い暗雲のように垂れ込めていた霧が晴れ、いつしか失われていた記憶が少しずつ戻ってくるのを感じる。
今はいつだ。
あれから、どのくらいの時が経ったのだろう。
そんなことを思いながら、視界を邪魔する仮面を外そうとして、それが不可能なことを知った。
わずかに肌を晒している自らの首に触れれば、そこにあるはずの熱を感じることは出来なかった。
自分で選んだ末路じゃないか。
そう思うのに、どうしようもない喪失感を覚える。
また何も感じずに済むよう、再び深い闇に呑まれてしまえばいい。
そう思った時だった。
「アルセルさん?」
すぐ近くで発せられた柔らかな声が、オレの耳朶を打った。
驚いて腕の中を見れば、見知らぬ少女が酷く心配そうにこちらを見ている。
今、一番心配すべきなのは、こんなバケモノに囚われている自分自身のことだろうに。
そう思った瞬間、思わず人間だった頃の癖が出て、彼女の顔にかかる柔らかな髪を指でそっと避けてやれば、彼女の目に映るオレは、相も変わらず恐ろしい異形の姿であろうに……。
彼女は場違いにもボッと頬を赤らめ、視線を泳がせた。
そしてそれは、まだオレが人であった頃、令嬢達がオレに向けていた反応とよく似ていたから。
オレは、囚われかけていた哀しみから、また少しだけ距離を置くことができた。
◆◆◆◆◆◆
「あの……アルセルさん?」
これ以上、その綺麗なサファイアブルーの瞳に見つめられていると心臓が持たない気がして、もう一度名前を呼べば。
アルセルさんは小さな溜息を一つついた後で、ゆっくりとその腕を解いてくれました。
「……私、また何かやらかしてしまったでしょうか?」
自分のやらかしを直視するのが怖くなって、恐る恐るそう尋ねると、
「いや、自由にして構わないと言ったのはオレだ。ただ……香の匂いにあてられ、そのローブに混乱した」
そう言って、アルセルさんは慌てた様子で部屋を出ると、また外から鍵をかけました。
気を取り直し、服を着替え。
さて今日は何を作ろうかとキッチンに立って腕まくりをした、その時でした。
黒い何かが、カサッと音を立てて私の視界の隅を横切りました。
「アルセルさん! 緊急事態です!! 入れて下さい!!!」
一目散にドアへ駆け寄り、へばりつくようにして激しく叩きながら、大音声でそうのたまえば。
アルセルさんは、あんな見た目と『魔王』という呼称に反して、酷く生真面目な性分の人なのでしょう。
「そっちが中だ! 人聞きの悪いことを言うな!!」
無視することも出来たでしょうに。
そんなことを言いながら、渋々といった様子ではありましたが、また鍵を開けてくれました。
思わず腰を抜かしかけたものの、あれがいるかもしれない床になんて、絶対に座り込みたくなくて。
開けられた扉の先にいたアルセルさんの長い脚をよじ登るようにして、恥も外聞もなくその胸元に縋りつけば
「お前……せっかく離してやったばかりだというのに。……オレが怖くないのか?」
呆れた声でそう尋ねられたので、Gより怖いものはないと速攻で断言すると、
「そう、なのか?」
仮面越しにも、アルセルさんがなぜか酷く複雑そうな顔をしたのが分かりました。
そんなこんなで私に対し、心底呆れた様子を隠してもくれないアルセルさんでしたが――
熾火が害虫駆除を終えるまでという条件付きで、こちら側にいることを許してくれました。
「じゃあ、せっかくなので、こちらのお掃除を!」
お礼も兼ねて、ワクワクしながらそう申し出れば、
「必要ない。座っていろ」
と、一刀両断されてしまいました。
ここを追い出されてはかなわないのでね。
残念ですが、仕方がないのでアルセルさんの言いつけ通り、ちゃんと座って過ごすことにします。
ですが……。
話しかければ『うるさい』と叱られ、黙れば黙ったで『目がうるさい』と酷く鬱陶しがられ……。
結局、アルセルさんを見ない、無駄に話しかけないを交換条件に、掃除を許可されることと相成りました!
熾火に頼んで物置部屋から箒とバケツ、雑巾を取って来てもらい、礼拝堂をまた長い時間をかけて磨き上げること、体感にして約二時間。
掃除の甲斐もあり礼拝堂からは埃っぽさが消え、流れる空気も澄んだ、どこか厳かなものへと変わりました。
しかし、残念ながらアルセルさんの仮面が剥がれることはありません。
『また何か美味しいものを考えないと』
そう思い、礼拝堂の入り口を塞ぐように、片膝を立てて壁にもたれ、目を閉じるアルセルさんをちらりと盗み見た時です。
ふと、彼の背後にあるステンドグラスの窓が目に入りました。
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次回は、本日お昼の12時10分に投稿予定です。
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