第26話|帰さない
王位継承を見据えた、二十歳の誕生日――
その日に行われた召喚は、成功するはずだった。
いや、そうでなければならなかった。
そうでなければ、この国は他国からの侵略と、ダンジョンに巣食う魔王の脅威によって、内外から同時に崩壊を始める。
それなのに――
多くの忠臣の命を対価に現れたのは、細い糸のように引き延ばされた、勇者だったものの遺骸だった。
心は既に擦り切れ、何の感情も動かない。
これでこの国も終わりか。
ただ静かにそう思った時、高位神官と自分以外、誰も立ち入れないはずの部屋の片隅に、見慣れない服装をした少女を見つけた。
おそらく召喚に巻き込まれたのだろう。
こういうことは、他国でも稀にあったと記録に残っている。
異世界に生まれ、この世界に干渉する力を持つ勇者を召喚することは、人道的な理由から、とうに世界中で禁じられている。
かわいそうだが、見られた以上、始末するしかないだろう。
そう思い、佩いていた剣の柄に手を掛けた時だ。
神官長が、彼女に対して恭しく頭を垂れて言った。
「よくいらしてくださいました、聖女様。どうか、貴女様のお力で魔王より我らをお救いください」
神官長は咄嗟に、ただ巻き込まれただけの少女を聖女に祭り上げ、『国を滅ぼされたくなくば、聖女を贄に寄こせ』と使い魔を遣わした魔王への貢ぎ物にする算段をつけたのだろう。
自分に傅く年長の大人たちを前に呆然と立ち尽くす少女には、聖女という肩書に似合うだけの荘厳さの欠片もない。
小柄で、粗末な身なりをしたその少女を、剣の柄から手を離した俺は、酷く冷めた気持ちで遠巻きに眺めていた。
その少女は、名前をヒナタと言った。
十五にも満たない子供かと思ったが、彼女は十九歳で俺とは一つしか年が変わらないという。
彼女の王宮での生活が始まっても、最初に抱いた、聖女と呼ぶにはあまりに不釣り合いな、華も威厳もない世間知らずの少女という印象が、大きく覆ることはなかった。
一方――
それなりの教育は受けてきたようで、礼を知らないわけではないようだったが、どういう訳か、ヒナタは妙に人との距離が近かった。
言葉遣いがなっていないのはもちろんなのだが、それ以上に、肝心なところで遠慮がないのだ。
無礼と言い捨てれば、それまでなのだが
「エルドリック……様?」
付け慣れない敬称に少しはにかみながら、小さく首を傾げて無邪気に微笑まれると、何故だろう。
叱責の言葉を続けることが、上手くできなくなってしまった。
水辺での出来事は、ただの事故に過ぎなかった。
最初に足を滑らせたのは、間違いなくヒナタで。
気づいたときには、彼女を庇うため、胸の中に抱き込むようにして仰向けに倒れ込んでいた。
濡れた衣が肌に張り付き、幼さの残る顔立ちとは不釣り合いな、成熟した身体の線が露わになる。
彼女を胸の上に抱き込んでいる以上、ヒナタがどいてくれない限り、逃げ場はなく。
紳士らしく視線を逸らすべきだと、頭では分かっていたのに……。
露わになった首筋を伝い、胸元へと滑り落ちていく水滴の軌跡から、視線を逸らすことが、どうしてもできなかった。
吐息が重なるほどの距離で、
「あはは、びしょ濡れですね」
ヒナタが俺の前で初めて声を上げて笑い、その声が鼓膜を震わせた――その時からだ。
想定外の距離の近さで繰り出される、彼女の理解不能な振る舞いを、思わず目で追うようになるのを。
そしてその視線に、これまで誰に対しても抱いたことのない熱が籠るのを、自分では止められなくなってしまった。
そんな頃、ヒナタの扱いを巡って、城内では様々な策略が巡らされていた。
彼女を正式に聖女として祭り上げ、その存在を国内外への牽制に利用しようと考える者。
彼女を聖女を騙る偽物として弾劾し、魔王への贄とすることで、仮初の安寧を得ようとする者。
そして、彼女を傀儡の王妃に据え、現在王妃教育を受けている娘を持つ侯爵家の力を削ごうと画策する者。
本来ならば、聖女は正妃となるべき存在だ。
だが、ヒナタには到底、そのような責務は務まらない。
正妃には、やはり長年王妃教育を受けてきた婚約者である侯爵令嬢が適任だろう。
そう考えた俺が、ではヒナタをどうするべきかと決めかねていた時だった。
子爵家より、彼女を妻に迎えたいとの嘆願書が届いた。
小姓としてヒナタの世話をしている、子爵の婚外子であるギンの顔を思い出し、合点がいく。
子爵の亡くなった愛人は、異世界人の末裔だった。
子爵はギンの母を囲った後、彼女を一度も外に出さず、それによって心を病ませ、早逝させたことで有名だ。
そんな者のもとに、寄る辺を持たないヒナタを嫁がせるわけにもいかないのだから、仕方がない。
そう自分自身に言い訳をして、俺は彼女を側妃にすることを決めた。
正妃として重い責務を背負わせるより、側妃という比較的気楽な立場の方が、ヒナタの性にも合っているだろう。
決して、彼女を軽んじたわけではない。
むしろそれは、自分らしくもない、初めて下した愛ゆえの決断だった。
しかし――
「君を、側妃として迎えることにしようと思う」
ヒナタにそう告げた瞬間、
「へ?! いや、無理ですよ。お断りします」
軽く。
あまりにも軽く、ヒナタがそう言ったものだから。
胸の奥に残っていた、最も大切にすべき何かが、音を立てて、取り返しのつかないほどに壊れてしまった。
だからだろう。
その後のことは、情も消え、かつてのように冷静に判断することができた。
「そうか。だが、君をこの中途半端な立場のまま放置すれば、この国の救いとなるどころか、争いの火種となるだろう。だから、自分で考えて選ぶといい。私の側妃として私の側で生きるか、聖女として魔王の贄になるか」
彼女はさすがに一瞬怯んだが、それでも、最終的に選んだのは側妃ではなかった。
「聖女ヒナタに神の御加護のあらんことを」
それだけ告げると、彼女を聖女として扱うべく、初めてその前に跪いた。
そして――
差し伸べられもしなかったその細い手を自ら取り、最初で最後となる、形ばかりの口づけを落とした。
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「これでいい」
自分に言い聞かせるように、何度もその言葉を口にする。
そうして、全ては正しく処理されたはずだったのに――
ようやくヒナタの夢を見なくなった頃になって、実に嫌な報告を受けた。
「聖女ヒナタの生存を確認しました」
それを聞いた瞬間だった。
濡れた衣が。
水滴の滑る白い首筋が。
触れた身体の温かな感触が。
すぐそばで笑った時の甘い呼気が。
そして何より、あの無垢な笑顔が、長い歳月などなかったかのように鮮明に蘇り、どうしようもなくなってしまった。
「聖女というより……もはや魔女だな」
低く短くそう吐き捨てた後、静かに命じる。
「生きたまま、アレを私の前へ連れてこい。……二度と、失敗は許さん」
その時の俺はきっと、酷く醜い顔をしていたと思う。
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久しぶりに会ったヒナタは、自分の記憶の中の姿と何ら変わっていなかった。
そのせいだろう。
自分の中に眠っていた執着が、再び鎌首をもたげ、彼女を飲み込もうとするのが分かった。
それなのに。
ヒナタは地上に帰還したからといって、王宮に留まるつもりはないと平然と言った。
これからも聖女として、自分を助けてくれた騎士と共にダンジョンへ戻り、浄化を続けたいのだと、そんな許しがたいことを、また平然と言ってのけるから――
俺は、自らが理想としてきた王の姿に背いてでも、今度こそ、彼女を力づくで自分の物にすることを決めた。




