第22話|枕
鎧が外れ、久しぶりに湯に浸かり、地上の時間にして何百年ぶりかに寝具で熟睡した。
本来なら調子が良くなるところだろうが――
生憎、目覚めた時から頗る体調が悪かった。
歪みにより、人として本来あるべき寿命よりも、ずっと長く生かされてきたのだ。
それが解かれつつある今、とうの昔に死んでいるはずの自分の肉体が、ついに限界を迎えたと考えるのが自然だろう。
熱に浮かされながら、
「……オレも、ここまでかな」
思わずそう漏らせば、
「ただの湯冷めですよ」
何も知らないヒナタが、僅かに白濁した、よく冷えた飲み物の入ったカップをオレに差し出しながら言った。
仄かに甘い水のようなそれに首を傾げれば、
「スポーツドリンクモドキです」
そんな得体の知れない名前を告げられる。
「ただの風邪ですから、一日寝てればすぐに良くなりますよ」
そう笑うヒナタに、
「いや、そうではなくてだな」
と反論を試みたのだが……。
「昨日、久しぶりのお風呂だからって長湯したの忘れましたか? 本当に、男の人って大げさなんだから」
そう一方的に断言され、これ以上口を開くのも億劫になって、そのまま目を閉じた。
また眠っていたのだろう。
次に目が覚めた時には、ヒナタが言ったとおり、すっかり体調は元に戻っていた。
「……治った?」
未だ半信半疑ながら、ヒナタがいるのであろうキッチンに続くドアを開けた時だった。
その先に、期待していた光景がどこにもないことに気が付いた。
キッチンの代わりにそこにあったもの、それは陽光に照らされた見覚えのある道で。
ハッとして隣を見れば、そこには見慣れたキッチンに続くドアが、確かに別にあった。
ヒナタには危険だから絶対に行くなと、自分で言ったくせに。
そのあまりの懐かしさに、思わず駆け出すようにして、その道を辿っていく。
するとそこには、やはり生家である屋敷があった。
開け放たれた門を通り、同じく開け放たれたドアを抜けて、中に入る。
庭もホールも綺麗に保たれ、花瓶には瑞々しい百合がいけられているというのに、家族はもちろん、一人として使用人の姿はない。
肖像画の前を通り、父の書斎のドアを開けるが、淡い期待とは裏腹に、やはりそこにも人の姿はなかった。
懐かしい屋敷の中を、時間をかけてゆっくりと巡った後、自分の部屋に入れば、そこもまた、出て来た時と何ひとつ変わっていなかった。
書き物机の引き出しを開ければ、学生時代に好んで使っていたペンと、書きかけのノートが、あの日のままに残されていた。
自室の椅子に腰掛け、物思いにふけり、一体どのくらい経ったのだろう。
気持ちの良い風が入って来る窓の外に目をやると、群青を帯び始めた空に、白い月が昇り始めているのが見えて、
「いい加減、あいつの所に帰らないと」
自分でも驚く程にごく自然と、そう、思った。
母の部屋に入り、代々引き継がれてきた指輪を探そうかと思って、止めた。
何か一つだけ持ち帰れるのなら、ヒナタは別の物の方が喜ぶのではないかと考えたからだ。
キッチンで、何がよいかと首をひねる。
バター、ミルク、卵、ベーコン。
どれも悪くないように思われたが、いまいち一つに決めきれず、一旦、自分の部屋へ戻った。
さすがに寝台は持って帰れないと自嘲しながら、枕と上掛けの柔らかさを確かめる。
ダンジョン内の基地に置かれていた物資で作ったあり合わせの寝具とは全く異なる、上質な枕と上掛けを前に、ヒナタならどちらが喜ぶだろうと悩みに悩み、
『首が痛いと言っていたから、選ぶとしたらやはり枕だろうな』
そう思った時だった。
「アルセルさん?」
ヒナタに声をかけられ、ハッと目が覚めた。
周囲を見回せば、そこは屋敷の自室などではなく、疑似陽光の煌めきがドアから薄く差し込む、礼拝堂の元物置小屋だった。
大切なものは、他にもいくらでもあったはずなのに。
夢の中で、自分が持ち帰ろうとしたものが、よりにもよって枕だったことが滑稽で、思わず忍び笑いを漏らせば、
「何かいい夢でも見られましたか?」
そう言って。
オレにつられるようにして楽しげに笑ったヒナタの柔らかな手が、額に触れたから――
オレはまた、仮面が少し欠けていることに気づくと同時に、ここに戻って来たことを、酷く穏やかな気持ちで受け入れられたのだった。
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