46・第40回アメリカ大統領選挙
1944(昭和19)年11月7日、ワシントンDC
「何なんだこれは!」
大統領選挙一般投票日の朝刊は、ルーズベルトにとって気分の悪い内容だった。
先月起きたソロモン海、ミッドウェーにおける海戦の内容が堂々と載せられていた。
アメリカでは政府が情報を統制しているので知り得るはずがなく、況してやエセックス級空母が燃え盛る空撮などあり得なかった。
つまり、その写真は日本が流した物と見て間違いない。
ルートもだいたい分かっている。
「あのビヤ樽め!」
ルーズベルトはそう叫んだ。
「誰か!!」
そして、警察担当者を呼び出して「ありもしない写真や記事をひろめた犯人」を捜索するように命令を出した。
確かに日本が発表した第二次ミッドウェー海戦、ソロモン海海空戦の写真と発表内容は僅か数日でイギリスに届けられ、すぐさまカナダにまで伝わっていた。
カナダ国境と隣り合わせの五大湖沿岸都市や東部州へと情報が拡散されたが、それだけが理由という訳ではなかった。
新聞社が敢えて投票日当日にこぞってこの情報を載せた背後には、イギリスではなくソ連の影があった。
ソ連はいまやイギリスが抜けて補給量が減少したムルマンスクルートでのレンドリースはほぼ当てにしておらず、安全に受け取ることが出来るウラジオストックルートを重視していた。
そのため、まともに勝てないアメリカ海軍がアリューシャン方面で戦闘を行う事は好まず、出来る限り平穏に、ソ連へのレンドリース輸送を最優先としてほしいと伝えていた。
ルーズベルトもそれに従った方針を示していたのだが、ミッドウェーでの戦闘が生起した事でソ連首脳部は不安が頭を過ぎり、このような工作に至ったのであった。
さらに、ソ連としては中華大陸において勢力を拡大するにあたり、アメリカの関与はもはや邪魔ですらあった。
アメリカを中華大陸から遠ざける意味でも、現状での日米戦争の終息はメリットの方が大きいと考える様になっていたのである。
そのため、捜査が進むにつれてアメリカ共産党の関与やソ連と繋がる政府組織の人物が浮かび上がり、ルーズベルトにとっては墓穴を掘る形になってしまうのだが、このとき彼はそんな結果になるなど夢にも思っていなかった。
「イギリスがジャップに協力しているのが悪い!連中は敵だ!!」
続けてそう叫んでもいた。
それから数日後に確定した選挙結果は惨憺たるものだった。
「何とか勝てたんだな?」
「はい、得票率に関しては1ポイントの差もありません。未だ盛んに工作を疑う声がありますが、我々は何も操作はしておりません」
多くの州でほんの僅差で勝てた。敗北を伺わせるほどの僅差とあって不正工作の噂が絶えなかったが、誰もが無実を訴え続けていた。
投票日当日に全米各地の新聞社が太平洋におけるアメリカの敗北を報じた影響と考えるよりほかない結果であった。
1944(昭和19)年12月10日、真珠湾
「閣下、ハルゼーに関してはもはや庇いようもないのは分かります。しかし、たった一度の失敗でスプルーアンスにまで厳しい処分は必要でしょうか?」
太平洋艦隊司令部においてニミッツは幕僚からそう諌められていた。
「アレが無ければ君の言う通りだ。しかし、今のホワイトハウスや議会の状況からは避けられん」
ハルゼーはマッカーサー麾下という事もあってこれまで容易に手出し出来なかったが、今では状況が変化している。
大統領選挙投票日を前にして、とうとうフィリピンが独立を宣言し、日本どころかイギリスまでが承認している。
もはやマッカーサーの戦争目的は潰えたと言って良く、投票日当日の新聞にまでその内容が掲載されていた。
「私はミッドウェーで敗北したが、私戦ではない対日戦争の遂行に携われと、そう声を掛けられた」
選挙結果を受けてホワイトハウスは太平洋での戦略転換を発表し、マッカーサーを連合軍総司令官から降格し、一陸軍司令官とした。
その為、同格となる海軍司令官が太平洋には必要であり、その任を任せられる人物はニミッツしかおらず、新聞報道の醜聞については、ハルゼー、スプルーアンスを更迭するという、いわばトカゲの尻尾切りという判断となっていた。
「しかし、そうなると太平洋において指揮を執るに足る人物が・・・」
ハルゼーと並んで緒戦を戦っていたフレッチャーは既に太平洋に居ない。マッカーサーの手を離れた後の失敗により異動している。
さらに有力な指揮官を2人排除すればどうなるかは、明らかだった。
「いずれにしても、先ずはフランスをどうにかする方針らしい。我々はハワイを守っていれば良いんだ。しばらくは問題ない」
幸いと言うか、日本は守勢に徹しているのでニミッツには脅威が存在していなかった。
1944(昭和19)年12月12日、ダーウィン沖
「こちら日本海軍、こちら日本海軍。商船の救難信号を受信した。これより救難活動を行う」
チモール海は今や戦争が行われているのか問いたくなるほど平穏であった。
イギリスの停戦以来、この海域は中立船の航行が増え、日豪間で非武装地帯を設けて協調して航路の安全管理が行われているほどである。
警戒厳重なチモール海周辺に近づくオーストラリア軍はおらず、時折アメリカ潜水艦が撃沈される事があるだけであった。
それも、大抵は海峡の北側に侵入した場合という暗黙の了解があった。
しかし、この日は様子が違い、チモール海における救難信号である。
日本側だけでなく、オーストラリア側も飛行艇の宣言を了承し、捜索隊を派遣する旨を伝えた。
遭難したのはイギリス船という事から、両国共に交戦の意思など存在しなかったのだが、現場へ向かった二式大艇は銃撃を受けてしまう。
そこにいたのは潜水艦であり、しばらくすると潜行して居なくなった。
二式大艇はその姿を撮影はしたが、周辺に遭難者が居る事を懸念して攻撃は行わなかった。
しばらくしてオーストラリア側の哨戒機もやって来たが、日本側が警戒するも攻撃を受ける事はなかった。
さらに飛行艇が集まり最低限の救助活動をしていると、別のイギリス船も救難信号を受けて駆けつけて来た。
イギリス船へと救助者達を任せて日豪両国の部隊は帰途に就こうとしたその時、そのイギリス船が雷撃されてしまう。
二式大艇3機がすぐさま離水し索敵を行い、見事発見して爆弾を投下したが浮遊物は確認出来なかった。
これで話は終わったものと思われたが、2日後にダーウィンへと損傷したアメリカ潜水艦が寄港した事で事態は急変した。
「潜水艦スコーピオンは誤ってイギリス船を攻撃していた。彼女のコンパスが壊れて場所が分からなくなっていた」
アメリカ海軍はメディアにそう釈明し、艦長を軍法会議にかけると発表したが、中立国の船を立て続けに2隻も襲撃した行為は大統領を攻撃する材料として尾を引く事になる。
さらにダーウィンにおいてマズい事が起きていたが、戦時中に報道されることはなかった。




