30・ニューギニア島
1943(昭和18)年8月、ニューギニア島、ラエ
「また遠くへ来てしまったな」
侘美はしみじみとそんな事を呟いた。
彼はマレー電撃戦の後、マダガスカルへと渡っていた。
ちょうどイギリスの侵攻に鉢合わせて撃退し、停戦までマダガスカルの守備にあたっていた。
その後、帰国し部隊再編に当たっていたのだが、ソロモン諸島で活発化するアメリカ軍の動きに対応するため新編された水陸機動団第一機動軍を率いてラエへの増援として派遣されたのである。
現在の水陸機動団は陸戦兵力である機動旅団と航空戦力である機動飛行戦隊を束ねて運用する様になっており、今回もその編成でやって来ていた。
目の前の飛行場ではマレーやマダガスカルで苦楽を共にした九五式軽戦車が砲塔を外され、排土板を取り付けられた工作車として稼働している。
陸軍は運用上支障があった九五式軽戦車改を二式軽戦車で更新するとともに、第一線から引いた車両を改造し、こうして第二の任務を与えているのである。専用の重機には劣るものの、部隊の移動に迅速について行ける能力と言うのは重宝すると侘美は考えていた。
その向こうに駐機するのはいずれも新型機で、軽爆撃機は千島で初陣を飾った迅龍を擁し、戦闘機は三式を配備している。
三式戦闘機と言うと、後の時代ではP51ムスタングと比較される日本の名機として有名だが、それはまだ開発段階である。
その開発経緯は複雑怪奇で、川崎へと提示された1939(昭和14)年の段階では、ドイツの優秀な液冷エンジンDB601を搭載した機体とされていた。
DB601のライセンスは日本政府が50万円で購入し、川崎、愛知へと陸海軍を通して製造委託が行われていた。
しかし、当時の日本の技術力ではとても厄介なエンジンであり、クランクシャフトの材質も希少金属の使用削減を謳って変更した事が元で不具合が続発していた。それだけにとどまらず、本来欧州で実現しているベアリングの工作精度も達成できていなかったため、より問題を深刻化させていた。
さらに陸軍は水陸機動団の創設にあたり、既存の戦闘機とは一線を画す航続力を持った機体の必要性に気付くのだが、そこで白羽の矢を立てた三式戦闘機は制式化例が少なく、信頼性の面でもまだ不透明で、何より緊急展開や迅速な移動を旨とする部隊に冷却水を携えるのでは、負担も大きくなると予想され、一転して空冷エンジンの搭載を求める事になった。
川崎にとっては寝耳に水の出来事であったが、液冷型は継続開発とし、水陸機動団向けの機体を空冷化する指示を出した。
設計を担当する土井技師とひと悶着起こしたものの、最終的には二本立て開発で合意し、ハ112エンジンを搭載したⅠ型が先行して完成し、軍へと引渡されることになった。
空冷型は液冷型試作機の出した時速591kmなどという速度は望むべくもなく、552kmしか出なかったが、1942(昭和17)年当時としては及第点であり、そのまま採用されることとなった。
その後も開発が継続された液冷型は、オイル漏れや過給機の調整不良、さらにはエンジン製造の遅延などで部隊配備は遅々として進まなかった。
その状況が変わったのは、イギリスの停戦によって余裕が出来、希少金属の輸入が可能となってからである。
その頃になるとドイツではより高性能なDB605が生産されており、日本は急ぎそのライセンス購入と余裕のあったイギリスからの工作機械、資源輸入によってドイツ並みの性能を実現するエンジンの製造に成功し、三式戦闘機Ⅲ型の生産が行われる事となる。後の世で飛燕と言えばこの型で、1900馬力、時速652kmであった。
同じように愛知飛行機が彗星に搭載し、高速艦爆として活躍している。
侘美の部隊に配備されたのはⅠ型であり、ハ112を積み、1300馬力、時速552kmである。
「司令官!昼食の時間であります」
従卒が侘美に声を掛ける。
「おう。今日は何だ?」
「いつも通りです!」
「たまには他のものが食いたいんだが、マダガスカルの様な贅沢は望めないか。沢庵缶はおさえてあるな?」
「もちろんであります!」
ラエでの食事はケ魂部隊の活躍もあって輸送が途絶える事こそないものの、マダガスカルほど充実はしておらず、多くの場合が缶詰糧食に頼るものだった。特に侘美のお気に入りは沢庵缶であり、優先的におさえていたのだった。
1943(昭和18)年8月におけるアメリカ軍の動きは制海権が日本側に在り、ケ魂部隊がソロモン諸島を定期的に爆撃していたため、日本軍のソロモン再侵攻への警戒も行っていた。
マッカーサーはブーゲンビル島へ上陸してラバウルをいち早く狙おうとしたが失敗、ニューギニア島はポートモレスビーを起点にワウに進出し、日本軍が前進拠点とするラエを窺っていた。
対する日本軍はラエに水陸機動団を進出させるとともに、フィンシュハーフェン、グロースター、カンドリアン、マダンへと飛行場を建設し、第4航空軍を編成、各飛行場へと展開していった。
「工作車があると基地整備もあっという間だな。もとが戦車だからそこらの排土車より戦地向きだろうしなぁ」
侘美が暢気に出来るのも、九五式軽戦車を改造したブルドーザーが各地で大活躍して短期間に各飛行場を拡張、整備出来たからに他ならない。
陸軍飛行師団もインド方面や支那方面での作戦が無くなったことで機種更新を行って続々ニューギニアやニューブリテンへと集結している所であった。
「ところで司令官。うちはともかく、他の部隊、若い少尉が多くはないですか?」
従卒が配膳しながら侘美にそう尋ねる。
「何だ、貴様は知らんのか?連中は学徒出陣組だよ。何でもアメリカは真珠湾攻撃のニュースを読んで、愛国心に燃えた学生がこぞって志願したそうだ。イギリスの場合は貴族や富裕層には戦地に向かう責任があるし、戦時ともなれば皆、学業を放り出して銃を取るんだとさ。そんな話を盛んに新聞が報じた結果らしい」
「なるほど。そうだったんですね」
従卒がお茶を淹れながら納得顔で頷いた。
日本は当初、大学生の徴兵免除を継続していた。しかし1942(昭和17)年夏頃に新聞がアメリカの状況として伝えた内容が、真珠湾攻撃の報に触れて愛国心から募兵所へと殺到する学生たちと言う話題だった。
敵国を賛美するとは如何なものかと言う批判もあったが、軍では敵ながらあっぱれと誉めそやす風潮もあった。
それまで消極的だった学生たちがそんな新聞報道やラジオ放送に触れて次第に志願するようになった事から、この時期には短期育成で配属された新品少尉が最前線でも見られるようになる。
これも、工員はじめ多くの動員解除に伴う人員確保の一環で計画的に行われたプロパガンダだったのだが、結果的に優秀な士官や兵員の確保につながる事となり、そう言った志願兵たちを学徒出陣組と呼ぶようになっていった。




