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29・東部戦線の経過

 1941(昭和16)年6月22日に怪文書が示すとおりに始まったバルバロッサ作戦はその後の経過もほぼその通りであった。


 その状況に変化が訪れたのは、イギリス軍のマダガスカル攻略作戦が失敗して以降の事だった。


 この失敗で喜望峰経由でのレンドリース輸送に危険性が増し、アメリカ発の物資輸送が一気に減少していく。

 1942(昭和17)年8月には南雲艦隊がアラビア海での通商破壊戦を実施し、エジプト、イランへの輸送船航路はほぼ途絶してしまう。


 ドイツが発動したブラウ作戦の内容は怪文書のそれとはずれが生じていた。


 怪文書においてはスターリングラード、バクーの二正面作戦になると記述されていたが、ヒトラーは作戦立案においてアストラハンを目指した作戦計画を完全に否定し、ヴォルガ川に至る進撃そのものを不要と断じている。


「ソ連のアキレス腱など知った事ではない!我々に必要なのは我ら自身の血肉となる石油の確保である!!」


 そう言って参謀本部が想定した作戦計画をすべて破棄し、コーカサス占領に主眼を置くものとしていた。


 作戦発動後、ロストフが陥落すると総統指令第45号を発して直接指揮の下で油田地帯占領を目指す事を更に再確認させ、まずはマイコープやクバン川流域の油田地帯を占領したが、ソ連軍に施設を破壊された後だった。


 10月に至って何とかグロズヌイに達したものの、南方軍集団は燃料が枯渇してそこで停止してしまった。


 その状況にベルリンで吠えるヒトラーだったが、燃料が無いのではどうしようもない。


 ただ、ヒトラーの直感は正しく、ソ連軍の反攻作戦の規模が小さく、さらにタマン半島を橋頭堡としてカフカス戦線を構築するという戦略を採用していたので、ロストフなどが攻撃に晒されてもカフカス戦線自体に影響は受けない体制を確立していた。


 1942(昭和17)年11月25日、ソ連軍は反攻作戦ウラヌスを発動したものの、イランルートの遮断で十分な支援が受けられず、ほぼ自前で準備して作戦に臨むしかなかった。それはカフカス方面で最も顕著で、燃料はあるがそれ以外が用意できていなかった。

 スターリングラードへと撤退していた赤軍はロストフ奪還を目標に進撃を開始し、年末までにカフカス戦線とウクライナ戦線の分離に向けて順調に進んでいたが、そこにイギリスが停戦を発表し、イランルートの閉鎖を通告してきたのである。

 もちろん、ムルマンスクを目指す北方航路からの離脱も宣言。一気に支援が先細る事が決定的となってしまった。

 ドイツは不要となった北アフリカ軍団の多くをイギリスから接収した輸送船によってクリミアへと送り、ロストフを目指す赤軍をカフカス側から横撃する冬の嵐作戦を立案、1943(昭和18)年1月2日にその発動となった。


 冬季装備が不足した戦場ではマトモな進撃が行えず、結局中途半端に戦線を拡げただけの結果に終わってしまうが、ソ連にはドイツ軍をカフカス方面から圧迫するだけの戦力的余裕が存在していなかったため、ドイツ軍の無茶で無謀な作戦にも拘らず、凍傷や凍死といった自業自得の結果を除いて、大きな損害を与えることが出来ずに終わっている。

 同じころ、ルジェフにおいてもソ連軍の反攻作戦が行われていたが大損害を被り、その事実を長く隠蔽する事に繋がっている。


 1943(昭和18)年2月、ロストフへと向かう赤軍の遮断を完全にするために南方軍集団は南北からの包囲を開始する。

 こうしてモロゾフスク近郊で包囲網を完成させ、モロゾフ会戦により赤軍を撃破した。

 しかし、その北方でもソ連軍は攻勢作戦を実施しており、ウクライナ側の南方軍集団を攻撃するヴォロネジ方面軍によってソ連はクルスク、ベルゴロド、ハリコフの奪還に成功していた。


 これに対してドイツ軍はモロゾフ会戦による勝利によって南部での防衛線を確保し、南方軍集団主力は北上して奪還されたハリコフ、ベルゴロドへと反攻を開始する。


 そして3月に入ってハリコフを再奪取、ベルゴロドも奪い返し、一息つくことになった。


 1943(昭和18)年4月、ドイツはそのままクルスクへと向かおうと提案する国防軍に対し、ヒトラーはカフカス攻略の優先を主張し、本来南方軍集団へと配するはずだった物資や装備の多くをタマン半島へと向かわせた。

 南方軍集団を指揮するマンシュタインが強硬に反対するものの、ヒトラーは考えを改めることなくカフカス侵攻が再開される。

 ヒトラーが確信をもってカフカス戦線へと傾倒した理由の一つは、スペインの態度にあった。


 スペインはイギリスの停戦合意によってさらにドイツに協力的となり、スペイン義勇軍は第250師団だけでなく、さらに3個師団の増派が決まり、4月時点で第251師団が北方軍集団へと加わっていた。

 その頃のソ連軍はカフカス戦線へと兵力を抽出するためクルスク周辺の防衛線が虫食い状態となっており、能動的に反攻作戦を実施できる状態にはほど遠かったのだから、マンシュタインよりヒトラーの方が状況を理解していたのかもしれない。


 ただしドイツ軍も順調にカフカス作戦が実施できた訳ではなく、補給線の長さが致命的な遅延を生じさせ、得意の電撃戦からは程遠い戦いを強いられ続ける事になっている。


 そして1943(昭和18)年9月、アメリカによるアイルランド進駐によって、ここ9カ月ほど頭から離れていたフランス防衛という問題が再浮上してくることになるのだった。

 


 

 


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― 新着の感想 ―
欧州の戦いはグダグダになってるな。 このままソ連を引き付けてくれてるといいんだが。
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