三話
明るい部屋の中、ウルがゆっくりと目を覚ます。おぼろげな視界で最初に見たものは、ふわふわと柔らかい真っ白な毛皮だった。
「あったかい……」
ゆっくりとふわふわに顔をうずめて大きく息を吸い込むと、その白い毛が勢いよく鼻に飛び込む。一つ大きなくしゃみをすると、眉を寄せながら毛にまみれた顔を上げた。ゆっくりと上体を起こし、改めて自分が寝ている部屋を見渡してみる。砦の黒い岩壁や床とは違う木の床に壁、天窓から差し込む光と、あまりにも見慣れない部屋にウルは面食らう。ベッドの上でキョロキョロと辺りをうかがっていると、目の前のふわふわも動きはじめた。驚いたウルが飛び退き、腕で顔を覆う。固く目を瞑って次に備えるが、ただただ何かの息遣いが聞こえるばかりだった。恐る恐る薄目を開けると、そこにはニコニコと笑いながら座っている一匹の白い犬がいた。
「なんだ?」
ウルはおずおずと腕を下げる。はっきりとお互いの視線が合った時、犬はゆっくりと顔をウルに近づける。そして、そのままクンクンとウルの顔全体を嗅ぎ始めた。
「わっ、わっ、なんだ!やめろ!」
怯えるように体を縮こませるウルに構わず、犬は夢中でウルを嗅ぎ続ける。犬の執拗な詮索が顔だけにとどまらず身体全体へ回り始めた頃、湯気を立てるマグカップを持った男が部屋へ入って来た。男がピュイ、と短く口笛を吹くと、犬はその短い耳をピクリと動かしてベッドから降りた。犬が男の足元で座りながら尻尾を振っている一方、ウルは状況が掴めずにいまだベッドの上で縮こまっている。
「もうなんなんだよ……!」
涙目になりながら力強く呟くウルを見て、男は声を出して笑った。
「気分はどうだ?気持ちが悪かったり痛んだりするところは無いか?」
男は笑いながらウルにマグカップを差し出す。ベッドの縁に腰掛けたウルがおずおずと手を伸ばしてそれを受け取ると、中には温かいお茶が注がれていた。
「あ、ありがとう。特にない、大丈夫」
「そうか、何よりだ!ここに着いた時は今にも凍え死にそうになってたんだぞ」
少しずつお茶を啜るウルを見て安心したように微笑むと、男はベッドサイドに置いてあった椅子に腰掛ける。そして訪れる静寂。お互いがお互いの顔を見て出方をうかがっているようだった。ウルの顔に困惑が浮かびだしたころ、男が何かに気づいたように慌て始める。
「あ、もしかして俺のこと覚えてないか?まぁ、お前も小さかったしな」
説明する言葉を探すように首を回す男に既視感を覚え、ウルは小首を傾げる。
「おじさん、僕はもしかしてあなたに会ったことがある?」
ウルがそう尋ねると、男は勢いよくウルへと顔を向けた。大きく開かれた目には喜びが浮かんでおり、悲しげに垂れていた眉に元気が戻る。
「覚えてたか!久しぶりだなぁ、ウル」
ニコニコと笑っている男の顔にどこか懐かしさを覚えたウルは、無意識に肩から力を抜いた。
「でも、名前は覚えてない。ただ、なんだかすごく懐かしい感じがする」
「気にするな。もう長い間会っていなかったしな。俺の名前はジュタン、ロゼとシリルとは古い知り合いだ。よろしくな。こっちの犬の名前はニコ」
自分が呼ばれたと思ったのか、ベッドへと飛び乗ったニコが二人へと顔を向けた。ウルもニコに慣れたのか、先ほどのような怯えは見えない。
「よろしくお願いします、ジュタンさん」
「そんなに畏まらなくていい、ジュタンでいいよ」
そう答えたジュタンは、鷹揚に頷いて手を差し出した。ウルが握手で返すと、ジュタンはまた破顔してみせたのだった。その時、はたと何かに気づいたウルが動きを止めた。
「そうだ、ロゼはどこ?一晩中ホバーを運転してたんだ。絶対に無理してる」
いそいそとベッドから降りようとするウルを、ジュタンが押し留める。
「まぁ待て。ロゼはここには居ない。砦の様子を見に行ってるからな」
「えっ?」
そう聞いた途端、ウルの顔に落胆と心配の色が広がった。呆然とジュタンの顔を見つめていると、困ったように笑うジュタンが一通の手紙を取り出した。
「これはロゼから預かったものだ。ウルにだよ」
カップを傍らのデスクに置いたウルは、手紙を受け取る。その手紙には流麗な字が連なっていた。
《ウルへ
私は砦の様子を見に行きます。あなたはこのままジュタンと共に居てください。きっとあなたにとっても良い機会だと思う。心細いと思うけど安心して、ジュタンは見かけによらず優しい人です。たくさんご飯を食べて、しっかり寝て、そしてたくさんの事を学びなさいね。ロゼ》
眉尻が下がったままのウルは、ゆっくりと顔を上げた。滲んだ涙をこらえるように、ゆっくりと話し出す。
「ロゼが、ジュタンは見かけによらず優しい人だって。それで、ジュタンと一緒に居なさいって書いてある」
そう言ったウルを見て、乱暴にその頭を撫でるジュタン。大きく揺れる頭に合わせて、何粒かの涙がこぼれる。ウルは慌ててそれを拭うと、ベッドの上で居住まいを正した。
「ジュタン、これからお世話になります。僕に出来ることは何でもします。邪魔にならないようにします。よろしくお願いします」
そんなウルを見て面食らったように目を見開いたジュタンは、慌てた素振りでウルをなだめた。
「そんなに気を遣わなくていいんだぞ。慣れないことも多いだろうが、こっちにも良い点はある。寒い夜に布団に潜り込んでくるニコは最高だし、俺は見かけによらずいい人だしな」
再び破顔するジュタンを見て、釣られたようにウルも笑う。
「とにかく、腹が減っているだろう。まずは茶をゆっくりと飲め。今スープを作っているから、食欲が出てきたら食べよう。伝えたいこともあるが、まずは体調を戻す方が大事だ」
そう伝えて微笑むと、ジュタンは部屋から出ていった。ジュタンが出ていった後もしばらくベッドの上で畏まっていたウルだが、そのうち気が抜けたように体を横たえた。その揺れに気付いたニコが、ウルの顔に鼻先を寄せる。
「お腹、空かないな」
ウルは、そう呟いて体を起こす。そして、デスクの上に置かれたマグカップを取り、ゆっくりと口を付けた。
スープが入った鍋を置いて二人座れば埋まってしまう小さなテーブルで、二人は静かに食事をとる。啜ったスープを静かに飲み下したジュタンは、静かに話を切り出した。
「これからどうするか、既にロゼとは相談してある。先ほども伝えたが、まずは体調を戻そう。体調が戻ったら街に行く」
スプーンを持ったまま固まるウルに、ジュタンは真剣な視線を向ける。ウルは眉間に皺を寄せながら一度止まったスプーンを再度動かし始めた。よく炒められた玉ねぎの甘みが溶け込んだスープは、たっぷりと湯気を立ち昇らせている。ウルはスプーンにすくった蕪を口に入れてゆっくりと噛み締めながら、改めて先ほどの言葉を反芻する。ようやく蕪を飲み込んだのか、その喉が大きく動く。ジュタンと目を合わせたウルは、意を決したように口を開いた。
「僕はずっとここにいるんだと思ってた。ここで先生とロゼを待つんだって。なんで街に行くの?」
ウルの言葉を聞くと、ジュタンは持っていたスプーンを置いた。そのまま口の中の物を飲み込むと、先ほどより少し柔らかい声色で話し始めた。
「ここでの二人暮らしは、ちと無理がある。それに、街に行った方がお前の経験になるしな。ロゼに行先は伝えてあるから、そこは問題ないぞ」
神妙な面持ちのウルは一通り話を聞くと、歪に口角を引き上げて弱弱しく笑った。
「分かったよ。僕に何が出来るか分からないけど、精一杯頑張る」
そう言って頷くウルの顔を、ジュタンは心配そうに覗き込む。
「心細いかもしれんが、あんまり心配するな。それに、案外気に入るかもしれんぞ。年の近い友達や、もしかしたら彼女もできるかもな!」
そう言ったジュタンに、ウルはきょとんとした顔を向けた。それでも、何とか話を合わせようと明るい声を出す。
「そうだね。僕、街って行ったことないから楽しみだ!」
言い終わると、ウルはスープを口に含む。ニコがその膝へと頭を乗せたことにすら気づかないほど、ウルの心は不安と寂寥感に満たされていた。ただ黙々と食事を続けるウルを、ジュタンは眉尻を下げながら見つめていた。




